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明治維新150年/志国高知幕末維新博

明治維新胎動の地・高知5日間~藩という枠を外れて活躍した郷士たちの足跡

  • こうち旅広場(三志士像).jpg
  • 青山文庫庫舎/佐川町
  • 佐川町尾川集落/佐川町
  • 津野町西庁舎近くにそびえる維新の志士吉村虎太郎像/津野町
  • 坂本龍馬脱藩の道(維新の道)/梼原町
  • 維新の群像(維新の門)/梼原町

明治維新胎動の地・高知
石碑や銅像でたどる“藩という枠を外れて活躍した郷士”の足跡

明治維新から150年が経過した今年、ちょっと変わった維新史探訪の旅をご提案します。

明治維新を牽引した薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前佐賀)のうち、土佐藩の維新史を探訪します。

土佐藩、という言い方は、厳密には間違いで、江戸時代を通じ、『山内土佐守家中』などという言い方をしていました。
「お手前はどちらのご家中で?」
「山内土佐守の家中でござる」という感じです。
藩という言葉が公文書に書かれるようになったのは、実は明治時代からという説もあります。
でも、ここでは『土佐藩』という、慣れ親しんだ名称で統一させて頂きます。
土佐藩は、旧国で言えば、土佐国で構成されています。

土佐藩、戦国期に活躍した山内一豊が、関ヶ原の戦いの後、土佐国に入って立藩。土佐一国24万石を領し、幕末に至りました。山内氏以前の土佐は長宗我部氏が支配していましたが、その家臣団のうち、平時は農耕に従事し、事あるときには武器をとって戦う集団―一領具足と呼ばれる集団がありました。土佐藩は立藩時、反乱分子となりうる一領具足の首長たちを相撲の試合に誘い出し、虐殺しました。しかしその後、一領具足に在野の藩士=郷士という身分を与え、懐柔を試みます。その郷士たちは、正規の藩士=土佐藩士=山内家家臣団とは、身分的には雲泥の差があり、厳しい差別を受け、藩の役職や番士に就任することは殆ど皆無でした。武市半平太は、後年、白札という、郷士と上士の中間の身分を与えられますが、あくまでも名誉職のようなもので、藩政に加わることは殆ど不可能でした。一方、参政・吉田東洋の家系は、長宗我部家の家臣でしたが、例外的に優遇され、山内容堂の政治顧問のような役割を担っていました。公武合体運動を推進する容堂―東洋―後藤象二郎・板垣退助の上士グループと、武市半平太の率いる尊王攘夷派、二つは相容れない存在でした。東洋は様々な人材を登用し、新おこぜ組を組織し、公武合体をベースにした改革を企てますが、保守派・門閥派には受け入れられず、武市半平太は保守派・門閥派に接近すると、吉田東洋を暗殺し、改革派を退け、自身の主宰する土佐勤王党を藩内第一党とし、尊王攘夷運動を推進してゆきます。武市半平太の心底には、郷士による藩政掌握があり、反論を尊王攘夷に統一して倒幕運動の一翼に加わる、という計画があったに違いありません。彼等は拠点を
京都に移し、天誅と称するテロ活動を行い、幕府関係者を殺害、あるいは晒し、 京都の幕府勢力を震撼させることになります。武市半平太は、郷士でありながら、脱藩することをよしとせず、藩を牽引して尊王攘夷運動によって幕府を追い詰め、幕府から政治を奪取する方針を取り続けますが、やがて彼の過激攘夷活動は、前藩主の山内容堂の知るところとなり、容堂は、土佐勤王党の弾圧を開始します。土佐の勤王の志士の指導者であった、平井収二郎、間崎哲馬、広瀬健太は切腹、天誅の実行者であった岡田以蔵は斬首、河野敏鎌等は激しい拷問を受けました。そして勤王党の党首であった瑞山・武市半平太も帰藩後入牢、切腹となりました。そうした土佐勤王党の台頭から土佐勤王党の獄までの間、土佐藩での活動を諦め、他国に活動拠点を移そうとした志士たちが、土佐藩を脱藩し、各地に散ってゆきました。郷士という身分が自由を妨げる幕藩体制を倒し、新しい時代に夢を見た多くの郷士たちが、国境を越えてゆきました。吉村虎太郎、坂本龍馬、那須信吾、田中光顕、片岡利和、橋本鉄猪・・・ 彼等は藩という枠を超えて有志と交わり、土佐浪士として活躍し、池田屋事件、禁門の変、ぜんざい屋事件、近江屋事件で多くの犠牲を払いながら、土佐勢力を薩長土肥の一翼に位置付けることに成功。石田英吉、田中光顕、片岡利和、橋本鉄猪、河野敏鎌等、一握りが生き残ります。

