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明治維新150年

明治維新胎動の地・鹿児島~近代化を模索した薩摩の群像の史跡探訪 4日間

  • 西郷隆盛銅像(1984)
  • 西郷隆盛誕生地(1984)
  • あまり人気のない大久保利通銅像(1984)
  • 大久保利通誕生地(1984)
  • 照国神社に建つ島津斉彬像(1984)
  • 森有礼誕生地(1984)
  • 照国神社に建つ国父・島津久光像(1984)
  • 鶴丸城跡(1984)
  • 薩英戦争記念碑(1984)
  • 祇園之洲砲台跡(1984)
  • 天保山砲台跡(1984)
  • 桜島(1984)

明治維新胎動の地・鹿児島
石碑や銅像でたどる“西郷どん”の世界

明治維新から150年が経過した今年、ちょっと変わった維新史探訪の旅をご提案します。

明治維新を牽引した薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前佐賀)のうち、薩摩藩の維新史を探訪します。

薩摩藩、という言い方は、厳密には間違いで、江戸時代を通じ、『島津修理大夫家中』あるいは『島津薩摩守家中』などという言い方をしていました。
「お手前はどちらのご家中で?」
「島津修理大夫の家中でござる」という感じです。
藩という言葉が公文書に書かれるようになったのは、実は明治時代からという説もあります。
でも、ここでは『薩摩藩』という、慣れ親しんだ名称で統一させて頂きます。
薩摩藩は、旧国で言えば、薩摩国と大隅国ほかで構成されています。

■意外と知られていない幕末の薩摩■
①生麦事件は攘夷ではない。
→生麦事件は幕末史を代表する異人殺傷事件ですが、これは島津久光の行列を横切ったことによる『無礼討ち』であり、攘夷運動の一環として発生したのではありません。

②薩英戦争は攘夷戦争ではない。
→長州では、久坂玄瑞が中心となり、外国船を砲撃したため、似たようなイメージの薩英戦争も、攘夷戦争と思われがちです。これは生麦事件の下手人の引渡しを拒んだ薩摩藩に対する報復攻撃です。

③薩摩は常に近代化を模索していた
→幕末の名君とうたわれる島津斉彬は産業革命こそが世界を牽引する勢力になりえることを早くから知っており、薩摩藩を中心に日本の国力を強めるには、近代化が不可欠と考えていました。斉彬の死後、弟の久光が藩主の父『国父』として藩政の実権を握りますが、彼もまた、薩摩藩を中心に日本の近代化を推進するため、英国から教師を招き、藩士に洋学を学ばせ、あるいは有能な藩士を欧州に留学させました。

薩摩藩は、江戸期を通じ、二重鎖国を行い、幕府や他藩の介入を防いでいたといいます。また、島津斉彬の藩主就任後は、西洋文明や科学を学ぶ場所に、藩士を送り込んで学ばせるなど、常に新しい時代と向き合っていました。

本コースでは、幕末から明治に活躍した薩摩の人々が、どのような場所で近代化を模索したか、その軌跡を辿ってみたいと思います。鹿児島の近代化への足跡を、当時の歴史に名を遺した、偉人たちの生涯と重ねて、紹介してゆきたいと思います。新しい名所、時標をたどるのもたのしみ。


【幕末の薩摩藩とゆかりの人々】
薩摩藩は77万石と言われていますが、蘭癖と言われた島津重豪による天文学的な散財が原因で、幕末時期の歳入は、35万石前後であったと言われています。調所広郷の天保の改革により財政が持ち直した薩摩藩は、島津斉彬が殖産興業を推進、佐賀藩と並ぶ、日本有数の先進国となります。生麦事件に端を発した薩英戦争で欧米の国力との差を実感した薩摩藩では、欧米に留学生を送り、近代化を進め、ついには幕府を見限り、長州と手を結び、維新回天へと向かってゆきます。

<三方限: 加治屋町/高麗町地区>
※薩摩藩には同じ町内の少年たちが共に学び、鍛錬をするシステムがありました。三方限地区の加治屋町郷中、高麗町郷中は、偉人を多く輩出したことで有名です。西郷隆盛と大久保利通、世代を超えて黒田清隆、東郷平八郎、山本権兵衛等が、同じ町内で同じ時代の空気を吸っていたというのは、奇跡のような感覚ですが、後輩が先輩に教えを請い、その背中を見て育つ郷中教育を考えると、不思議ではないのかもしれません。松方正義だけは志士活動を経ず、顕官に昇りつめました。
★西郷隆盛 (1828-1877) 誕生地碑/西郷武屋敷跡:
言わずと知れた維新三傑の一人で、維新回天の中心的人物です。安政の大獄では僧・月照を守って帰国するも薩摩藩の庇護を受けられず共に入水、蘇生し、奄美大島に隠遁させられました。その後、いったん薩摩に戻りますが、国父・島津久光と折り合いが悪く、卒兵上京の準備のため下関で待機するようにという久光の命を無視して単身で上京、徳之島、沖永良部島に流刑となりました。その後許されて、禁門の変では長州軍と戦って敗走させ、第一次長州征討の際は長州との戦争を回避、勝海舟の影響を受けて雄藩同盟を意識し薩長同盟・薩土密約を締結、王政復古の際には徳川慶喜の側近である土佐前藩主・山内容堂を退け王政復古を実現させました。明治政府では参議・陸軍大将を拝命。廃藩置県や地租改正等を推進するも、明治6年の政変で下野。明治10年、西南戦争の中心人物となって政府軍を相手に九州各地を転戦するも、敗れて鹿児島の城山にて自刃しました。同じ場所に少し離れて弟の西郷従道誕生地碑もあります。
※西郷武屋敷は、西郷隆盛が西南諸島にいる際、困窮した西郷家が引っ越した家です。坂本龍馬の雨漏りのエピソードはこの家です。

★西郷従道 (1843-1902) 誕生地碑/西郷武屋敷跡:
西郷隆盛の三弟。幕末動乱の時代には志士として活動、寺田屋事件、薩英戦争にかかわりました。維新後は兄・隆盛には与せず、大久保利通の片腕として活躍し、西南戦争の折は官軍として兄・隆盛率いる鹿児島士族を鎮圧しました。西郷家の家来・熊吉が西郷隆盛の長男・菊次郎を連れて投降した際、彼らを庇護しました。後に農商務卿等を歴任。農商務卿時代には払い下げが内定していた富岡製糸場の存続を認可したエピソードは有名。富国強兵政策を推進するために尽力しました。ちなみに次兄・吉二郎は志士として留守にしがちの隆盛や従道に代わり、西郷の家を切り盛りしていましたが、戊辰の北越戦争に出征。長岡藩家老・河合継之助率いる長岡藩兵と戦い、戦死。また末弟の小兵衛は、西南戦争で鹿児島士族として西郷隆盛に属して戦い、戦死しました。維新のために命を捧げた一家といえます。

