ネパールのために何ができるだろうか?

「12月27日からネパールに行きたいと思うのですがよろしいでしょうか」。久保校長(当時の長野県丸子町立丸子北小学校校長、故人)は、少々顔を歪めながら「じゃあ、通信簿は26日までに仕上げて子供たちに渡しなさい。帰ったらレポートを書いてもらうよ」。と意外なほどあっさりと許可してくれた。
実は、私はその年の4月にこの学校に採用されたばかりだった。それなのに2学期の終業式を欠席してネパールへ行くとは論外である。しかし、比田井博(初代弊社オーナー、故人)に“ネパールへ行かないか”と誘われた瞬間に私は“行きます”と即答した。時折テレビなどで見るネパールの映像に魅かれていたからだ。まさか、これが私の人生を大きく変えるとは想像だにしなかった。しかも、これが初めての海外旅行だったのだから人生どうなるかは判らないものだ。
成田空港を飛び立ったパキスタン航空は搭乗した瞬間から外国だった。人が違い臭いが違った。バンコクからはタイ航空で欧米系の人が一挙に増えた。パキスタン航空に比べると雰囲気も明るい。漸く到着したカトマンズの空港は、まるで田舎のバスターミナルのようで、ターンテーブルもなくて木製の台があるだけだった。入国審査は、私服のネパール人がイミグレーションカウンターに何故かたむろしていて、誰が審査官かよく判らず時間がやたらとかかった。VISA代は10ドルだったと思う。
空港からカトマンズの市街地に向かい「ペンション・バサナ」に到着。小休止の後、同行者数人でカトマンズの中心街、タメルやダルバール広場に徒歩で出掛けた。テレビで見ていた印象とは全く違う世界が広がっていた。土埃とむっとする臭い。車と人が蟻のように行き交う雑踏。いたる所に投げ捨てられているゴミ。それを食べる牛たち。今から考えると、あれがカルチャーショックというものだったのだろう。しかし、私は、カトマンズのこの混沌とした光景に言いようのない生命力を感じた。戦後の日本もきっとこんな感じだったに違いない。“人が生きるってこういうことなのか”などと妙な興奮を覚えた。
その夜、ホテルで夕食をとっていると、トレッキングのガイド、プリスビーがやってきた。物静かなまじめそうな青年で好感がもてた。彼がNEPAL KAZE TRAVEL CO., Ltd (NKT)の社長になり、この私が風の旅行社の社長になって一緒に旅行の仕事をするのだから運命的な出会いである。
翌早朝、まだ暗いうちにワンボックスワゴンでポカラに向かった。少し明るくなってくると道路の側に建つ民家が見えてきた。どれも家というよりは小屋のようなものだ。小さな子供たちは、下半身は何も身に付けておらず青っ洟をたらしていた。洟をたらしているのは私の子供のころと全く同じだったが、子供とは思えない表情の暗さに唖然とした。
昼過ぎにポカラの街に着いた。カトマンズの喧騒とは打って変わってのんびりした街だった。翌朝、早めに朝食を済ませ車で街外れのターミナルまで行き、そこからは乗合ジープで一時間ほど河原を走って登り口のフェディまで行った。車道は既にできていたが一般車両は通行不可で乗合ジープだけが通行を許されていた。その年の夏まではこの乗合ジープもなく、ポカラから歩いてトレッキングを開始していたというから劇的な進歩である。
トレッキングは、全行程が4泊5日。全日、天気はすこぶるよかった。3日目の早朝登ったプーンヒルからの眺めは今も忘れることができない。歩けばすぐに頂まで到達できるのではないかと錯覚するほど周りの山々が近く見えた。実際は約3,000mの丘から8,000m峰を望んでいるのだからそんなはずはない。ヒマラヤは、それほどまでに大きく、そして美しかった。アンナプルナとはサンスクリット語で“豊穣の女神”であるが、頷けるというものだ。
最後の日はガンドルンからダンプス経由でフェディまで駆けるようにして下りた。フェディからでる最終の乗合いジープに間に合わないとポカラまで歩かなくてはならない。なんとか間に合ったが立ち乗りになった。半分身体が外に出たままの“つかまり立ち”で約一時間、河原の道を揺られた。ポカラに着いたときには、すっかり夜の帳が下りていた。
ヒマラヤはあんなにも雄大で美しいのに、ネパールの人々は底抜けに貧しかった。ヒマラヤと比べられても詮無いことだが、笑顔を忘れ絶望しきった顔が街中にあふれていた。それが、私が初めてネパールに行ったときの率直な感想である。私にいったい何ができるだろうか。そう考えれば考えるほど空しかった。
とにかくこの旅がきっかけとなって、私は、帰国して一年余りで教職を辞し、再び上京して旅行会社で働くようになった。そして、1991年に比田井と一緒に“ネパールを売る”ために風の旅行社を始めた。それが、私の一生の仕事になったというわけである。
本年4月25日、ネパールを大地震が襲った。“神には慈悲はないのか。あんなにも貧しい人々をこれ以上苦しめてどうするつもりだ”。と腹が立った。支援金は8/7現在で820万円を越えた。この場を借りて心より御礼を申し上げる。弊社スタッフも私を含めて5人が交代でネパールへ入り、明日8/8から私も再び現地入りする。
ネパールは、私にとっても弊社そして弊社スタッフにとっても特別な国である。“私にいったい何ができるだろうか”と問うた27年前の答えが今はあるように思う。一人でも多くの方にネパールへ行って頂きたい。それが復興への力になる。そう信じて精一杯支援を行っていきたいと思う。


※風の季節便(2015年冬〜春号)より転載

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