Daisuke Murakamiのラサは今日も快晴

最近読んでいる本 [TOKYO・ANTHROPOLOGY]

 

日本は雨続き。
チベット・ラサでは到底ありえない雨の降り方、である。
こんなに長期間かつ長時間、雨を体験するのは何年ぶりのことか・・。

だが、雨季ということは、
見方を変えれば読書日和ということである!(笑)
ということで、今日は最近読んでいた人類学本について少し書いてみたい。


(チベット人の聖地・カイラス)

まず一冊目。
能登路雅子氏の『ディズニーランドという聖地』(岩波新書)

まず核心から。

「ディズニーランドとは、一体、誰のために何の目的でできたものなのかー。
それは、もともと、子供を相手に作られた遊園地ではなかった。
ウォルト・ディズニーが対象として頭に描いていたのは、第一に、
すべての人間のなかに潜む「子供性」ともいうべき部分であった」(同30頁)

著者は、東京ディズニーランド建設の際、異文化コーディネーターとして
カリフォルニアのディズニー本社と日本の業者(オリエンタルランド)の間を橋渡しした実体験をもつ。
その体験をもとに、人類学的な視点から、
アメリカの大衆が、そして我々が、なぜディズニーランドに惹かれ続けるのか
非常に興味深い洞察をこの本の中で行なっている。

重要概念になってくるのは、我々のこころに栄養分を与えている「子供性」である。
そしてその子供性を蘇生させ活性化させるための、
空間装置がいかに巧みに作られているか、
虚構に過ぎないアトラクションになぜ「リアル」を感じてしまうのか、
そういうアメリカ大衆文化とはいったい何なのか、などと問いかけながら
「白雪姫」「カリブの海賊」などのアトラクション、
そして創始者ウォルト・ディズニーの心象世界を遊覧するという内容になっている。
その探究のなかで、我々の前に立ち現れてくるのが、聖地としてのディズニーランド、である。


ディズニーランドという聖地』(能登路雅子 著)

この本、大昔に読んだのだが内容をすっかり忘れていた。
今回は、「観光文化学」という大学講義の準備ために改めて読み直してみたのだ。
すると、まぁ、なんと、この本のなかには、
観光業においてツアーを作り、販売していくためのヒントがあちこち散りばめられているではないか!!
(風の企画係のスタッフのみなさーん!!きいていますかー? 笑)
歯切れのよい文体で書かれ、無駄な言葉がほとんどなく、
人類学など知らなくともスイスイ読める。

<ディズニーランド=聖地>という見方は今でこそ陳腐になっているのかもしれないが、
この著者のディズニーランド案内は、本場のディズニーランドと同じく、
こちら側の批判力を弱めるような魅惑的な物語展開である。
ディズニーランドなど地球上で一番最後に行くべき場所のように思っていた僕でさえ、
改めて行ってみたくなってくるのだ(笑)。
これは人類学という学問独特の「呪術」なのかもしれないが(苦笑)、
人類学者に対しても呪術をかけることができるような人類学本・論文というのは、
実はそうは多くはないと思う(とくに最近は)。

ということで、おすすめの本である。

二冊目!
陣内秀信氏の『東京の空間人類学』(ちくま学芸文庫)
この本は読むべきではなかった・・。
なぜなら、この本を読んでしまったがために、
僕の中にあった<東京空間散歩リスト>が限りなく増大してしまったからだ(笑)。


東京の空間人類学』(陣内秀信 著)

この本も上のディズニー本と同じく、今では古典となった本なのかもしれない。
出版は30年前、それゆえ、「現代東京」のデータはもっと以前のもの、ということになる。

とはいうものの、この著作は最近出版され続けている数多(あまた)の東京空間論の、
インスピレーションの源泉のひとつになっている。
(おそらくは、十年ほど前に流行った中沢新一先生の「東京アースダイバー」もこの本から影響を受けたものと思われる。)

この本は、江戸時代における「首都創生」の時空間に、我々をタイムスリップさせる。
読み進んでいくうちに、東京という巨大な都市空間の表皮が少しずつ剥がされ、
本の紙面の上から、大地の匂いのようなものが漂ってくる。
その匂いが感じられる理由は明白だ。
東京の土地の匂いに史上初めて鋭敏にならざるを得なかった人々というのが、
数百年前江戸に都市空間を創った武士や町人たちであり、
この本は、彼らの創意や自然との関わり方、繊細な空間感覚を詳述・分析していくのだ。