★大山巌 (1842-1916) 誕生地碑:
西郷隆盛や従道とは、いとこにあたります。幕末動乱の時代には志士として活動、寺田屋事件、薩英戦争にかかわりました。鳥羽伏見の戦いでは、耳を負傷するもひるまず奮戦。会津戦争でも活躍しました。韮山代官・江川太郎左衛門に師事し、大砲の改良に功績があり、戊辰戦争では『弥助(巌の幼名)砲』として重宝されました。しかし、会津戦争の際、初日の砲撃畤、鶴ヶ城から狙撃されて護送され、実際に指揮をとることはなかったといい、狙撃者は山本八重ともいわれています。維新後はヨーロッパに留学してヨーロッパ式の兵学を学び、西南戦争では故郷を敵に回して奮戦、日清・日露戦争でも活躍、公爵に昇りつめます。夫人は元会津藩家老で陸軍少将の山川浩/帝国大学総長・健次郎の妹・捨松です。西郷従道とは終生仲がよかったようで、西郷隆盛の肖像画は上が従道、下が巌がモデルとか。

★大久保利通 (1830-1878) 誕生地碑:
西郷隆盛の盟友、維新三傑の一人として知られる大久保利通は、西郷隆盛と同じ三方限地区で生まれ、同じ郷中(同じ町内の少年たちが参加した少年育成機関)で育成されました。父・利世が島津斉彬を擁立するお由良騒動で流刑に処されると貧窮、西郷一家の援助を受けた話は有名です。西郷隆盛を盟主とする精忠組の№2として活動。藩主となった島津斉彬が亡くなると、その弟で藩主の父として国父の座についた最高指導者・島津久光に接近。幕末の政局の中心近くに位置し、政治家としての基盤を整えてゆきます。公家の岩倉具視と連携して隠密裏に倒幕運動を推進しました。錦の御旗を考案したのは大久保という説もあります。明治政府では大蔵卿、内務卿となり、岩倉使節団の副使として渡航、近代日本の礎を築きました。明治6年の政変では西郷隆盛や佐賀の江藤新平と対立し、下野させ、佐賀の乱を起こした江藤新平率いる佐賀藩士族を鎮圧、西南戦争では西郷隆盛が率いる鹿児島士族を鎮圧しました。明治11年5月、不平士族に暗殺されました。

★伊地知正治 (1828-1886) 誕生地碑:
薩摩藩の兵学者で軍師。戊辰戦争では土佐の板垣退助とともに、会津や新撰組と戦い、会津藩を降伏させました。維新後は左院議長、参議議長を拝命。新政府の支給した俸給が多いからと、返上したというエピソードのある、清廉な人でした。

★吉井友実 (1828-1891) 誕生地碑:
西郷隆盛と親しかった吉井友実は、流刑中の西郷隆盛を励ましたエピソード等で知られています。薩摩藩の大坂藩邸留守居役や、大目付等の重職につき、各藩の志士と交流しました。禁門の変では御所を守って奮戦し、第一次長州征討では、西郷隆盛や税所篤と岩国に乗り込み、三家老の切腹を受け入れれば長州包囲網を解くと通告し、戦わずして征討軍を解体させました。維新後は官僚になりました。

★村田新八 (1836-1877) 誕生地碑:
西郷隆盛に心酔し、精忠組のメンバーとして明治維新の動乱を経験。西郷隆盛が徳之島、沖永良部島に流刑となった際には喜界島に流されましたが、後に許され戊辰戦争などで活躍しました。学問に長じ、大久保利通の後継者と期待されるも明治6年の政変で下野しました。私学校の創設に参加、砲兵学校を監督しました。西南戦争では二番大隊長として奮戦するも、城山が陥落した際に、自刃しました。

★篠原国幹 (1837-1877) 誕生地碑:
西郷隆盛に心酔し、戊辰戦争などで活躍。明治6年の政変(征韓論がらみ)では下野し、私学校の創設に参加、幼年学校を監督。西南戦争では一番大隊長として熊本鎮台攻防戦などで奮戦しましたが、官軍兵士に狙撃されて、戦死しました。

★樺山資紀 (1837-1922) 誕生地碑:
樺山資紀は薩英戦争が初陣、その後戊辰戦争で転戦、台湾出兵にも従軍しました。西南戦争では、熊本鎮台司令長官・谷干城少将のもとで奮戦し、西郷軍を撃破。薩長藩閥を称える蛮勇演説を行い、有名になりました。後、海軍大将になります。

★黒田清隆 (1840-1900) 誕生地碑:
幕末には薩摩藩の連絡将校のような役割を担い、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎、長州の井上馨、伊藤博文、品川弥二郎の間を往来し、薩長同盟に尽力しました。戊辰戦争では、函館戦争の陸軍参謀を拝命。五稜郭落城後は、蝦夷共和国(異説アリ)総裁・榎本武揚をはじめ敗残者の助命に尽力しました。後に北海道開拓に力を尽くし、第二代内閣総理大臣となりました。榎本軍の回天丸による、官軍の旗艦・甲鉄艦奪取作戦(アボルダージュ)をいち早く見抜いて、東郷平八郎等を指揮して奮戦し、宮古湾から土方歳三等を撤退させるなど、軍人としての才能もありました。酒乱でなければ・・・と言われるほど、酒の失敗が多い人でした。

★黒木為禎 (1844-1923) 誕生地碑:
明治の陸軍大将・黒木為禎も、加治屋町の出身です。天保14年生まれなので、西郷隆盛より16歳年下です。黒木が維新史の表舞台に登場するのは鳥羽伏見の戦いです。薩摩隼人を絵にかいたような軍人であったと人々に記憶されています。

★井上良馨 (1845-1929) 誕生地碑:
元帥海軍大将・井上良馨もまた、加治屋町の出身です。黒木為禎大将よりも一歳、年下ですが、維新史への登場は薩英戦争です。イギリス軍の砲弾の破片によって負傷し、かえってイギリスの国力に興味を持ち、陸軍畑から海軍畑に鞍替えした異色の人物です。以降、春日艦の小頭を拝命し、慶応四年1月には、榎本武揚が率いる幕府艦隊と阿波沖海戦で戦い、その後、宮古湾海戦で土方歳三が指揮する回天丸に襲われた甲鉄艦(ストーンウォールジャクソン)を春日艦から援護して回天艦長・甲賀源吾や新撰組・野村利三郎を討ち取りました。この時、春日艦に東郷平八郎も乗船していました。函館戦争の後、日露戦争まで、活躍をしました。

★東郷平八郎 (1848-1934) 誕生地碑:
東郷平八郎も加治屋町の出身です。彼は1848年生まれなので黒木、井上よりも年下です。彼の初陣も薩英戦争でした。彼も井上良馨と同じく、春日艦の見習士官となり、阿波沖海戦、宮古湾海戦、函館戦争、日清戦争、日露戦争で活躍し、元帥海軍大将にまで上りつめました。彼はイギリスへの留学経験がありますが、初め大久保利通に頼んだら断られ、西郷隆盛に許可を貰ったと言われています。

