特別記事

終着駅は次の旅への始発駅 西の果てカシュガルへ

 

文●八田裕子(東京本社)

カシュガル最大のモスク・エイティガール カシュガル最大のモスク・エイティガール

地図を開けばつい東西に目が走る。いくつもの十字路を目で辿るが南や北に向かう気がせず、行ったとしても寄り道気分でしかない。西安、ウルムチ、サマルカンド・・・地図上の大都市を線で結べばシルクロードが見えてくる。それを西へと進むほど地名はだんだんと聞きなれないものになる。この「西」に感じる素敵な果てしなさが旅作りの原動力になっているように思う。私の出発点はいつも同じ。今はなき新宿6丁目の新疆料理店である。

新宿の片隅で見つけた小さな新疆

新疆ウイグル自治区

数年前、新宿6丁目のひっそりとした通りの一角に小さな新疆料理店を見つけた。私を立ち止まらせたのはクミンと唐辛子と肉の脂が嬉しそうに溶け合って踊るあのシシカバブの煙。のれんをくぐると客は私一人だった。暇をもてあましていたのか店主は私の向かいに座り込んだ。そのとき私は新疆にさほど興味はなかったのだが、一対一の会話では逃げ道もなく延々と聞かされて閉店時間となった。トルファン、カシュガル。中国語とは思えない地名が耳に残る。帰り道、自転車をこぎながら機会があれば行ってみたいものだと思ったが、店の名刺をいったん家の引き出しにしまい込んでしまうと店で聞いた地名も店主の笑顔も私の中ですっかり過去のものになってしまった。

新彊の首府ウルムチでの出会い

新宿の新疆料理店はそれきりで、引き出しに入れたはずの名刺もいつの間にかどこかへやってしまったが、何が因果したのか翌年の夏その新疆に留学することになった。今思えばあの名刺が切符のようなものだったのかもしれない。新疆の首府ウルムチで私の生活が始まった。
ある日、授業を終えた私が大学の向かいで本場のシシカバブを頬張っていると、数人の学生が腕を組み合って仲よさそうに歩いてきた。そのまま通り過ぎるかと思いきや、彼女達は私の前で足を止めた。淀みない日本語で「日本人ですか?」と聞く。私を日本人と見抜いたのはクリクリとした目のウイグル族だった。口を結んだまま私の返事を待っている。私がうなずくと少し安心した様子で、私の部屋に遊びに来ませんか? と誘ってくれた。彼女の名前はムニエラ。それから私は彼女の暮らす大学の女子寮を度々訪ねることになった。

国境の街 カシュガルへ

カシュガルの職人長期休暇のたび里帰りの人々で賑わう寝台列車

ムニエラも含め、彼女の部屋の住人はほとんどがウルムチから遠く離れたカシュガル地区の出身だった。何度か遊びに行くうちすっかり意気投合したムニエラは次の休暇を利用して一緒にカシュガルへ行こうと言い出した。彼女の故郷であるカシュガルは地図で見れば中央アジア諸国との国境に接している中国の西の端だ。彼女について見に行ってみることにした。
国慶節の長期休暇の初日。カシュガル行きの硬臥(列車の2等席)は満席だった。収まり切らない生活がはみ出した巨大な頭陀袋が網棚にいっぱいで、座席の下には傷だらけのスーツケース。乗客はその間に座らせて頂いているといった風だった。私達のコンパートメントではウイグル族のおばさん連中が早くもひまわりの種をかじりながら話し込んでいる。おばさん達はちょっと私達に目をやったが、好奇心が湧かなかったのかすぐにその視線を戻しお喋りを続けた。私達はその向かい側に収まった。カシュガルまでは約24時間である。
 
いつの間にか眠ってしまったようだった。向かいのウイグルおばさんが私達をつつき起こした。警官らしい制服を来た男が私の荷物を指差して何やら言っている。中国では鉄道警察が乗客の荷物をチェックすることがあるらしい。どきりとしたが、ムニエラがパスポート、と助け舟を出した。日本のパスポートを見せると警官は納得が行ったのか2、3度うなずくようにして立ち去った。

あとにはウイグルおばさんの好奇の視線が残った。いや、おばさんだけではない、それまでトランプやおしゃべりに興じていた周囲の乗客の目がみなこちらを向いている。そして皆の好奇心を代表するかのように、まずおばさんのうちの一人が口を開く。「外国人なの??」ムニエラが代って答える。ヒュエーーー、という歓声とも驚きともつかない声をあげ、おばさんが間髪いれずにもうひとつ尋ねる。あとはもう、質問攻めだ。ムニエラは丁寧に答えてはいるが、やれやれといったようすである。それをきっかけに会話が弾んで、おばさん達もカシュガルへ帰るところだということが分かった。おばさん達とムニエラは共通の知り合いでもいたらしく話を続けている。窓際に座っていた漢族のおじさんが私の相手となった。彼が私のノートに「不到喀什不到新疆(カシュガルに行かなければ新疆に来たとは言えない)」と書いた。カシュガルが近づいてくる。