土佐・高知の西側、佐川、津野、梼原には、土佐を脱藩して各地で活躍した郷士、明治維新のために活動した人々の史跡が多数、残されています。今回の旅では、そうした明治維新の礎となった土佐郷士出身の勤王の志士たちの足跡を辿ります。


■意外と知られていない幕末の土佐■
①上士にも勤王の志士はいた。
→幕末期に、身分制度の厳しい土佐藩を脱藩して長州藩や土佐藩に接近して活躍した郷士たち。坂本龍馬(厳密に言えば町人)、中岡慎太郎(厳密に言えば庄屋)、吉村虎太郎(厳密に言えば庄屋)等は知名度が高く、人気もあり、彼等と相対していた上士たちは、頑迷で旧弊で郷士など虫けらのように考えていた連中、と思われがちです。しかし、板垣退助、佐々木高行、谷干城、岡本健三郎、神山左多衛等、封建社会の歪みに疑問を感じ、郷士たちに寛大であった人々がいました。

②人斬り以蔵の虚像と実像
→人斬り以蔵こと岡田以蔵は、数々の歴史小説により、不遇な最貧困層の出身で、郷士よりも身分の低い足軽であり、勤王派の郷士たちからは人殺しの道具のように扱われていて、最後は身を持ち崩し、無宿人として土佐に送還され、獄中で拷問に耐えかね、土佐勤王党の党員の名前を自白し、処刑された・・・ という通説。
彼の父・岡田義平は歴とした郷士で、藩の御用を勤める為、足軽の株を買って高知城下に移住し、沿岸警備の役に就き、長男の以蔵には足軽の岡田家を、次男の啓吉には郷士の岡田家を継がせました。以蔵は武市半平太の推薦で剣術修行のために江戸に留学し、三大道場と言われた鏡心明智流・桃井春蔵の士学館で学び、また九州での修行を許され、藩主の参勤交代にも同道しています。これは、ある程度の教養がなければ無理な話で、後年、以蔵が京都で幕府側の要人等を暗殺し、その後、無宿者に落ちぶれたのも、俗に言う『汚れ仕事をさせられた上に、仲間に嵌められた』と考えると辻褄が合う部分があります。土佐に送られた岡田以蔵が拷問の際に勤王党員の名を自白し斬首に処され、さらに土佐勤王党の大弾圧につながったことから、明治維新後に栄達したかつての郷士たちから全ての悪名、都合の悪い部分を背負わされて土佐勤王党史、土佐藩史から抹殺されたと見ることができるのでは?父の義平や、弟の啓吉にお咎めがなく、啓吉は明治時代を生き延び、その息子はたばこ専売の礎を築いたことも、そのことを裏付けているのかもしれません。

