山伏と知恵のひと雫

雪解けの水の雫が尾根を下り日本海へ注ぐ。生と死の循環が繰り返される地「出羽三山」
雪解けの水の雫が尾根を下り日本海へ注ぐ。生と死の循環が繰り返される地「出羽三山」


風に耳を澄ませば

仰ぎ見れば澄み切った青空。彼方には灰青の陰影をなす山々が連なり、眼下にはなだらかな尾根が重層する。チシマザサに覆われた斜面は強い日射しを照り返し、濃緑の海原に白波が揺れるかに見える。出羽三山の主峰、月山の夏。白装束に身を包み、僕らはその頂きに続く道を歩いていた。
ごおおおお。谷合の風が静寂を割いて運ぶ、雪解けの水音。巨大な残雪が幾つもの水流となって尾根に刻まれた沢を走る。生まれたてのひと雫は谷を駆け下り、大河となって庄内平野を潤して、果てに広がる日本海へ注ぐ。そして、いつか雨雪となりこの山に還ってくる。
この大いなる雫の循環は、少なくとも30万年前から、絶えずこの地に繰り返されてきた。途方もない自然の営みを思う。その眺めを前に白装束が風にはためく。少し身体が軽くなった気がして僕はまた一歩を踏み出した。


道の奥に出羽三山

出羽三山。羽黒山、月山、湯殿山の総称で、山形県の中央から日本海側にかけ位置している。歴史を紐解けば三山は一意的でなく、「羽黒三山」や「奥の三山」とされた時代もあり、江戸時代が始まるまでは羽黒山、月山、葉山で三山、湯殿山は総奥の院とされた。この山々が修験者の行場となり、山伏たちが定住し始めたのは少なくとも平安時代中期に遡るという。
僕が初めてこの地を訪れたのは10年以上前。当時は学生で祭礼を見にあちこち歩いており、豪雪の大晦日に羽黒山山頂でおこなわれる松例祭を訪ねたのだ。その頃大学のキャンパスではグローバリズムという言葉が飛び交っていた。各国の多国籍企業がその経済活動を押し広げることにより、従来の国家の形は崩れていくだろう。同時にそれは社会的・文化的な影響を諸国にもたらし、地域固有の文化の諸々は根本的に変質したり、失われていくだろう、といわれていた。未来はわからなかったが、何が変わり、何がなくなるのかをこの眼で見ておきたいと各地に赴いたのだった。


山伏になる

翌年、大学のゼミ合宿で出羽三山を再訪した。これまで諏訪や伊勢が訪問先だったが、今年は出羽三山で山伏修行を体験しようと、羽黒山麓の宿坊にお世話になり2泊3日の山伏修行に参加したのだ。初めて着る白装束には気合が入るもの。聞けば、羽黒の山伏たちは「秋の峰」と呼ばれる修行で、入山前に自分のお葬式をあげるというのだ。自らを死者、山を他界であると同時に胎内とみなす。修行は死者となった山伏が新たな生を受け、胎児として生長しゆく過程であり、最後に山を駆け下りるのは、新生児として産声をあげ再生を意味するのだと。3日間の合宿ではあるけれど、そのような世界の一端に触れることに僕らは身の引き締まる思いがした。一旦修行に入れば、あとは渦巻く濁流に身を投じるがごとく次々と修行の衝撃を浴び、瞬く間に3日間が過ぎていった。その体験はすぐに言葉になることはなかったが、心にひっかかりを残した。何だったのだろうと考えるうち足は三山に向かい、以後毎年修行に通うことになる。山伏修行の経験は、腹の底に沈殿し、少しづつ発酵するようにして、今の自分の軸といえるものを形成していったと思う。いつしか山伏は僕となり、僕は山伏になっていた。


