特別記事

古地図で歩くクスコ・インカ帝国 タワンティン・スーユの面影を求めて

 

文●篠田直子(ペルー支店)

タワンティン・スーユと世界の中心クスコ

インカの発祥から滅亡までの歴史などを描いた壁画
インカの発祥から滅亡までの歴史などを描いた壁画

南アメリカ大陸の地図を広げると、太平洋岸沿いの南北7,500km、幅750kmにわたって世界最長といわれているアンデス山脈が走っています。アンデス山脈は昔々は海の底にあり、250万年前(新世紀/第三期末)頃、海底から隆起してできました。クスコも、もともとは湖であったところが少しずつ干上がって、今のような盆地になったのです。このアンデス山脈の盆地に、かつてのインカの首都であったクスコ(世界の中心・臍の意味)の街があり、ケチュア語を話す部族が行きかっていました。そして今もなお、この小さな盆地は、世界遺産のマチュピチュ遺跡を訪れる世界中の人々で活気に溢れています。

クスコ地図
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インカ時代、人々は自分たちの国をタワンティン・スーユ(4つの州からなる国)と呼んでいました。そこにはクスコを拠点として、東西南北への王道が巡らされていました。のちにこのタワンティン・スーユを私たちは『インカ帝国』と呼ぶようになりました。クスコではタワンティン・スーユの4つの州からインカの民が集められ、神殿、公共の建物、多くの石の建造物が造られました。インカの人たちの文化、暮らしぶりはどんなものだったのでしょう。クスコの石壁の路地を歩きながら昔へと「時間」を遡ってみましょう。

クスコの街はピューマの姿

クスコがインカの都として知られるようになったのは9代皇帝パチャクティの時代になってからのことです。このパチャクティ皇帝が太陽信仰を掲げ、太陽の御子として大きな勢力を持ち、多くのインカの農民たちを使い、太陽の神殿をはじめ公共の重要な建造物をつくり、クスコの都市計画をし始めたのです。「クスコはピューマの姿のような街づくりをした」と、『インカ皇統記』を著したガルシラーソは書いています。アンデスに住む昔の人々の世界観では、ピューマやジャガーなどのネコ科の動物は、神様のように崇められていたのです。

ピューマの頭部にあたる遺跡サクサイワマン
ピューマの頭部にあたる遺跡
サクサイワマンにて(地図中 Ⓐ)

ピューマの頭の部分はサクサイワマン遺跡(地図中 Ⓐ)。胴体は中央の部分HANAN CUSCO(上クスコ)とHURIN CUSCO(下クスコ)で、尻尾は二つの川(ワタナイ川とツルマヨ川)が合流する地点(地図中 Ⓑ)です。ここはPUMAP CHUPAN(ピューマの尾)と呼ばれています。インカの王道(地図中 Ⓓ)は、中央広場(地図中 Ⓒ)からタワンティン・スーユの4つの州、つまりアマゾン方面の東の州アンティ・スーユ、太平洋方面の西の州クンティ・スーユ、チチカカ湖やボリビア方面の南の州コリャ・スーユ、エクアドル方面の北の州チンチャイ・スーユへと続いています。道幅は狭いところで3m、広いところでは20mの幅があったことが確認されています。インカ皇帝、インカの人々はこの王道を自在に歩いたのです。10代皇帝トゥパック・インカ・ユカンキ、11代皇帝ワイナ・カパックの時代にインカ帝国は次々に勢力を伸ばし、とうとう最盛期には北はコロンビアのマウレ川、南はチリのアンカスマヨ川まで領土を大きく広げました。

インカ王たちの宮殿と公共の建造物

10代皇帝のトゥパック・インカ・ユカンキの宮殿跡の石壁
10代皇帝のトゥパック・インカ・ユカンキの宮殿跡の石壁
6代皇帝ロカの神殿にある12角の石
6代皇帝ロカの神殿にある12角の石
(地図中 ⑥)
インカ時代には大規模な道の整備も行われた
インカ時代には大規模な道の整備も行われた