③自由民権運動が示すもの
→土佐藩には、藩祖・山内一豊について掛川から土佐に入った上士、旧主・長宗我部家の家臣で山内家からスカウトされて藩士となった上士(吉田東洋等)、そして半士半農の民で事あるときに武器をとって戦った一領具足と呼ばれた人々がいました。その一領具足の多くは郷士(在郷の下級武士)となりました。上士と郷士の間には大きな身分の差がありました。長州の吉田松陰が唱え、高弟の久坂玄瑞によって広められた草莽崛起(名もない人たちが立ち上がり、変革のために見返りを求めず、尽力する)という思想は、土佐の郷士たちに多大な影響を与えました。郷士の首領で、白札と呼ばれる上士格の身分を持つ瑞山・武市半平太は、勤王党を組織して、変革を企てます。意見を異にする参政・吉田東洋を暗殺し、京都に活躍の場を移し、勤王派の公家を動かして勤王運動を普及させようとしますが、文久三年八月十八日の政変で長州藩が失脚すると、土佐勤王党にも斜陽の季節がやってきます。吉村虎太郎等は天誅組を組織して大和で挙兵しますが鎮圧され、武市半平太は帰藩すると投獄されて切腹を命じられます。勤王党の党員の多くは土佐における勤王党の獄で処断されます。坂本龍馬や中岡慎太郎は、藩の枠を外れて西国雄藩と気脈を通じ、雄藩同盟をめざし、奔走します。郷士たちの殆どが幕末の風雲の中で命を落とし、やがて迎えた明治維新では、後藤象二郎、板垣退助等の上士たちを中心に、新政府に参加します。しかし、薩長による藩閥政治が基本であった明治政府では発言権を得られず、明治六年の政変で多くの土佐人は下野し、やがて自由民権運動へ投じてゆくことになります。薩長が幕府にとってかわっただけ、明治の世になっても土佐の郷士たちはかつての上士と結び、草莽崛起の精神で、『(洋服を着て靴を履いた)武士の世』を終わらせるべく、時代の波に立ち向かってゆくのです。

土佐藩は、江戸期を通じ、他藩では考えられないほどの身分の差が存在しました。自藩に見切りをつけた郷士たちは藩外に飛び出し、薩摩・長州・芸州広島等に同盟を呼びかけ、雄藩連合に東奔西走し、明治維新の原動力となりました。

本コースでは、幕末から明治に活躍した土佐の人々が、どのような場所で生まれ育ち、風雲の中でどのような活躍をしたか、偲びます。



●武市半平太 (1829-1865) :
坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎と並んで、幕末維新土佐の四天王のひとり。瑞山という号でも知られています。半平太の実家は、数代前までは農民であり、郷士の株を購入、武士の身分を手に入れた家系です。その郷士株は、白札郷士と呼ばれる、上士と下士の中間に位置する身分のもので、幼きころより文武両道の半平太は、やがて藩政に参加し、政治活動がしたいという希望があったと思われます。郷士の子弟に文武を教える学問所を構え、彼自身も江戸に武術修行に出て桃井道場に通い、鏡心明智流を極めました。身分制度が厳しく機能していた土佐藩にあって、藩政を牛耳っていたのは参政・吉田東洋が組織する『新おこぜ組』。半平太は、長州藩士で尊皇攘夷派の頭目であった久坂玄瑞の影響を受け、郷士の一党を藩政に加えることを画策しますが、『新おこぜ組』にそれを阻まれます。そこで半平太は、床の間の置物であった藩の保守派の長老らと手を結び、自らが結成し、指揮をとる土佐勤王党を動かして東洋を暗殺、保守派の長老を動かして『新おこぜ組』を藩政から遠ざけました。一藩尊王攘夷思想を掲げた半平太は、京都に上ると、幕府の役人や幕府に味方する人々に対し、天誅と呼ばれるテロを敢行し、幕府を追い詰める活動を開始します。岡田以蔵が人斬りとして暗躍し、そのテロ活動は一定の成果をみますが、やがて東洋暗殺や、京での過激な活動は、前藩主・山内容堂の怒りを買い、土佐に呼び戻されると、投獄されます。一年と八ヵ月後、武市半平太は山内容堂に切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅しました。土佐勤王党からは維新回天に活躍した坂本龍馬、中岡慎太郎ほか、多くの人材を世に送り出しましたが、やがて草莽思想は自由民権運動に繋がってゆきました。