★山本権兵衛 (1852-1933) 誕生地碑:
後に総理大臣となった山本権兵衛もまた、加治屋町の出身です。彼はペリー来航一年前に生まれたので、幕末の動乱時代に少年期を過ごしました。日清戦争及び日露戦争では大本営で総指揮をとりました。西郷隆盛が明治6年の政変に敗れて薩摩に戻った後、官を辞して鹿児島に帰りましたが、西郷隆盛に説得されて戻り、川村純義に謝罪し政府に復帰しました。外務大臣も務め、政治でも活躍しました。

★有村雄助 (1835-1860) ・有村次左衛門 (1839-1860) 誕生地碑:
有村雄助・有村次左衛門兄弟は、『桜田門外の変』に深くかかわった兄弟です。弟の次左衛門は、桜田門外の変にただ一人の薩摩人として参加して、井伊直弼の首級をあげた人物として知られています。しかし、彦根藩士に追い付かれ重傷を負い、自刃しました。兄の雄助は、水戸と連携して回天の挙に出ようと志します。しかし、個人の活動を禁じ、事を成すときは藩を挙げて行うべし、という藩是にそむいた罪を問われ、捕縛され、切腹を命じられました。二人の兄に有村俊斎がいます。有村俊斎は幼少の頃に茶坊主として城にあがり、剣と学問を修めました。後に日下部家(海江田は日下部家の旧姓)に婿養子入りし、海江田信義と名乗り、薩摩藩の精鋭『精忠組』に属し、西郷隆盛、大久保利通等と国事に奔走しました。安政の大獄の際に薩摩に逃れようとした勤王僧・月照を護衛したり、生麦事件で英国人リチャードソンを介錯したり、薩英戦争で活躍したり、それらの経歴から、戊辰戦争の際には有栖川宮熾仁親王の下、東海道先鋒総督府参謀を拝命しました。上野の彰義隊討伐の軍議で長州の大村益次郎と対立。明治2年、大村が出張先の京都で暴徒に襲撃された(二カ月後に敗血症で死亡)際には、関与を疑われます。西南戦争時は病のため西郷軍とも官軍とも距離を置いています。後に明治政府に出仕。伊藤博文の命でヨーロッパに赴き、ドイツで法学者シュタインに師事したほか、議会の仕組や法制度を学びました。西郷隆盛と橋本左内が密会したというのは、もしかしたら、有村俊斎こと海江田信義の聞き間違いという説が有力です。碑には有村雄助と次左衛門の名が刻されていますが、俊斎/海江田信義の名前が刻されていないのは、ちょっとかわいそうです。薩摩を代表する志士の一人です。

★川村純義 (1836-1904) 誕生地碑:
幕末の川村与十郎の名でも知られる純義は、西郷隆盛の母方のいとこ。安政年間には幕府が創設した長崎海軍伝習所で第一期生として学び、勝海舟、薩摩藩士で大阪発展の恩人として知られる五代才助(友厚)や、佐賀藩士で日本赤十字社の創始者・佐野常民等と机を並べました。その経歴から海軍畑で頭角を現し、戊辰戦争では薩摩藩四番隊長として活躍、会津戦争で奮戦しました。維新後は門閥の排斥を推進し、海軍整備に尽くしました。西南戦争では山県有朋とともに参軍を勤め、故郷を敵に回して鹿児島士族を鎮圧しました。これらの功績により、死後、海軍大将となりました。西南戦争の直接の原因は、中原尚雄による西郷隆盛暗殺計画の漏洩と、川村純義の命により太政官吏が商船を使って鹿児島の弾薬を持ち出そうとし、私学校党が奪還したこと等が絡み合ったため、とも言われています。

★松方正義 (1835-1924) 誕生地碑/松方正義銅像:
大蔵大臣を七度、内閣総理大臣を二度、日本銀行を設立、金本位制を確立した松方正義は幼少の頃両親を失い、貧困に喘ぐ少年時代を送りますが、嘉永3年、勘定所出物問合方に出仕、大番頭座書役となり、島津久光の側近として頭角を現し、生麦事件や寺田屋事件にも関与しました。慶応3年には長崎に派遣され、動乱に備え軍艦や武器の購入に活躍しました。下級武士から大抜擢されたため、また、いわゆる勤王志士として活動しなかったため、志士あがりの明治政府の顕官たちに軽んじられるところがありましたが、財政で力を発揮し、維新後の功績だけで従一位・公爵・明治の元勲にまで昇りつめたことで知られています。

★三方限出身名士顕彰碑:
高麗町、上之園、上荒田の三方限は、加治屋町と並んで幕末~明治維新にかけて活躍した偉人を多く輩出したため、昭和10年には顕彰碑が建てられました。かつては、偉人たちの家38軒を示す銅板がありましたが、失われてしまい、現在、高麗町に建つ三方限出身名士顕彰碑に偉人たちの名前が刻されています。
三方限出身名士の一覧は下記の通りです。全部で48人の名が確認できます。
西郷隆盛/西郷小兵衛/伊地知幸助/高島鞆之助/渕辺高照/伊集院兼寛/長澤鼎/奈良原繁/井上良馨/関勇助/河野圭一郎/田中十太郎/町田次郎四郎/岩元平八郎/永山弥一郎/辺見十郎太/西郷吉次郎/大久保利通/篠原国幹/吉井友実/松永清之丞/吉田清成/山沢静吾/種子田左門/野津鎮雄/有村雄助/伊集院彦吉/仁礼景範/中原猶介/山之内一次/法亢宇佐衛門/山之内作次郎/西郷従道/伊地知正治/三島通庸/大山綱良/讃良清蔵/江夏仲左衛門/奈良原喜左衛門/山口金之進/野津道貫/有村次左衛門/益満行靖/川村純義/浅江直之進/西寛二郎/辺見仲太/有馬一郎

<城西地区>
★小松帯刀 (1835-1870) 原良別邸:
鹿児島城下の西の山手に位置する原良には家老・小松帯刀の別邸がありました。慶応元年と2年に、薩摩を訪れた坂本龍馬は、小松帯刀別邸に滞在しました。

★西郷家墓地:
常盤2丁目の薬師保育園付近に西郷家の先祖の墓地があります。西郷隆盛兄弟姉妹の両親(吉兵衛・まさ)のお墓をはじめ23基が、ここの墓地にあります。

<鶴丸城/城山付近>
★鶴丸城跡:
関ケ原の戦いの2年後、慶長7年に島津家第十八代当主・島津家久により築城。集成館事業としては、製錬所(開物館)に反射炉のひな型が造られ、反射炉の実験が行われました。明治6年に本丸が焼失、西南戦争では二の丸殿舎も焼失、その後は第七高等学校が置かれました。西南戦争に出征する薩摩の将兵は城に一礼し、50年ぶりの大雪が降る中、東京に向けて進軍したと言われています。