インカは文字を持たなかったので、彼ら自身が残した記録はありません。スペイン人の征服者ピサロたちが、この南米大陸に到着した1532年頃から、スペイン側によりこのインカ帝国の様子が記録されていき、多くの書物の中から、インカの様子が次第に分かってきました。
このピューマの姿をした街の中には、太陽の御子と呼ばれ、神聖な存在としてインカの民から崇められてきた、インカ皇帝たちの宮殿といわれる建造物がたくさん残されています。その中でも最も重要な建物、光り輝く神殿だったのが、太陽の神殿・コリカンチャ(地図中 Ⓔ)です。太陽信仰を持つ彼らにとって重要な、聖なる太陽へ祈りを捧げる場所でした。中には歴代のインカ皇帝たちのミイラがまるで生きているかのように玉座に座らせて置いてあったのです。この神殿を拝するときは誰もが足をきれいにしてから入りました。スペイン人でさえ同じように裸足で入らせたというぐらいに大切な場所でした。
4つの州から代表者(長官)がクスコに来れば、この太陽の神殿を案内し、インカ族は歴史ある部族だということを示さなければなりませんでした。また、太陽の御子である初代インカ皇帝の宮殿、2代インカ皇帝の宮殿…、と歴代の皇帝のために立派に石積みされた宮殿もそれぞれ案内しました。インカの石造り建築では時期や建物の用途によって異なる様式が使われていました。インカ以前から石組みの技術はありましたが、それらがインカ時代になると、技術、技法がさらに磨かれていったのです。
また代表的な建物の中に、太陽の処女の館・アクヤワシ(地図中 Ⓕ)があります。太陽の処女とは、チチャ(トウモロコシで作った醸造酒)作り、機織、ケチュア語などの技能に秀でた女性達のことです。地方から連れてこられた太陽の処女は、アクヤワシでインカ王、貴族、神官たちのために働きました。ピサロの秘書だったペドロ・サンチョは「クスコの街は全土の中でもひときわ素晴らしく美しい街だ。王たちが大きな家を持ち、首長たちもそれぞれに家を持ち、街には貧乏人というものがいない。邸宅の大部分は石造であり、アドベ(土の家)もあるが、十字をなして交わる道路が延び、たいそう規則正しく造られた街である」と書いています。

インカの滅亡

しかし、広がりすぎたインカ帝国には次第に陰りが見えはじめました。皇帝の継承争いが起き始め、伝染病が広がり始めたのです。1532年11月15日、スペイン人ピサロ率いる「白い人間たち」一行が海をわたってやってきました。彼らはカトリックを布教するという名目をかざしてインカの黄金を略奪しに来たのでした。太陽を信仰するインカの皇帝(13代皇帝アタワルパ)を「神を冒涜した」ということで捕らえ、スペイン人たちはインカ帝国の金銀を奪って植民地化を急速に推し進めていきました。
最後までインカに忠誠を誓っていた人々は、もう一度自分たちの国を取り戻そうと、1536年に国土回復戦争の旗を掲げて戦いましたが、勝利を収めることはできず、追われるように最後の都といわれるビルカバンバへ逃げ込みながら36年もの間戦い続けました。しかし1572年、とうとうインカの最後の時がやってきてしまいました。最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられてしまいました。同年9月24日に皇帝がクスコの広場で処刑され、「インカの栄光」は消え失せたのです。

今ではスペインのカテドラルが中央広場(アルマス)の主役
今ではスペインのカテドラルが中央広場
(アルマス)の主役

数百年の時を経た今も、クスコには中央広場を中心に、多くの神殿や公共施設の跡として立派な石組みの壁がたくさん残されています。昔と今が入り混じり、融合された街並みです。石壁にそっと寄り添うと石の声が聴こえて来るような気がします。そんな通りをゆっくりと歩いてみましょう。どこからかケーナの音色や、太陽の処女たちのおしゃべりや、ケチュア語を学ぶ子供たちの声が聴こえてきそうです。
クスコはインカの時代の面影を今に伝える街なのです。

参考文献:
『インカ皇統記』ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ著(岩波書店)
『図説・インカ帝国』フランクリン・ピース著(小学館)
『インカ帝国探検記』増田義朗著(中央公論社)

地図出典:
『MANUAL ARQUELOGIA RERUANA』FEDERICO KAUFFMAN著(PEISA)
『地図・ペルー』エフライム・ジョージ・スクワイヤ画

風通信」39号(2010年3月発行)より転載


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