風の旅行社 独自のネットワークでオリジナルな旅の提案を
 
お問い合わせはこちらから
旅のヒント ツアー一覧 イベント たびとも about KAZE
ネパール モンゴル チベット ブータン シルクロード ペルー・中南米 雲南インドシナ モロッコ オーバーランド
TOP > 風のネパール
支店ニュースネパールツアー一覧
寺山のチョーオユー
登頂&滑降記 執筆●寺山 元(大阪支店)

■8000m峰からの滑降
2000年5月16日未明。
背中に5キロの酸素ボンベと99cmのスキーを背負っているのもさほど気にならないほど、毎分1.5Lの酸素の効果 は絶大で、標高8000mでも思いのほか体が動く。 ロックバンドを越えたころ夜があけた。6000mより下は雲海の中。雲の上に頭を出したヒマラヤの巨峰に朝日が当たる。微風。あと3,4時間、午前中は天気がもつだろう。それまでに山頂へそして最終キャンプに戻らなければ・・・。急登が終わり緩やかな頂稜へ出る。山頂まではもう一息。大丈夫だ、調子はいい、意外と楽勝じゃん、今までの思い入れが走馬燈のよう、にはさっぱり巡らず、クールな冷めた感覚で最後の歩を進めた。
風にはためくタルチョーが見える。やれやれあれがピークか・・・やっと片づいたか。
と、その先に忽然と黒くエベレストが現れた。
その瞬間、叫んでいた。爆発的な感動が不意にやってきた。その極限の世界で生きて帰るために、実は必死に自分をコントロールしていたのが、一気にはじけ飛んでいた。深い氷河を挟んで30km彼方に、見上げるわけでなく肩を並べるように世界最高峰が見える、それがチョーオユー山頂8201mに着いた証拠であった。

ヒマラヤから帰ってふと気づくと半年がすぎていた。
思えば3月末から6月はじめまで2ヶ月間の体験。それ以前に準備に1年かけたものの、濃密であったが短い非日常の日々。そこから生きて帰った時からまた日常が始まり、自分が本来はこの静かな日本の生活の中に生きているということを思い知らされたような気がする。間違いなく自分の人生を生きているのだが、ともすればそれを実感せずに流されてしまうのが人の常なのか。
ただ、今後も続くこの普通の暮らしの中で、流される自分を立ち止まらせ、「生」の実感へ回帰させる一つのシーンをつかんだ。
山頂からのスキー滑降はきわめて情けない滑りで、日本人初なんて威張れたしろものではないが、この一点において自分の人生に大きな意味をもつ。

あたりまえだが8,000m付近の雪は硬く、スキーにとっては単なるアイスバーン。クラストではなくアイスバーンなら、ショートスキーでジャンプターンを細かく決めていけば行けるのでは…。C1まで担ぎ上げたのはお馴染ジルブレッタ300のついた180cmの山板と、ジャスコで買った9980円のバッタモノのファンスキーの2本。頂上アタックに持ち上げたのは、何より“軽い”ファンスキーであった。 いよいよ頂上から滑り出す。正直、ぎりぎりまで迷った。行けるのか、本当に行くのか?意識も身体もしっかりしている、しっかりしているような気がする…。細胞の一つ一つ自分の意志の通 り動くのか…。山頂の薄い空気を最後に一つ大きく吸い込む。声には出さず、心の中でウンとうなずく。行こう。 酸素の流量を毎分3Lに上げ、マスクを付ける。そして、緩やかな頂稜を滑り出した。
緩い斜面を割と快適に滑りながら確認する。よし、まだ身体は動く。登りはフィックスロープで通 過したロックバンドを避け、雪のついた斜面をつなぐためにはノーマルルートを外れなければならない。追いついてきた他の隊員達と別 れ際に写真を1枚とってもらう。そして1人、急斜面へ。

