山奥に暮らす海の民?トラジャ族

トラジャへの道は長い トラジャはこの奥の山の向こうにある  トラジャへの道は長い トラジャはこの奥の山の向こうにある 

 神社の本殿のような高床式の建物、でも、神社の建物とあきらかに違うのはその両側(妻)の屋根の両端がまるで『角のように』空に向かって『高く』そりあがっている。そしてそれが群れをなし建っている。いったいこれは何だ!?
この10月に訪れてみたトラジャについて報告いたします。

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高床式舟形家屋(トンコナン)がある風景

田舎道を歩いて訪ねるトラジャ文化とボロブドゥール8日間

出発日設定2020/07/11(土)~2020/08/23(日)
ご旅行代金318,000円~378,000円
出発地東京、名古屋、大阪
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ツアー


トラジャ族とは

水牛の角のように天に向かって反り返るトンコナンの屋根 水牛の角のように天に向かって反り返るトンコナンの屋根

 これは、インドネシアのスラウェシ(旧称セレベス)島に暮らすトラジャ族の伝統的家屋トンコナン。
 トンコナンは神社風に見えるからでしょうか、神様の住まいのような「荘厳さ」があり、壁の模様や彫りも芸術的でもあります。どうして、こんな山奥にこんな立派な建築物が・・・?

 コーヒーの産地として知られるトラジャですが、この名前を初めて目にする方は、日本語の「トラ」という響きから、『どう猛』、もしくは『死を恐れない野蛮な』部族という先入観を持ってしまいませんでしたか? 彼らは過去に首狩り族だったそうですし、「死」については特別な考え方を持っている民族という意味では少しは当たっているのかもしれませんが、決して野蛮ではありません。それどころか、彼らの住むスラウェシ島では、「戦う以外寝ている」と言われた争い好き?のマカッサル族や、豊かな穀倉地帯に恵まれ商売のセンスにも長けた「金持ちが多い民族」ブギス族から「頭のいい民族」と称えられる「誇り高き民族」なのです。

 トラジャ族の多くは、現在インドネシアで4番目に大きな島・スラウェシ島の南部「南スラウェシ州(地図で見て左下に伸びる半島部)の北部山岳地帯に住んでいます。トラジャ族はその昔、今のベトナムあたりから海を渡ってやってきたと言われていますが、彼らが渡来した頃にはすでに、豊かな島南部には、マカッサル族、ブギス族たちが住みついていました。彼らに追われたトラジャ族は耕地の少ない北の山間部へ逃げます。そこでたどり着いたのが今のタナ・トラジャ県。そこで世界史上に登場するまで、静かに暮らしていました。

 16世紀になるとスラウェシ島の港は、ヨーロッパとの香辛料貿易が活発になります。その富を背景にマカッサル族やブギス族が建設した王国(ゴワやボネ王国)が繁栄します。しかし、17世紀半ば、ポルトガルに代わってオランダが進出してくると、その支配権をオランダに奪われ、植民地になってしまいます。ただ、その時のオランダは山間部までは触手を伸ばしませんでした。しばらくして19世紀に入るとインドネシアのイスラム化が進行します。それを恐れたオランダが島内陸部まで進出。その結果トラジャ族の暮らす中央山岳地帯にオランダの支配が及ぶことになりました。それが1905年。それまでトラジャでは外来文化や侵略の影響を受けずにいました。そのため伝統的な文化や習慣が色濃く残ってきたと考えられます。
 余談ですが、インドネシアでは、国が定めるどれかの宗教に属していないといけないそうです。そして、トラジャ族の多くがキリスト教信者とされています。彼らがイスラム教ではなく、キリスト教を選んだのは、結婚式や葬式で豚が食べられなくなるのを嫌ったためとも聞きました。


トラジャ族が守り続けているもの

 では、トラジャはどんなところで、どんな文化が残されているのでしょう?