★天璋院篤姫 (1836-1883) 像:
天璋院篤姫は、島津家の分家である今泉島津家の島津忠剛の娘として生まれ、
島津斉彬や島津久光のいとこです。島津斉彬の養女になり、近衛忠煕の養女を経て、江戸幕府第十三代将軍・徳川家定に嫁ぎます。その目的は、次代将軍に一橋慶喜(のちの十五代将軍・徳川慶喜)を推して、外様・薩摩藩に発言権を得るためでしたが家定、斉彬が相次いで病死、十四代将軍・徳川家茂の養母として京都から嫁いできた和宮との関係に苦しみ、揚げ句、江戸城総攻撃の際に故郷の薩摩に江戸に攻め込まれる等、決して幸せな結婚ではなかったようです。江戸幕府滅亡の際には、徳川の家名存続のため、和宮とともに尽力しました。

★照国神社:
照国神社は、幕末の藩主・島津斉彬(照国大明神)を祀る神社で、島津斉彬像、島津久光像、久光の子で斉彬の次の藩主となった島津忠義像などがあります。西郷隆盛は、薩摩の下級武士の家に生まれ、郡方書役という農村の実情調査のような仕事をしていましたが、島津斉彬に見出されて御庭方役(斉彬の秘書のような役目)に抜擢され、篤姫の輿入れ、他藩の藩士との交流等に尽力したと言われています。西郷隆盛が志士として活動するきっかけとなりました。斉彬急死後、流謫や流刑などで西郷隆盛は不遇を囲いますが、やがて幕末の政局の中心人物となってゆきます。国父・島津久光とはそりが合わなかったそうです。

★小松帯刀像:
小松帯刀は喜入の領主・肝付家に生まれ、吉利の領主・小松清猷の養子となり、島津久光に抜擢され、藩政に貢献。その功績で家老となりました。薩長同盟も倒幕も、精忠組の志士たちだけの才覚で成し遂げることは到底不可能であり、家老の小松帯刀や桂久武の承認・決済なしには行えなかったと考えられます。維新後は版籍奉還の実現に向けて尽力しましたが、明治3年に病死しました。

★座禅の森と座禅石:
西郷隆盛や大久保利通などの精忠組の面々が修行した、誓光寺の庭にあった石。この石の上で、若い志士たちは座禅を組み、修練に励んだと伝わっています。

<上町地区>
★浄光明寺跡:
島津家の始祖の惟宗忠久(これむね・の・ただひさ)十三回忌に建立された寺。薩英戦争で焼失、再建されましたが、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。

★福昌寺跡/島津斉彬墓・島津久光墓:
現在の池之上町には島津家の菩提寺であった福昌寺がありましたが、明治2年の廃仏毀釈によって廃寺となりました。島津斉彬・久光兄弟の墓が残っています。

<松元地区>
★有馬新七 (1825-1862) 居宅跡:
有馬新七は現在の日置市伊集院町で誕生しました。父が城下士の有馬氏の養子になったため、ともに加治屋町に引っ越してきました。万延元年に、石谷の領主・町田久成に招かれた有馬新七は、石谷奉行としてこの地に赴任し、二年あまりをこの地で居住しました。精忠組の中心人物として若者を牽引しましたが、寺田屋事件では藩が派遣した鎮撫使と刃を交え、道島五郎兵衛を道連れに死亡しました。

<喜入地区>
★伊牟田尚平 (1832-1868) 誕生地碑:
小松帯刀の実父である、喜入領主・肝付兼善の家臣で、15歳で鹿児島城下に出、医学を学び、後に長崎で蘭学を修めましたが、その後は攘夷運動に身を投じます。一度は喜界島に遠島になりますが、薩摩藩に復帰。慶応3年に西郷どんの密命を受け、益満休之助や、相楽総三らと、江戸市中を荒らしまわり、庄内藩等による薩摩屋敷焼き討ちを起こし、倒幕の大義名分を得ることに成功しました。しかし、京都や大津で頻発していた辻斬りが、尚平の部下であったということが判明して、その責任を負わされるという形で、京都の二本松薩摩藩程で自刃させられました。医学、蘭学まで修めた伊牟田尚平の、あまりにも悲惨な転落人生と最期でした。


【薩摩藩と近代化に関する史跡群】
『お由羅騒動』は、島津斉興の側室お由羅が生んだ島津久光を擁立する一派と、島津斉彬を擁立する一派との壮絶なるお家騒動。幕府の裁定により藩主となった島津斉彬は近代化こそが国を守ると確信し、殖産興業を興し、その国力をもって幕政に参画し、日本国の富国強兵を進めようとしますが急死。あとを継いだ国父・久光は薩英戦争で欧米の力を知り、外国人教師を招聘して藩士に洋学を学ばせ、また留学生を送るなどして薩摩藩、日本国の将来に役立てようと尽力しました。

<磯地区>
★仙巌園:
仙巌園は、島津家の別邸跡であり、庭園の『磯庭園』の名でも知られています。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた借景技法の庭園の傑作です。名勝に指定。
幕末、島津斉彬が敷地内に反射炉を作り、ヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設し、集成館事業を起業。日本初のガス灯は、ここで生まれたといいます。錫門、磯御殿、反射炉跡、鉄製150听砲、獅子乗大石灯篭、鶴灯篭があります。

★反射炉跡:
壮絶きわまりないお家騒動「お由良騒動」の末、嘉永4年に藩主となった島津斉彬は、殖産興業に取り組み、磯地区に工業地帯を築き、集成館事業を開始。仙巖園の入口あたりに反射炉を建造し、大量の銑鉄を溶解させ、鋳型に流し、大砲の砲身を造る施設としました。度重なる失敗は薩摩藩の経済を圧迫するも安政4年に二号炉が完成しました。現在は二号炉の基壇部分が残っています。

★尚古集成館:
ユネスコの世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する「旧集成館」の機械工場として世界遺産に登録されています。薩摩切子や薩摩焼等を展示する博物館ですが、建物は1865年(元治2年~慶応元年)に機械工場として竣工した集成館のもので、国の重要文化財です。本館部分は、3つの展示場に分かれ、反射炉の模型なども常設されています。

★電信の碑:
島津斉彬は、蘭学者や家臣に、電気に関する研究を行わせ、電信機製造を命じ、鶴丸城の本丸と二の丸間に600mの電線を敷き、通信実験を成功させました。

★旧鹿児島紡績所技師館(異人館):
慶応3年、鹿児島紡績所建設と操業のために、イギリスから招聘された七名の技師達の宿舎として竣工。技師たちが帰国すると大砲製造支配所になりました。

★鹿児島紡績所跡:
薩摩藩英国留学生を引率した新納久脩と五代友厚は、イギリスで紡績の機械を買い入れ、技師を招聘して帰国。日本で最初の近代的紡績工場を開設しました。

★祇園之洲砲台跡:
薩英戦争の際に使用された砲台の一つ。80听カノン砲をはじめ、6門の砲が置かれていました。イギリス艦隊の艦砲射撃により、祇園之洲は沈黙しました。

★薩英戦争記念碑:
文久3年6月、イギリス艦隊7隻が錦江湾に来航し、生麦事件の責任の所在について交渉し、決裂。薩英戦争が勃発。薩英戦争を記念するモニュメントです。