人は大地の匂い、リズム、理不尽さに触れたとき、
そして、それと共生しなければならないとき、
それと敵対し合わないという方法で、
または、それを取り込んである種の精神性に昇華するという形で、
自分たちの生活空間・都市空間を作り上げていく。


(御茶ノ水駅付近にて)

この本を読んでいくうちに、
荒涼とした武蔵野台地、遠景(ヴィスタ)としての富士山や筑波山、
そして「山の手」が、坂や橋や水路が、改めて意識の中に組み込まれ、
同時に新たな命が吹き込まれていくように感じられる。
まるで記憶にないものを思い出すかのように。
大げさに聞こえるかもしれないが、
それは、東京をある種の認識空間と措定すると、
無機なるものの聖化といったような体験になってくる・・。

ちょっと文体がかたくなってきたが、
めげずに最後の三冊目、である!(笑)
宇宙人類学の挑戦』(昭和堂)!


宇宙人類学の挑戦』(岡田・木村・大村 編)

先週末、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の方に誘われて、ある美術展覧会に行ってきた。
東京都現代美術館の<ミッション[宇宙×芸術]コスモロジーを超えて>。
宇宙に関するアート、もしくは、宇宙空間で試みられた芸術活動の記録である。
この展覧会は、これまでアートと呼ばれてきたものが、無重力という場とどのように対峙し
作品を作り出していくかの実験的な試みとなっている。

(科学も芸術も新しい世界認識の次元に我々を誘うという意味で)
宇宙に人類が出て行って活動すること自体、もうすでにそれだけで「芸術」のような気がしないでもない。
だが、宇宙を芸術化しようとする展覧会の作品群は、いろいろ考えさせられ面白かった。

ところで、
宇宙に進出しているのは、なにも科学技術や哲学や芸術の世界だけではなく、
最近では人類学がその射程を宇宙に広げつつある。
それは「宇宙人類学」と呼ばれる。
「宇宙でどうやってフィールドワーク(現地調査)すんねん!?」
「宇宙人の文化でも研究すんのか!?」
などという揶揄や疑問はもっともである。

それでも、宇宙を目指す人間の営為を研究しようとする人類学の欲望は、
これからどんどん膨れ上がっていくように思われる。
上にあげた『宇宙人類学の挑戦』という論文集は、その端緒となろう。
ここではもう解説はしないが、今月出版されたばかりの本なので、
興味ある方は、なんの予備知識もなしにそのまま素で読んで頂きたい。


(天の川とサトウキビ。沖縄・竹富島にて。)

僕はといえば、この本を読みながら、
「いつしか、論文のカタチで、宇宙と自分のチベット体験を繋げることができたら・・」
などといろいろ夢想してしまった。
なにせチベットは「地球上で一番宇宙に近い場所」なのである!
東京生活が長くなってしまったので、ただ単に思い込みが激しくなってしまっただけなのかもしれないが(笑)、夢はふくらむ。

それはさておき、
これらの本を読みつつも、僕の最近の精神活動の中心は、自分の本の出版の準備にある。
本はチベットに関するもの。
タイトルも構成も定まっていないのだが、中身はもうだいたい書き上げた。
それは過去三年の間、「中外日報」という仏教新聞紙上で長期連載をしていた
チベットの宗教文化や現代ラサについての70回分の記事である。
そして、もちろん、「ラサは今日も快晴」のブログのなかからも、
よさそうなものをピックアップして載せようと思う。

できあがる本は、人類学の専門書というよりも、広く一般のみなさんにも開かれたものであり、
チベット仏教の崇高な話というよりも、聖俗混交したチベットの宗教世界の話であり、
チベットの政治や歴史といった大きな話(グランド・ナラティヴ)ではなく、
フツウのチベット人の生活感覚をみなさんにも体験してもらうようなものにしたいと思っている。


(ガンデン寺の巡礼路にて。ここは、素晴らしい。)

そしてもちろん、聖地巡礼も大きなテーマとなろう。
それはチベットだから、というよりも、僕のライフワークだからである。

こんなことを書くと、急に聖地に行きたくなってきた・・。
あの空気が吸いたくなってきた!!
近場のディズニーランドではダメだ!

やはりチベットの聖地がいい。
聖地でなくとも、あの青空があればいい。
八月の風のラサ駐在。
今からとても楽しみだ。

このブログを書き始めたとき降っていた雨もあがり、晴れてきた。
満月が美しい。
なにかの吉兆か。
そう思いたい。

Daisuke Murakami


(部屋の窓から撮った満月。下の暗闇は麦畑。)