 トラジャは山の中。中心部は盆地なので開けていますが、周辺部の斜面には小さな区分の棚田が連なっています。その斜面に竹林で囲われた小さな集落が点在しています。棚田の中のトンコナンはなかなか絵になります。

棚田の中にある林の中に潜むようにたっているトンコナン 棚田の中にある林の中に潜むようにたっているトンコナン

 そんなトラジャに住む人々は自分たちの文化を大切にしています。


伝統的家屋トンコナンと米倉アラン

 トンコナンとはトラジャ族の伝統的家屋。高床式の土台の上に屋形船が乗っかったような形をしています。古い屋根は竹で丁寧に組み上げられ、萱などで葺いてあり両端は天に向かって反り返っているのが特徴です。釘を1本も使わず、図面もなく建てられているそうです。1軒建てるにも大工7~8人で数カ月かかる大仕事。寸法や屋根の反り具合など棟梁ごとに違うため、同じ村でも屋根の反りや大きさなどまちまちだったりします。実は、住まいとしてはとても狭いため、最近は近くに別棟を建てて暮らしている人も多くなっていますが、そのためにトンコナンを捨てることはしないようです。血族または地縁でひとつのトンコナンを有しているようなこともあり、今でも一家系の象徴的存在になっています。

建設途中のトンコナン、あの反り返った屋根はどうやって作るのだろう? 建設途中のトンコナン、あの反り返った屋根はどうやって作るのだろう?

 アランは、トンコナンと同じような建築物ですが、米倉です。と同時にその床下部分は昼寝をしたり、食事をしたりできる癒しの空間として使われています。
 トンコナンとアランは対になっていることが多く、トンコナンが北向きに建てられるのに対し、アランは南向きに建てられ向き合って建っている事が多いです。トラジャの人にとって北は祖先が渡ってきた方向(ベトナム方面)であり、南は死後、魂がたどりつく天国の方向だからだそうです。

アラン(米倉)は、裕福な家では何軒も立っています アラン(米倉)は、裕福な家では何軒も立っています


水牛文化

 棚田が多いことから見ても水牛は農耕に欠かせない動物でした。貴重なタンパク源でもあり、財産としての価値も高い動物です。そして今も伝統的儀式において水牛の肉は客をもてなす食材や手土産として欠かせないものとなっています。最近でも葬儀においては、何頭(家によっては何十頭)もの水牛が殺され、客人に振舞われます。また、そのための水牛マーケットも週2回中心部で開かれています。その値段は安くて給料の数ヶ月分、高値の水牛なら何年分もの値段になるそうです。
 また、トンコナンの屋根の独特の形状は水牛の角を表しているとトラジャの人は考えているそうです。

水牛は意外にも黒褐色のものより白っぽい柄がまざってるのが高価らしい(水牛マーケットにて) 水牛は意外にも黒褐色のものより白っぽい柄がまざってるのが高価らしい(水牛マーケットにて)


死と埋葬

 トラジャを世界で一躍有名にしたのは、一見ショッキングな葬式と独特の埋葬方法と言われています。彼らは家族が死んでもすぐに火葬にしたり、埋めたりせず、しばらくの間(時に1年以上)家の中に寝かせたり座らせたりして、家族の一員として暮らします。その間は「病人」として扱われているそうです。古代日本でもあった『もがり』という風習に通じるものがあります。
※ここでは「埋葬」と表現していますが、一般にトラジャ族は遺体は埋めません。棺おけに岩穴や洞窟などに入れて放置します。風葬に近いかもしれません。

身分の高い人ほど棺を高い位置に安置できるそうです 身分の高い人ほど棺を高い位置に安置できるそうです
洞窟もお墓として活用されています 洞窟もお墓として活用されています

    

 そして、数ヵ月後、葬儀が行なわれようやく埋葬されます。トラジャ族の村に行くと村はずれにたいてい墓があります。トラジャでは遺体を地下に埋めません。崖に穴を掘って入れてロッカーのように扉を閉めたり、棺桶ごと洞窟に安置したり、崖の上のほうに吊るしたり。いずれも故人が天国に早くいけるよう、あの世での生活がよいものであるようにとの祈りを込めたものです。地域によっては死後何カ月後か何年後かに遺体を取り出し、服を着替えさせてあげるところもあるそうです。