★東郷平八郎像/東郷平八郎遺髪墓:
祇園之洲砲台跡の背後の多賀山に、薩英戦争で初陣を飾り、日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊をやぶった東郷元帥の像と遺髪塚があります。

<埠頭地区>
★開成所跡:
元治元年6月、科学や近代軍事に携わる人材を育成するために建てられた学校。島津斉彬の近代化政策の一環であり、学生たちは陸海軍砲術、航海術、兵法、地理、測量、医学と多岐にわたり、多くの人材がここで学びました。それほど近代化に貢献しながら、正確な場所は不明です。遺跡を示す石碑と、郵便制度創設者である前島密のモニュメントである赤いポストがあるあたりと言います。

★五代友厚(1836-1885) 銅像:
五代友厚は、薩英戦争の際、松木弘安(寺島宗則)と共に船奉行の添役として汽船の避難の任にあたっていましたが、イギリス軍の捕虜になってしまいます。この際、イギリス海軍、イギリスの国力に触れた五代や松木は、国父・久光に留学生派遣の急務を訴え、認められ、薩摩藩英国留学生を引率して渡英します。維新後は近代化普及に努め、大坂の近代化を図り、大阪の恩人と呼ばれました。

★坂本龍馬 (1836-1867) 新婚の碑:
盟友・中岡慎太郎とともに薩長同盟に尽力し、宿舎であった伏見寺田屋を幕府の捕吏に襲撃され負傷した坂本龍馬は、妻・お龍を伴い、薩摩に身を隠します。天保山町の甲突川の河口に、坂本龍馬とお龍夫妻の銅像と台座である記念碑が建てられています。坂本は朝敵となったため、武器を入手できない長州のため、薩摩藩の御用として武器を買い入れ、長州に流し、幕長戦争に貢献しました。

★天保山砲台跡:
薩英戦争の開戦の口火を切った場所。80听爆砲をはじめ大砲11門を有する砲台で、生麦事件の責任者の引き渡しを求めるイギリスは交渉を有利に進めるため、汽船三隻を拿捕しますが、これを宣戦布告と判断した薩摩藩側が天保山砲台から砲撃を開始しました。イギリスは汽船三隻を桜島小池沖にて焼却し、錦江湾の奥に退避、体制を立て直し、薩摩藩の各砲台に艦砲射撃を加えました。

★新波止砲台跡:
150听爆砲1門、80听爆砲1門をはじめ、大砲11門を装備した砲台です。ここからの砲撃が旗艦ユーリアラス号に命中、イギリスも大損害を被りました。

★大門口砲台跡:
薩英戦争時、36听爆砲3門、20ドイム臼砲1門、野戦砲4門がありました。嘉永6年、沿岸防備のために斉彬が築いた砲台で、キスト砲架という、当時の最新技術で作り方られた砲架は、横向きの移動が可能であり、移動する軍艦を追尾しながら砲撃することができました。旧式の砲台を想定したイギリス軍も薩摩藩の想定外の善戦に驚き、急速に薩摩藩に接近してゆくことになります。

<城西地区>
★千眼寺跡:
文久3年の薩英戦争では、海からの砲撃を警戒、海に近い鶴丸城を本陣とせず、ここに本陣が置かれました。国父・島津久光と藩主・島津忠義の親子はここで薩摩藩軍の指揮をとりました。慶応2年に廃寺となり、建物の一部が磯地区に移築され、イギリス人技師の仮宿舎として利用しました。もともとは島津家の第25代当主・島津重豪が荒田村から移管したお寺で、黄檗宗の名刹でした。

<上町地区>
★興国寺墓地/長澤鼎墓・新納久脩墓:の福昌寺の末寺であった興国寺も、廃寺となりましたが、墓地が残っています。
①長澤鼎: 薩摩藩英国留学生の一員として渡英。イギリスでの留学を終えた後、アメリカに渡り、カリフォルニアでワイナリーを成功させた人物です。
②新納久脩: 薩英戦争で軍役奉行として活躍。その後、薩摩藩英国留学生を引率して渡英。帰国後は家老に昇進。開成所を所管し、教育に尽力しました。

★大乗院坊中威光院跡(坂本龍馬・陸奥宗光等寓居跡):
禁門の変に生徒が加わって幕府と戦ったために、神戸海軍操練所は閉鎖され、同時に各藩藩士や浪士に海軍を教えていた勝安房守海舟の海軍塾も閉鎖されました。行き場を失った坂本龍馬や陸奥宗光等の浪士達は薩摩藩に保護され、蒸気船で鹿児島に入りました。現在の清水中学校に坂本龍馬等が宿舎としていた大乗院防中の威光院の遺構が残っています。もともと大乗院は島津氏の祈願所でした。

★森有礼 (1847-1889) 誕生地碑:
森有礼は17歳のとき薩摩藩英国留学生の一員として渡英、留学後はロシア、アメリカにも渡り、学びました。帰国後は新政府に参加し、活躍しましたが、「廃刀論」を掲げ、免職。その後アメリカに駐在、明治6年には福沢諭吉等と明六社を作り、啓蒙運動を展開。初代文部大臣に就任し、学校制度改革に尽力。大日本帝国憲法発布の日に、自宅で刺客に襲撃され、翌日、亡くなりました。

★伊東祐亨 (1843-1914) 誕生地碑:
薩英戦争には21歳で戦闘に参加。イギリスの国力を痛感した伊東は、海軍を志して勝安房守の神戸海軍操練所に入り、その後、江川太郎左衛門には砲術を学びました。庄内藩による江戸薩摩屋敷焼き討ちの際には、危うく難を逃れて翔鳳丸に乗船、砲手として幕府軍艦・回天丸と戦い、阿波沖海戦では春日丸に乗船し、開陽丸とも戦いました。日清・日露で活躍し、元帥に昇りつめました。

★五代友厚 (1836-1885) 誕生地碑:
江戸幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、そこで川村純義らと共に学びました。文久2年の幕府が上海に派遣した使節に参加を希望しますが断られて、水夫となって千歳丸に乗り込み、上海に渡航し、イギリスに圧迫される清国の国情を見て帰国(その渡航では、長州の高杉晋作や佐賀の中牟田倉之助も一緒でした)。その後は薩摩藩の近代化に尽力、薩摩藩英国留学生を引率し、渡英し、欧州を視察しました。明治維新後は大阪商法会議所の初代会頭となり、大坂の近代化推進に尽力し、「近代大阪の父」と称えられました。

★赤倉病院跡:
イギリスの医師ウィリアム・ウィリスは文久2年に来日。第二次東禅寺事件に遭遇。その後、生麦事件で落命したチャードソンの検死を行い、薩英戦争で負傷したイギリス将兵の治療にあたり、薩摩藩と深く関わります。島津久光に招かれ、イギリスと薩摩藩の友好関係構築に尽力。第十五代将軍・徳川慶喜に拝謁、英国公使パークスが参内の途上で刺客(朱雀操・三枝蓊)に襲われた際、負傷者を手当てし、幕末の様々な事件に直接、係った外国人としても知られています。戊辰戦争では敵味方の区別なく将兵を治療し、日本に赤十字の精神を教えたと言われています。その後、薩摩に渡って医学生育成に尽力しました。