素顔のウイグルの街 カシュガル

カシュガルの職人銅の水差しを打つカシュガル職人街の古老

おばさん達にも再三行くようにと言われた場所であったし、カシュガル出身の彼女にはどうしても私に見せたいらしい場所があった。エイティガール。独特の黄色い壁が印象的なモスク。中には立派な手織り絨毯が敷かれていた。イランのホメイニ師から送られたものだという。満面の笑みで記念写真に収まった彼女が次に私を連れて行ったのはモスクの裏手の職人街と呼ばれる一角だった。立派なひげをたくわえた老人が曳くロバ車とすれ違う。異国の風が吹いた。両側に並ぶ金物屋から手作りの音が響く。カシュガルが、シルクロードが、突然目の前に現れた。
この辺りの建物は木造の2階建てで、柱やバルコニーにはウイグル族独特の彫刻が施されている。その曲線や、刷毛のあとの残るペンキの風合いが職人街の名にふさわしい。吊るされた銅製品が土煙の通りと青空の間で美しく光っている。こう言っては月並みに聞こえるが、まるで映画のセットに入り込んだような気分だ。そんな雰囲気を楽しんで歩く。何か買ってもいいな、と思った。ちょうどそのとき目をやった一軒の店先で、ハンチングにひげの男が水差しを手に取った。ひときわ高く響いていたカン、カン、カンの音がひとつ止み、中から槌を持った店主が顔を出す。男が何かを尋ね、店主がそれに答える。男がもうひとつ問うと店主は「無理だね」といった風に首を振る。私が近づいていって同じものを手に取ったが店主は奥へと戻ってゆき、男も去った。外国人の旅行者が品物を見ているというのに、店主はそれに気づかない。カン、カン、カン、カン。また聞こえてきた。私はなんだか嬉しくなった。ムニエラが値段を聞こうとしてくれるが、別にいいんだ、とまた歩き出した。私は自分がこのすばらしい風景の一部として認められたような錯覚を覚え、そのあとは一軒一軒冷やかして歩いた。ムニエラがおやつにと買ってくれた羊肉の詰まったサモサは特別の味になった。

旧市街が広がるカシュガル中心部笑顔に誘われ迷い込むカシュガル旧市街

職人街以外にもいくつかの場所を見て回って、何かぼんやりと感じたことがあった。これは全く個人的な感覚だが、カシュガルのウイグル族の一人一人がもっている雰囲気がそれまでに会ったウイグル族とは少し違っている感じがしたのだ。新宿で出会った新疆料理店の店主や、ウルムチで接した寮の友達よりもカシュガルの道を行く人たちの表情がくつろいでいるように見えた。ムニエラ自身にもそんな変化を感じた。誰でも街に出るときには、少し気持ちを引き締めて歩いたりするものだと思うのだが、カシュガルの街で見た表情はどれもみな、家の中で家族と過ごしているような、そんな印象だった。繰り返して言うと、これは本当に直感的で、無責任な印象だから、学問的な研究なんかとは全く別物と考えて欲しい。

民族楽器とウイグルの少年写真提供:笠原慎吾様

ムニエラとのカシュガル旅行はとても思い出深いものだった。彼女と腕を組み、迷路のように複雑な旧市街の小道を歩きまわった。いとこや友達やお母さんの同僚など知り合いに出くわすたび、いつ終わるとも知れないウイグル語のお喋りが始まる。会話は私にはほとんど聞き取れないのだが、あるときパキスタンという言葉が出たのを聞いた。カシュガルは峠の向こうパキスタンとの貿易の街でもあるのだ。カシュガルで暮らすパキスタンの商人を想像し、新宿でシシカバブを焼く新疆料理屋の店主を思い出す。そして、こう思ったのを覚えている。カシュガルに着いて幾日もたたないうちに、またさらにもう少し向こうの話が聞こえてくる。つい数年前まで新疆という土地を私は知らずにいた。つい数ヶ月前まで、ウルムチは私にとって初めての中国だった。そして、カシュガルは思いがけず現れたさいはての目的地だった。ところが、そのカシュガルに身体を運んでみると、まるでここが出発点だ。向こうから伸びる手が私を運んで行く。その手を握り、西へ西へと私のシルクロードが伸びていく。

風通信」33号(2008年2月発行)より転載