●坂本龍馬 (1836-1967) :
いわずと知れた維新回天の立役者のひとり。幕末史を知らなくても、坂本龍馬の名や事蹟は聞いたことがある人が多いでしょう。土佐高知城下に、郷士株を持つ裕福な商家の一族に生まれた龍馬は、早くに実母を亡くし、継母と姉の乙女等に育てられました。継母の縁者の家は御用商人で、外国渡来の珍しい品物を見学し、外国に対する好奇心が生まれたとされています。武術修行を許されて江戸に行き、千葉周作の弟である千葉定吉に入門し、武芸を磨きました。ペリー来航の折には品川・立会川にあった土佐藩邸の警備にあたり、外国文明の象徴である蒸気船の存在に圧倒されると、佐久間象山に洋式砲術を学び、尊皇攘夷の志を抱きます。盟友であり親類でもある武市半平太(瑞山)が土佐勤王党を結成すると、加盟。半平太の依頼で長州に尊皇攘夷派の中心人物である久坂玄瑞に会い、在野の人材(草莽)による変革に共鳴。発言権のない土佐藩を脱藩、志士活動を展開します。日本の防衛には海軍力の増強が必須という幕臣・勝海舟に師事し、勝の海軍塾で海軍を学び、門人に多数の勤王の志士を抱える勝の海軍塾が幕府に危険視されて閉鎖されると薩摩藩に身を寄せ、薩摩藩をスポンサーに長崎に貿易商兼私設海軍・亀山社中を設立。禁門の変で朝敵となり、幕府軍に包囲された長州藩と薩摩藩を結び付けるべく奔走し、薩長同盟締結に成功。第二次長州征討が発令されると、武器弾薬を薩摩藩の名目で外国から購入し、長州に調達。自らも亀山社中を率い、参戦、馬関(下関)海峡周辺で幕府艦隊を牽制し、長州藩の勝利に貢献しました。更に同士・中岡慎太郎とともに西国雄藩の同盟に尽力し、幕府側を牽制、世情が討幕に傾くと、土佐藩より将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を出すよう建言。そして新政府綱領(船中八策)を土佐藩家老・後藤象二郎等に示します。国内の騒乱は、外国勢力に付け入る隙を与えることを懸念し、平和裏に政権交代が済むよう苦心していたと考えられます。土佐藩から慎太郎とともに脱藩の罪を許され、亀山社中は土佐藩の外郭団体『海援隊』となり、戦乱になった場合に備えます。しかし、慶応三年十一月十五日の夜、中岡慎太郎とともに京都河原町の醤油商・近江屋で会談中に襲撃され、死亡しました。龍馬の死後、海援隊の副官であった陸奥宗光は、先年、伊予大洲藩より海援隊が借り受けたいろは丸と、紀州藩船・明光丸が衝突した際に、龍馬が海事裁判を起こして八万三千両の賠償金を取った事件を恨んで紀州藩士が龍馬を襲撃して、その背景に紀州藩重役の三浦休太郎がいたと考えました。宗光は海援隊と中岡慎太郎が隊長を勤めていた陸援隊を組織、京都天満屋にいた三浦休太郎を襲撃、新撰組と斬り合いになりました。現在では、京都見廻組の犯行、あるいは警察活動の一環だという説が有力になっています。妻は京都の医家の娘・楢崎龍。龍馬が伏見寺田屋で捕吏に襲われた際に献身的な看護をし、後に薩摩路へ日本発の新婚旅行を行ったというエピソードが有名です。京都霊山護国神社には龍馬と慎太郎の墓があり、円山公園に二人の像があります。