【錦江湾岸月照史跡群: 西郷のターニングポイント】
敬愛する主君であり、尊敬する師であった島津斉彬の急死は、西郷隆盛を絶望の淵に叩き込みました。西郷は自殺を考えますが、当時、一橋慶喜の擁立に向けて共に活動していた京都清水寺成就院の月照上人に諫められます。西郷隆盛は、安政の大獄で追われる月照を匿うべく、薩摩に連れて行きますが、幕府に対して恭順の方針をとる薩摩藩は、月照斬殺を西郷に命じます。いたたまれない西郷は月照と共に錦江湾に身を投げます。月照は死に、西郷は蘇生。流謫が決まります。
※月照 (1813-1858):
★月照上人の墓: 
南林寺町の由緒墓の隣に月照上人墓があります。

★月照上人遺跡之碑: 
金生町。月照が日向送りになるまで軟禁された俵屋の跡です。

★西郷隆盛蘇生の家: 
吉野町。福岡藩士平野國臣等が両名を担ぎ込んだ漁家です。

★月照上人遷化之碑: 
吉野町。月照が西郷と共に入水した地に建っています。

★月照上人の追悼碑: 
吉野町。蘇生の家の近くにある、落命した月照追悼碑が建っています。


【明治六年の政変~私学校~西南戦争】
明治維新は革命ではなく、幕府が太政官に取って代わっただけ、という気分が、士族の間に燻ります。それは横井小楠、大村益次郎、広沢真臣暗殺事件、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱という形で暴発。そして、明治6年の政変で下野した西郷隆盛が設立した私学校党が、火薬庫の弾薬を、政府が運び出そうとしたこと、大警視・川路利良が西郷隆盛の刺殺を目論んでいるという風聞により、西南戦争に突入。西郷隆盛は維新以来、士族の抱えた矛盾とともに滅びました。

<吉野・吉田地区>:
★桐野利秋 (1838-1877) 誕生地碑:
桐野利秋は幕末時代は中村半次郎という名で活躍しました。その剣豪ぶりから『人斬り半次郎』と呼ばれていました。薩摩藩の軍事顧問であった上田藩士で兵学者の赤松小三郎を京都で斬殺しました。戊辰戦争では会津・鶴ヶ城の受け取りを見事につとめ、後に陸軍少将になります。西郷どんに心酔、明治6年の政変では西郷隆盛とともに下野。鹿児島で後進の指導に当たりましたが、西南戦争の城山総攻撃の際に戦死しました。京都で活躍していた頃は日誌を残し、読み書きの素養があり、無学・文盲であったというのは誤りです。お洒落で、フランスのブランド服を好み、香水を愛用していたことでも知られています。

★桐野利秋田蘆跡:
明治6年の政変に敗れ、西郷隆盛とともに下野し、鹿児島に戻った桐野利秋は、この地を開墾しました。明治7年、佐賀の乱を起こした江藤新平は西郷隆盛と山川で、その後、吉田で桐野利秋と密会しました。潜伏を進めた利秋でしたが江藤は固辞し、薩摩を去りました。江藤の弟子・徳久幸次郎と石井竹之助は、この吉田の地にとどまりました。後に共に西南戦争に従軍し、戦死しました。

★別府晋介 (1847-1877) 誕生地碑:
西南戦争が描かれる映画がドラマで、西郷隆盛が被弾した際に介錯を命じられ、刀を振り上げ「ごめんやったもんせ。チェストー!」と振り下ろすあの人物。「名前は知らないけど、あの人」と言われてしまう人物。それが別府晋介です。実は桐野利秋のいとこ。戊辰戦争では部隊長として奥羽で活躍し、征韓論が起こると朝鮮半島に渡り、現地事情を視察して西郷隆盛に報告しました。明治6年の政変で下野し、西南戦争の城山総攻撃の際に西郷隆盛の介錯をした後、自刃しました。西郷隆盛の介錯をする直前までは、負傷のために、駕籠に乗っていたと言われています。

★駄馬落の跡(積荷は唐芋、曳き手は西郷南洲翁):
西郷隆盛が吉野開墾地から馬を曳いて帰る途中、サツマイモを積んでいた馬が突然、下の畑に落ちて、途方に暮れた場所。()内の文字が刻まれています。

★南洲翁開墾地遺跡碑:
明治6年の政変で下野し、鹿児島に戻った西郷隆盛は、この地に開墾地を作り、陸軍教導宇団の100名を含む生徒たちと昼は開墾、夜は学問に励みました。

★鹿児島師範学校寺山修練道場跡碑/南洲翁愛馬塚の碑:
寺山ふれあい公園バス停付近に寺山修練道場跡の碑があります。そこから寺山入口に向かって右の荒畑に開墾中に急死した西郷隆盛の愛馬の墓碑があります。

<鶴丸城/城山地区>
★西郷隆盛銅像:
鹿児島市立美術館の一角に、忠犬ハチ公の像を作った郷土の彫刻家・安藤照が8年かけて作り、昭和12年に除幕された陸軍大将の正装をした像が建ちます。

★私学校跡:
明治6年の政変で下野した西郷隆盛は鹿児島に帰郷し、貧窮した士族の救済や、若者の育成を目的に、私学校を設立します。私学校は、鹿児島の鶴丸城の厩跡に建てられました。設立には西郷隆盛の賞典禄2000石、大山綱良の800石、桐野利秋の200石が供出された他、あまり知られていませんが、政府の大久保利通も1800石を供出しています。あくまでも当初の設立の目的は不平士族の発生と、その暴発を防ぐことであったことが伺われます。私学校には「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校が置かれ、地方には、分校も設置されました。入学資格は、城下士(郷士。お城に出仕する資格がなかった下級武士)の子弟に限られていたといいます。大警視・川路利良が西郷党を視察するため中原尚雄を送り込んだこと、川村純義が火薬庫の弾薬を鹿児島から持ち去ろうとしたこと、疑心暗鬼がやがて私学校の徒の暴発に繋がり、西南戦争へと向かってゆきます。

★幼年学校跡碑:
照国神社の境内に、西郷どんが設立した士官養成学校の遺跡の碑があります。篠原国幹が監督となり、漢学や洋学等を教え、外国への留学制度もありました。

★城山(外観):
西南戦争末期、政府軍(官軍)の追跡を躱した西郷隆盛、桂久武(元・家老)、桐野利秋、村田新八、別府晋介、辺見十郎太、池上四郎ら薩摩軍将兵は城山に籠りました。明治10年9月24日午前4時を期して、政府軍参軍の山県有朋、川村純義(西郷隆盛の従弟)は城山総攻撃を命じました。西郷隆盛以下将兵は、岩崎口に向けて進軍を開始するも、島津応吉久能邸門前で西郷隆盛は被弾し、ついに別府晋介に介錯を命じました。元・警察官で、裁判で政府と戦うべしと、投降した野村忍介等によって、ことごとく戦死あるいは自刃という、薩摩軍の将兵の壮絶な最後が語られることになります。城山とその周辺には西郷洞窟や、西郷隆盛終焉の地があります。幕末期は“人斬りはじめ半次郎”と呼ばれた桐野利秋も、探究心があり、人望もあり、将来を嘱望された村田新八も、ここに斃れました。奄美大島代官時代、西郷の妻(愛加那)や子を支援した桂久武も戦死しました。