 そして、もうひとつ特徴的なのは、タウタウという人形。両手を腰のあたりで曲げて前に差し出した格好の木の人形が墓の前で門番のように並んでいる光景があります。堅い木を彫って、故人に似せて作られるそうです。古いものはそれほどでもないのですが、最近のものは技術が高じて妙にリアルで少し怖いです。タウタウは村を見て立っていて、墓を守ってるのではなく先祖代々暮らしていた村を見守っているのだそうです。そう思うと怖さも和らいだ気になります。

墓は岩をうがって作り、前には故人に似せた人形(タウタウ)が飾られている、トラジャの人たちは先祖たちを忘れない 墓は岩をうがって作り、前には故人に似せた人形(タウタウ)が飾られている、トラジャの人たちは先祖たちを忘れない
村を見守るタウタウ 村を見守るタウタウ

 

葬儀

 ある朝、マカッサルの町の方から、往年の暴走族と見まがうようなオートバイが先導する集団がトラジャの中心地に向けて走ってきました。1kmほど続いたでしょうか。聞くところによると、遠方で死んだトラジャ族の遺体をトラジャの県境まで一族郎党が出迎えて家まで送り届ける途中にちょうど出くわしたのでした。最後尾はたしか救急車が走っていました。トラジャの人は遠くで死んでもトラジャに帰り、そして、葬儀の日を待つことになります。

雑然とした中に伝統的しきたりにそって葬儀が進行する 雑然とした中に伝統的しきたりにそって葬儀が進行する

 ガイドから聞いた話しでは、葬儀は普通3日間(大きなものになるともっと長くなる)行われるそうです。初日が家族、親戚、友人・知人からの水牛や豚、やし酒などが運びこまれ、2日目に集まってくれた人々の前で、それらの何頭か殺して食事が振舞われ、残った肉を手土産用に切り分け、古くからのしきたりに従って配分が決められて各自持ち帰るとのこと。そして3日目にして、ようやく遺体を御輿に乗せて、墓まで担いで行くのだそうです。
 世界的に有名なのは2日目の水牛の屠殺のシーン。水牛の数が多いほど天国に早く行けるという話しも聞いたことがあります。しかしこれは一連の儀式のほんの一部。それでも、高価な水牛を一太刀のもとに殺すシーンはインパクトがありますし、その数が故人の社会的地位を示す場としても見られています。(血を見られない方は近づかないほうがいいでしょう)

 それだけに葬儀は遺族にとって故人を天国に送り出す大イベント。会場設営や食べ物、水牛の用意。それだけ費用がかかります。借金をして葬式をする人もいるほどです。最近、屠殺する水牛の数が増加傾向にあるそうですが、ずっとずっと以前から、死者を大切に送り出すことがトラジャの伝統としてあるのです。

トンコナンの正面には水牛の角、一見おどろおどろしいが葬儀に届けられた記録でもある トンコナンの正面には水牛の角、一見おどろおどろしいが葬儀に届けられた記録でもある

 

あとがき

個人的な感想となりますが、トラジャの葬儀は、「葬式では神妙な顔をしなければならない」ということは必要ないようで、逆に、故人が天国に旅立つための晴れ舞台に同席させてもらっている感じでした。大きな葬儀になると露店商が出たり、賭博も行われるとか。祭に近い感覚という人もいます。但し、式の進行を妨げる失礼は許されません。それはアルク・トドロと言われる昔からの伝統に則って行われているからです。

 葬儀といい、埋葬法といい独特の伝統が残されています。その背景には、奥深い死に対する思想が潜んでいそうですが、解き明かすまでには至りませんでした。素人考えで思ったのは、もしかしたら、私たちより死が身近で「忌み嫌うもの」と思っていないのではないのか。歓迎するものではないのでしょうが、前向きに捕らえて、その機会に一族がそろい、知人であるかないか区別なく食べ物を施し、自分たちの立ち位置を再確認する場として活用されているのかなと。次回の訪問の時、もっとトラジャのことを知ろうと思いました。(文:大阪支店 川崎洋一)

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