●中岡慎太郎 (1838-1967) :
坂本龍馬に次いで人気のある幕末の英雄・中岡慎太郎。彼は土佐国安芸郡北川郷柏木村に大庄屋・中岡小傳次と後妻・ウシの長男として誕生しました。幼少より学問に長け、庄屋としての力量も評価されています。その一つがいまや北川村の名物となっているゆず。庄屋見習いの時代、村内に自生するゆずに目をつけて、醤油や味噌の入手にも事欠くほどの貧困にあえぐ村の将来をも見据え、調味料としても使え、いずれは村の財源となる可能性を秘めたゆずの栽培を奨励しました。このゆずの栽培が功を奏して、村の危機が救われたという逸話が残っています。成長した慎太郎は、間崎哲馬に学問を、武市半平太に剣を学び、尊王攘夷の志を抱き、志士としての活動を開始します。文久2年、長州藩の久坂玄瑞、山県半蔵(のちの宍戸璣)とともに、信州松代藩に佐久間象山を訪問し、国防や政治論を交わし、意識を高めました。これにより慎太郎は玄瑞や半蔵と同様、志士の中で抜きんでた存在となってゆきます。身分制度にがんじがらめとなった土佐藩では国事に奔走できないと悟った慎太郎は、活動の場を藩外に求め、脱藩しました。長州藩に身を寄せた慎太郎は、七卿落ちで長州藩に落ち延びた三条実美に仕え、外人部隊である忠勇隊を組織し、禁門の変、下関攘夷戦争に出陣、負傷しました。日本人同士が戦う状況を憂えた慎太郎は雄藩連合により幕府を倒し、挙国一致の体制を作ろうと東奔西走します。その努力はやがて、薩長同盟、薩土密約そして土佐藩が建白した大政奉還という具合に実を結んでゆきます。また、武力討幕を視野に入れて、陸援隊を組織すると、その隊長となりました。しかし、慶応三年十一月十五日、盟友・坂本龍馬とともに京都近江屋に於いて刺客に襲撃されます。龍馬は即死。二日後、慎太郎は訪れた人々に後事を託し、不帰の客となります。慎太郎は土佐の坂本龍馬や後藤象二郎や板垣退助、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の桂小五郎や高杉晋作・久坂玄瑞・山県半蔵、筑前福岡の早川勇など当時の第一級の志士たちと交流し、ひとかどの人物であったことが記録されています。室戸岬にある中岡慎太郎の像は、桂浜の坂本龍馬の像と向かい合っているという都市伝説がありますが、現在では否定されています。笑顔の写真が残っています。


【佐川】

■佐川ゆかりの人々
●伊藤蘭林 (1815-1895) :
伊藤蘭林は、土佐藩の筆頭家老にあたる深尾家の領地である佐川の儒学者です。深尾家が開校した郷校・名教館に通い、『港湾工学の父』とよばれた土木工学者・広井勇の曾祖父・広井遊冥に儒学や和算を学び、後年、自身も名教館教授を務め、幕末の志士・田中光顕、植物学者・牧野富太郎、広井勇等に学問を授けました。

●田中光顕 (1843-1939) : 五志士
佐川領主・深尾家の家臣である浜田家に誕生しました。坂本龍馬の同志で、龍馬脱藩の手引きをし、後に天誅組に加わり、大和で戦死した那須信吾はおじです。武市半平太の土佐勤王党に入り、土佐勤王党の獄が始まると謹慎を命じられます。元治元年(1864)同志とともに脱藩、長州藩に身を寄せ、高杉晋作の庇護を受けます。池田屋事件を契機として禁門の変が起きると、朝敵となった長州藩に対し第一次長州征討が始まりますが、その混乱の中、同志とともに大阪城襲撃を企画し大坂に潜伏するも、新撰組・谷万太郎等の襲撃を受け、仲間の大利鼎吉を失います(ぜんざい屋事件)。その後、同志・片岡利和とともに十津川に潜伏し、薩長同盟の準備期間には薩摩藩の使者・黒田了介(清隆)を案内し、第二次長州征討では長州藩の軍艦・丙寅丸に乗船し、幕府軍と戦いました。その後、脱藩の罪を許され、中岡慎太郎の陸援隊に入隊、慎太郎の死後、陸援隊の副隊長として過激派の公家・鷲尾隆聚を補佐し、高野山を占領して紀州藩を牽制、その後は、戊辰戦争で活躍しました。明治維新後は政府に出仕。岩倉使節団に理事官として欧米を視察、その後は学習院院長、宮内大臣等を歴任し、伯爵を授けられました。