★西郷隆盛洞窟:
西南戦争末期、政府軍に追い詰められた西郷軍将兵が明治10年9月19日~24日未明、起居した洞窟で、奥行き4m、幅3m、高さ2.5mあります。

★西郷隆盛終焉の地:
政府軍に城山を包囲され、追い込まれた西郷軍は、明治10年9月24日未明、
岩崎谷に向け下山。まず、桂久武が被弾して戦死。谷の入口付近まで来たとき、西郷隆盛も被弾、動くことができなくなりました。西郷隆盛は負傷して駕籠に乗っていた別府晋介に「晋どん、もうここでよか」と介錯を命じました。別府晋介は「ごめんやったもんせ」と叫び、西郷隆盛の首を落としたといいます。

★南洲墓地(西南戦争薩摩将兵墓地):
西郷隆盛をはじめ、桂久武、桐野利秋、村田新八、別府晋介などの墓が並んでいます。中津隊の増田宋太郎は、福沢諭吉のいとこです。また、鹿児島県令として私学校設立を援助し、西南戦争の薩摩軍を支援した大山綱良は、長崎にて斬首刑に処されましたが、彼の墓もここにあります。大山綱良は高麗町出身で、幕末には大山格之助の名で知られた人物で、戊辰戦争では下参謀も勤めました。西南戦争で戦死あるいは自刃した将兵2000人ほどの墓碑が並んでいますが、征韓論反対を盾に、西郷隆盛等を追い込んでいった明治政府が、やがて、日清・日露と、外征してゆくという皮肉を、彼等はどのように感じているでしょうか・・

★西郷南洲顕彰館:
上竜尾町に、西郷隆盛をはじめ、明治維新の際に活躍した先覚者たちを顕彰し、その偉業を伝える資料館があります。西郷隆盛の遺品やジオラマ等があります。


明治維新は長州藩、薩摩藩、土佐藩、肥前佐賀藩が牽引したといいますが闇雲に攘夷をせず、国力をつけて外国と対峙する”大攘夷”を藩是とした藩を歩きます。

※時間が許せば
☆大警視・川路利良 (1829-1879) の誕生地や銅像も訪れます。川路利良は、現在の鹿児島市郊外の皆与志町比志島地区に生まれ、禁門の変では敵将・来島又兵衛を討ち取る手柄を立て、戊辰戦争の上野戦争では彰義隊を敗走させ、会津戦争でも戦功をあげました。維新後は渡欧し、欧州各地の警察制度を学び、日本に警察制度を導入したことで知られています。政府に不従順な私学校の中心にあった西郷隆盛を視察するため、中原尚雄を薩摩に送り込みますが、逮捕された中原の供述は、『西郷のしさつ』とあり、視察とも、刺殺とも取れるその供述が、西南戦争の引き金のひとつになったといわれています。西郷、大久保が没するとまもなく病を得て、亡くなりました。
ツアーポイント
1. 維新胎動の地・鹿児島を徒歩や公共交通機関で観光します。
2. 維新に活躍した人々の史跡(誕生地・旧宅地・旧宅・墓)を探訪
3. 所謂、観光地めぐりではありません。石碑を訪ねる新しい旅です。
4. 磯庭園に入場。薩摩藩の集成館事業の足跡を見ます。
5. 鹿児島の郷土料理もたのしみ!
6. 添乗員が鹿児島の幕末史と近代化を説明します。


企画・同行予定添乗員

立花 誠(たちばな まこと)

世界200カ国以上を歩いた旅の鉄人!

世界を歩いた旅の鉄人! 2005年、ツアーデスク“パームツアーセンター”を立ち上げました。行っていない国はイスラエル、モンテネグロ、コソボ、南スーダン、クック諸島(独立前に訪問)のみ。1996年から2003年まで風の旅行社に在籍、休みの期間にはギアナ三国、ブルキナファソなど、いまのツアーの原型となる体験をしてきました。今まで歩いて感銘を受けた国や、驚きとともに印象に残った地域、異文化体験などのプログラムをこれから発信してゆきます。旅のメインはもちろん、国境越えや、村歩き、トランジットの街での途中下車など、旅の鉄人ならではの味付けもお楽しみ頂けます。


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スケジュール
 都市内容 (宿泊地)
1鹿児島中央駅

鹿児島
鹿児島中央駅集合: 14:30~14:45
徒歩で旅館またはホテルへ。
夕刻:数々の偉人を生んだ加治屋町/高麗町を散策します。
【幕末の薩摩藩とゆかりの人々】
★西郷武屋敷跡
★西郷隆盛 (1828-1877) /西郷従道 (1843-1902) 誕生地碑
★大山巌 (1842-1916) 誕生地碑
★大久保利通 (1830-1878) 誕生地碑/銅像
★伊地知正治 (1828-1886 )誕生地碑
★吉井友実 (1828-1891) 誕生地碑
★村田新八 (1836-1877) 誕生地碑
★篠原国幹 (1837-1877) 誕生地碑
★樺山資紀 (1837-1922) 誕生地碑
★黒田清隆 (1840-1900) 誕生地碑
★黒木為禎 (1844-1923) 誕生地碑
★井上良馨 (1845-1929) 誕生地碑
★東郷平八郎 (1848-1934) 誕生地碑
★山本権兵衛 (1852-1933) 誕生地碑
※このほか、加治屋町/高麗町出身の偉人たちには:
・・家老として、慶応3年パリ万国博覧会に『日本薩摩琉球国太守政府』という名で8名の使節を率いて参加、王政復古の大号令に立ち会った岩下方平(1827-1900)
・・精忠組のNo.3として幕末の薩摩藩を牽引、禁門の変では被弾しながら奮戦、国司信濃軍を撃破、第一次長州征討では戦わず征討を完了させた税所篤(1827-1910)等がいました。
★有村雄助 (1835-1860)・有村次左衛門 (1839-1860) 誕生之地碑
★川村純義 (1836-1904) 誕生地碑
★松方正義 (1835-1924) 誕生地碑/松方正義銅像
★三方限出身名士顕彰碑
  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事● - /  - / 夕
2鹿児島終日:維新史跡を徒歩でめぐります。
【幕末の薩摩藩とゆかりの人々】
<城西地区>
★小松帯刀 (1835-1870) 原良別邸
★西郷家墓地
<鶴丸城/城山付近>
★鶴丸城跡
★天璋院篤姫 (1836-1883) 像
★照国神社
★小松帯刀像
★座禅の森と座禅石
<上町地区>
★浄光明寺跡
★福昌寺跡/島津斉彬墓・島津久光墓
<松元地区>
★有馬新七 (1825-1862) 居宅跡
<喜入地区>
★伊牟田尚平 (1832-1868) 誕生地碑