「ねじれ」はらむ山へ

月山の弥陀ヶ原に立ち法螺貝を吹く筆者
月山の弥陀ヶ原に立ち法螺貝を吹く筆者

僕が毎年8月24日から9月1日に羽黒修験の秋の峰に入るのは大切なことを忘れないためだ。いわゆる登山と異なり、山伏の峰入りはある種の「ねじれ」をはらむ。秋の峰においては、本来決して交わらない生と死、母胎と他界が、ねじれをおこして一つになっている。自分の生前の過去や、死んでからの未来はどうしたって経験できない。しかし羽黒修験では、人が胎内に宿っているときと、誕生から死までと、他界した後とをそれぞれ海に喩え、修行の過程としてこれら三つの海を渡るのだ。
山駈ける修行者たちの身体は有限なもの。いつかは病に伏し、老い、死を迎える。これら有限な存在が過去・現在・未来を渡るとは一体どういうことだろうか。このことは、生老病死する僕たちの有限性のうちに既に限界を越えるものがあるとして初めて考えることができる。羽黒修験が教えるのは、この身このままの現在に、生まれる前の過去と、死んだ後の未来とが挿入され、重層的に折り畳まれている、ということなのだ。ちょうど氷山がその一角を海上に現して大部分を海に沈めているように、世界は生の営まれる陸上の部分と、生に先立つものや死がねじれ交差する海面下の部分で成り立っているのだ、と。

そればかりではない。秋の峰で行者たちは、十界行*と呼ばれる修行をおこない、僕たちの心の成り立ちにも、海面下の部分があることを知る。人の心は十の世界で構成されるとして、 行者はそれぞれの世界において、地獄の苦しみに喘ぎ、餓鬼となって飢え、畜生となってその身を野生に委ね、修羅となって他と争い、最後には仏にいたるという段階をふむ。心は、「人間としての私」だけでなく、異なる心が累乗された多様体として成り立っていることを経験するのだ。山伏たちは地獄や餓鬼、動物からの眼差しや、仏の眼差しからなる、はるかなる視線を知るのである。


山伏の「いきる知恵」

山伏たちは、生の陸地から他界=胎内の大海に潜り、再び陸地へ出生する。その姿が教えるのは、ひとつの生のうちに折り畳まれた他者とのつながりを忘れないこと。それが山伏のいきる知恵だと僕は思う。

山伏は、その知恵を、山から学んだのではなかったか。春の訪れとともに、豪雪の月山にあふれるほどの緑が芽を出し、動物が目覚め、ありあまる山菜が産まれるのを見て思う。山伏たちが海面下の世界から生の陸地へ再生するように、生きとし生けるものが圧雪の淵から立ち現れる。自然とは死と再生を繰り返す大きな循環に付けられた名なのだと思う。そして自分もまた、いつかその一部として大地に還る存在なのだと。


自然とともに生きる技術

 
「この大地はいつになってもなくなんないわけ。残っていくわけ。
 何としたって人間は大地がねえと生きていけねえさけや。大地を大事にしていく生き方しねえとや」

月山山麓の北西、鶴岡市田麦俣(地図 1)に住む遠藤康明さんはいう。大陸からの季節風がとめどない雪を運ぶ山間の集落で、今も生活必需品の和かんじきを作り継いできた。春にはイタヤカエデを収穫し水に漬けてツメをつくり、秋にはオオバクロモジを調達し灰で曲げて輪の部分とする。輪にツメを組み合わせる技術に余人の及ばぬ経験が宿る。


雪深い出羽の冬に欠かせない和かんじきを作る遠藤さん



庄内平野に囲まれた鶴岡市藤島(地図 2)に住む斎藤栄市さんの手には、米どころ庄内に蓄積された藁細工の知恵と技術が保存されている。

「どうせ好きでやんなだばの、聞かれたとき、『俺知らねえな』ではやっぱり先つながってこねえさけ。
 一通りの編み方は聞いておいたんだ」

まだ三山に車道がなかった時代、山小屋に荷を運ぶ強力たちが背負ったばんどり。出羽三山信仰を支えたこの手仕事を編める数少ない1人だ。

山々へ荷を運ぶ強力たちの必需品ばんどりを編む斎藤さん


遠藤さんや斎藤さんの話を伺うと、彼らのものづくりが自然に対峙し、自然を読み、自然の生長にその営みを適合させる中でつくられてきたことがわかる。それは、山伏たちが修行によって自らを自然から生まれた存在として再定義するのと同じように、ものづくりによって自らを自然化し、自然との関係性をつけてゆく過程といえる。自然といきる技術がここにある。
この地に残る精神文化と数々の手仕事は、自然とともにある人の姿を今でもかろうじて映し出している。その中へ足を踏み入れてゆけば、きっとその道は今をいきる知恵につながっているに違いない。


風通信」 48号(2013年11発行)より転載


成瀬さん監修の講座


  講師:遠藤 康明(2泊3日 1月下旬〜5月上旬のご希望日に開催)

希望日による

「ばんどり」を編む


  講師:斎藤 栄市(2泊3日 1月下旬〜3月上旬のご希望日に開催)
 

出羽庄内地域を訪ねる国内旅行