極限の集中。エッジが外れ滑落したら50cm以内にを止めなければあの世行き。一つの動作ごと呼吸が乱れ、それを整えるためにはしばらくかかり、再度、意識、体、感覚をチェックして動き出す。 実際、ここら辺は滑ったなんて言えたもんじゃない。そろりそろりと歩くように斜滑降。急斜面 のため、山足の外エッジと山側ストックのピックで斜面に引っ掛かって居る状態で休憩し、呼吸を整える。意を決してジャンプターン。そして、止める。また呼吸を整える。滑る、というよりとにかく下りていった。しかし、次第に状況は厳しくなる。下から偵察したときは、結構雪がついいていると思ったあたりも、岩が島状にでており、雪の層が薄く、ターンのショックでところにより板状にはげるやばい状態。BCから無線でその先の雪の付ぐらいを見てもらうが、悲観的な情報ばかり。斜度は50度ちかくなり、標高差500mはあるはずのC3横のカール状雪面 がすぐそこのよう…。行けそうな気もする、どうする?息を整えようと、周りを見回す。すると、10m程離れた斜面 から突き出た“もの”に気づく。岩かと思って眺めていたが、どうも色合いが違う。
死体であった。
顔のあたりは雪に埋まり目が合わなかったのは幸いだったが、アイゼンを付けた足が急斜面 に投げ出されていた。後に聞いた話から考えると、10日ほど前にアタックにでて帰らなかったフィンランド人の男性であろう。
死体を見ても結構クールであったように思う。それどころではない程、集中していたということだったのだろうか? 死体発見をBCに連絡し、さて、行くか、戻るか再び考える。美しく白いヒマラヤのど真ん中。集中力と酸素のおかげで、自分が今生きていることを強烈に感じていた。そして、ここが俺の生きるところなのか?ふと自分の人生を俯瞰するような感覚を持ったような気がする。今やヒマラヤは、シェルパ達の職場(スーパーでない登山家をサポートし、彼らの夢、ヒマラヤへの登頂を実現させるための)とさえ言える。一方、現代の冒険家と呼ばれる人たちの登攀は、すさまじいレベルにあるわけで、そんな冒険家やシェルパたちこそが、自分の全存在をかけて、このヒマラヤに生きているといえる。彼らには遠く及ばず、自分が本当に勝負をかけるべき世界がここなのか?

その時はそんな悠長に考えていたわけでなく、感覚的に「うん、帰ろ」と引き返しを決意した。上記の葛藤は後日、冷静になって振り返るとそういうことであったように思う、という後づけの説明かもしれない。しかし、この「引き返せたこと」が間違いなくこの遠征で自分にとって最大の収穫、自らの意志と判断で「生」をつかんだ体験であった。

アイゼンでノーマルルートに戻り、フィックスロープでC3に戻る。同日中にC3を撤収し、酸素ボンベをはずしてC2まで下山。チョーオユーの中でこの部分だけは極めて快適な斜面 。のはずが、人生最大にしんどいスキーであった。深夜一時起床でピークまで往復したのだから疲れているのはもちろんだが、やはり7,000m代の「無酸素スキー」はきつい。雪もクラストで最悪。2ターン以上は続かない。この時は短いスキーを呪った。その日はC2に泊まり、翌日にかけてC1の6300mまで約2000m弱〔途中3、400mは未滑降)滑ったわけだが、「滑った」と実感するようなスキーはC2手前の100mとC2〜C1間の半分くらい。さっぱり楽しいものではなかった(念のため)。

今はとにかく、生きて帰り、家族と過ごし、元の慌ただしい仕事に追われ、地味な幸せの中にある。 「せっかく生きて帰ってきたのだから、今後の人生も面白くしよう」と、たくらんでる自分も相変わらず。でも、少し焦りは無くなったような気がする。自分の生命力、集中力、やりたいこと実現能力、みたいなものも試すことができたことだし。「日本に帰って頑張ろう、この時と同じ集中力で」。あの急斜面 から引き返したとき、ひとつけじめをつけ、リアルな生活への戦闘準備を整えたと、いったところだろうか。

以上、全ては生きて帰ったから言えるたわ言でした。




つむじかぜ-ロゴ 隔週発行 配信料無料です ■皆様からの寄稿、投稿をお待ちしております 
たびとも(旅の仲間)募集、気になるTV番組、風の旅ちょっといい話、旅にでたくなる本・映画・コンサートなどなど  →投稿する
ツアー実施基準ご旅行条件書旅行業登録票/約款プライバシーポリシーサイトマップ採用情報 ©2005 kaze-travel co.,ltd.