【薩摩藩近代化の軌跡を歩く】
<磯地区>
★仙巌園
★反射炉跡
★尚古集成館
★電信の碑
★旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
★鹿児島紡績所跡
★祇園之洲砲台跡
★薩英戦争記念碑
★東郷平八郎銅像/東郷平八郎遺髪墓
<埠頭地区>
★開成所跡
★五代友厚 (1836-1885) 銅像
★坂本龍馬 (1836-1867) 新婚の碑
★天保山砲台跡
★新波止砲台跡
★大門口砲台跡
<城西地区>
★千眼寺跡
<上町地区>
★興国寺墓地/長澤鼎墓・新納久脩墓
★大乗院坊中威光院跡
★森有礼 (1847-1889) 誕生地碑
★伊東祐亨 (1843-1914) 元帥誕生地碑
★五代友厚 (1836-1885) 誕生地碑
★赤倉病院跡
  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事●朝 / 昼 / 夕
3鹿児島終日:維新史跡を徒歩でめぐります。
【錦江湾岸月照史跡群: 西郷のターニングポイント】
★月照上人の墓
★月照上人遺跡之碑
★西郷隆盛蘇生の家
★月照上人遷化之碑
★月照上人の追悼碑

【明治六年の政変~私学校~西南戦争】
<吉野・吉田地区: 私学校党の開墾>
★桐野利秋 (1838-1877) 誕生地碑
★桐野利秋田蘆跡
★別府晋介 (1847-1877) 誕生地碑
★駄馬落の跡(積荷は唐芋、曳き手は西郷南洲翁)
★南洲翁開墾地遺跡碑
★鹿児島師範学校寺山修練道場跡碑/南洲翁愛馬塚の碑
<鶴丸城/城山付近: 西南戦争>
★西郷隆盛銅像
★私学校跡
★幼年学校跡碑
★城山
★西郷隆盛洞窟
★西郷隆盛終焉の地
<上町地区: 戦いが終わって・・・>
★南洲墓地(西南戦争で戦没した薩摩軍将兵の墓地)
★西郷南洲顕彰館

  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事●朝 / 昼 / 夕
4鹿児島
鹿児島中央駅
午前: 鹿児島の新名所/7つの時標(ときしるべ)を徒歩で巡ります。最後は中央駅前の若き薩摩の群像を見ます。
■時標1 「イギリス艦、鹿児島湾に現る」(鹿児島市西千石町/加治屋町交差点)
・大山巌/西郷従道/山本権兵衛
※生麦事件に端を発した薩英戦争。鹿児島湾(錦江湾)にイギリスの軍艦が姿を現したとの報せを受け、港に駆けつける大山巌、西郷従道、山本権兵衛の群像
■時標2 「樺山、黒田、大いに語る」(鹿児島市西千石町/高見馬場交差点)
・樺山資紀/黒田清隆
※将軍継嗣問題で、井伊直弼を首班とする徳川慶福を推す南紀派と、一橋慶喜を推す島津斉彬等の一橋派が争い、島津家中の若い薩摩藩士たちも日本の将来について語り合いました。若き薩摩藩士を代表する樺山資紀と黒田清隆の像です。
■時標3 「黒田清輝、桜島の噴火を描く」(鹿児島市東千石町/商工会議所ビル前)
・黒田清輝/山下兼秀
※黒田清輝は薩摩藩士の子に生まれ、画家として名を残しました。この群像は、桜島の噴火のようすを心配そうに眺める黒田清輝と弟子・山下兼秀の像です。
■時標4 「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」鹿児島市大黒町
・坂本龍馬/坂本龍馬の妻・お龍
※薩長同盟を締結させることに尽力した坂本龍馬は、伏見寺田屋で幕吏に襲われ負傷し、妻・お龍を伴い、薩摩に身を寄せました。これが日本初の新婚旅行と言われています。霧島の天の逆鉾を引き抜いたエピソードはこの時のものです。
■時標5 「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」(鹿児島市東千石町/天文館・ぴらもーるアーケード)
・島津重豪/水間良実
※薩摩の近代化を最初に思い描いたのは島津重豪だったかもしれません。蘭癖と言われるほど、西洋文明に憧憬を描いた重豪と家臣で弟子の水間良実の像です。
■時標6 「伊地知、吉井、政変について語る」(鹿児島市山下町/中央公園南側)
・伊地知正治/吉井友実
※桜田門外の変によって幕府の権威も弱まりつつある時期、今後の日本について考える人が増えてきました。後に明治政府で活躍する伊地知正治や吉井友実像。伊地知正治は軍師として戊辰戦争で活躍、吉井友実は西郷どんの親友の一人。
■時標7 「ウィリス、高木に西洋医学を説く」(鹿児島市山下町)
・ウィリアム・ウィリス、高木兼寛
※明治2年、江戸から薩摩に招聘された医師・ウィリアム・ウィリスは鹿児島で後進育成に力を尽くしました。後に東京慈恵会医科大学を創設する高木兼寛もウィリアム・ウィリスが育てた門人の一人です。二人の会話を交わす像です。

★若き薩摩の群像: 森有礼等の像

午後: 鹿児島中央駅にて解散
  宿泊●泊 食事●朝 /  - /  - 
出発日・旅行代金(1名様あたり)
▼以下、出発日が過ぎたツアーは、参考料金としてご覧ください。
2018/10/26111,000円
ご旅行条件・他
最少催行人員●5名(定員8名)
添乗員●添乗員は1日目の鹿児島中央駅で合流し、最終日は鹿児島中央駅まで同行しお世話いたします。
利用予定航空会社●
利用予定ホテル●【鹿児島】東急REIホテル、シサンイン鹿児島谷山、ホテル・ニューニシノ、 ベストウェスタン・レンブラント・ホテル鹿児島リゾート、鹿児島プラザ・ホテル天文館、鹿児島ワシントン・ホテル・プラザ
お一人部屋追加代金●27,000円
燃油特別付加運賃(旅行代金に含まれません)●
●注意点
※ 鹿児島市街地は基本的に徒歩と公共交通機関で観光します。
※ 荷物を持っての移動があります。ご自分で持てる範囲の荷造りをお願い致します。
※ 史跡周辺の自然物、人工物は持ち去らぬよう、お願い致します。



●旅行代金に含まれないもの
目的地までの交通費、日程表に含まれない食事代、その他個人的な出費。

【事前徴収】
<2018年07月現在>

●大阪・名古屋発及び、その他の地方都市発の場合
・鹿児島中央駅到着、出発の交通費は含まれておらず、この交通機関はお客様ご自身の手配・ご負担になります。





 
●燃油特別付加運賃及び空港諸税
【ご注意】燃油特別付加運賃及び空港諸税について をご覧下さい。
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