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| 寺山のチョーオユー | ||
| 登頂&滑降記 | 執筆●寺山 元(大阪支店) | |
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■8000m峰からの滑降 ヒマラヤから帰ってふと気づくと半年がすぎていた。 あたりまえだが8,000m付近の雪は硬く、スキーにとっては単なるアイスバーン。クラストではなくアイスバーンなら、ショートスキーでジャンプターンを細かく決めていけば行けるのでは…。C1まで担ぎ上げたのはお馴染ジルブレッタ300のついた180cmの山板と、ジャスコで買った9980円のバッタモノのファンスキーの2本。頂上アタックに持ち上げたのは、何より“軽い”ファンスキーであった。
いよいよ頂上から滑り出す。正直、ぎりぎりまで迷った。行けるのか、本当に行くのか?意識も身体もしっかりしている、しっかりしているような気がする…。細胞の一つ一つ自分の意志の通
り動くのか…。山頂の薄い空気を最後に一つ大きく吸い込む。声には出さず、心の中でウンとうなずく。行こう。
酸素の流量を毎分3Lに上げ、マスクを付ける。そして、緩やかな頂稜を滑り出した。 極限の集中。エッジが外れ滑落したら50cm以内にを止めなければあの世行き。一つの動作ごと呼吸が乱れ、それを整えるためにはしばらくかかり、再度、意識、体、感覚をチェックして動き出す。
実際、ここら辺は滑ったなんて言えたもんじゃない。そろりそろりと歩くように斜滑降。急斜面
のため、山足の外エッジと山側ストックのピックで斜面に引っ掛かって居る状態で休憩し、呼吸を整える。意を決してジャンプターン。そして、止める。また呼吸を整える。滑る、というよりとにかく下りていった。しかし、次第に状況は厳しくなる。下から偵察したときは、結構雪がついいていると思ったあたりも、岩が島状にでており、雪の層が薄く、ターンのショックでところにより板状にはげるやばい状態。BCから無線でその先の雪の付ぐらいを見てもらうが、悲観的な情報ばかり。斜度は50度ちかくなり、標高差500mはあるはずのC3横のカール状雪面
がすぐそこのよう…。行けそうな気もする、どうする?息を整えようと、周りを見回す。すると、10m程離れた斜面
から突き出た“もの”に気づく。岩かと思って眺めていたが、どうも色合いが違う。
その時はそんな悠長に考えていたわけでなく、感覚的に「うん、帰ろ」と引き返しを決意した。上記の葛藤は後日、冷静になって振り返るとそういうことであったように思う、という後づけの説明かもしれない。しかし、この「引き返せたこと」が間違いなくこの遠征で自分にとって最大の収穫、自らの意志と判断で「生」をつかんだ体験であった。 アイゼンでノーマルルートに戻り、フィックスロープでC3に戻る。同日中にC3を撤収し、酸素ボンベをはずしてC2まで下山。チョーオユーの中でこの部分だけは極めて快適な斜面 。のはずが、人生最大にしんどいスキーであった。深夜一時起床でピークまで往復したのだから疲れているのはもちろんだが、やはり7,000m代の「無酸素スキー」はきつい。雪もクラストで最悪。2ターン以上は続かない。この時は短いスキーを呪った。その日はC2に泊まり、翌日にかけてC1の6300mまで約2000m弱〔途中3、400mは未滑降)滑ったわけだが、「滑った」と実感するようなスキーはC2手前の100mとC2〜C1間の半分くらい。さっぱり楽しいものではなかった(念のため)。 今はとにかく、生きて帰り、家族と過ごし、元の慌ただしい仕事に追われ、地味な幸せの中にある。 「せっかく生きて帰ってきたのだから、今後の人生も面白くしよう」と、たくらんでる自分も相変わらず。でも、少し焦りは無くなったような気がする。自分の生命力、集中力、やりたいこと実現能力、みたいなものも試すことができたことだし。「日本に帰って頑張ろう、この時と同じ集中力で」。あの急斜面 から引き返したとき、ひとつけじめをつけ、リアルな生活への戦闘準備を整えたと、いったところだろうか。 以上、全ては生きて帰ったから言えるたわ言でした。 |
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