●池大六 (1827-1879) : 五志士
池大六は、深尾家の用人(秘書)・池家に生まれ、最初は葉山郷の観音寺に入り、得度の後、智音の法名を授けられ、修行の日々を過ごします。入山から三年後、兄の病死のため還俗し、池家の家督を継ぎます。銃砲術を学び、目録を受けます。隣家の田中光顕や橋本鉄猪の影響により勤王思想を抱き、元治元年、脱藩します。長州に身を寄せ、後に薩長同盟の準備期間に中岡慎太郎に会い、弟子になります。陸援隊に入隊した大六は、光顕や鉄猪に再会、討幕運動で活躍します。維新後は顕官になる道をとらず、比較的低い役職を誠実に勤め、その生涯を終えました。

●橋本鉄猪 (1835-1872) : 五志士
橋本鉄猪は深尾家の家臣の家に生まれ、武市半平太の土佐勤王党に加盟しました。土佐勤王党の獄が始まると自宅謹慎を命じられますが、元治元年に隣家の池大六、その隣の田中光顕等と共に脱藩し、長州藩に身を寄せます。庇護を受けた長州が朝廷、幕府、列強諸国に包囲され、危機的状況に陥ると京都に活動拠点を移し、岩倉具視の知遇を得ます。坂本龍馬、中岡慎太郎を岩倉具視に紹介し、薩長同盟、大政奉還、王政復古の可能性を広げました。後に中岡慎太郎の陸援隊に入隊して討幕運動を推進、慎太郎の死後は田中光顕とともに、過激公家・鷲尾隆聚を補佐、高野山を占領して紀州藩を牽制しました。明治政府に出仕するも、病死しました。本名の橋本鉄猪よりも、変名から改名した大橋慎三の名のほうで知られています。

●井原応輔 (1842-1865) : 五志士
井原応輔は深尾家の家臣の家に生まれ、武市半平太の土佐勤王党に加盟しました。土佐勤王党の獄が始まると、謹慎。元治元年に田中光顕等と脱藩し、長州に身を寄せます。後に大坂に拠点を移し、長州藩の危機的状況を打開するため、多くの同志を募ろうと遊説の旅に出ます。しかし、美作国英田郡土居に於いて、盗賊と誤認され、農民や在郷の役人と衝突、引責自刃しました。その際、土佐藩出身の千屋金策 (1843-1865) 、島浪間 (1843-1865) 、岡山藩の岡元太郎(もとたろう)も運命を共にしました。土居には四人を慰霊する『四ッ塚様』が残されています。

●片岡利和 (1836-1908) : 五志士
片岡利和は、土佐藩士・永野家の次男として生まれ、家老・深井家の家臣の那須家の養子になり、那須盛馬と名乗りました。武市半平太の土佐勤王党に加盟し、土佐勤王党の獄が始まると、自宅謹慎を命じられます。元治元年、田中光顕等とともに脱藩し、長州藩に身を寄せ、後に京都や大坂で討幕運動に身を投じます。京都では新撰組の沖田総司や斎藤一と戦い、負傷し、十津川に逃れて潜伏します。慶応元年、片岡源馬利和と改名、中岡慎太郎が陸援隊を結成するとそれに加盟。近江屋事件で慎太郎が暗殺されると、形見の短刀を渡されます。戊辰戦争では、仁和寺宮嘉彰親王を補佐して越後柏崎に布陣、軍監を務めます。明治維新後は、政府に出仕し、明治天皇の侍従、貴族院勅選議員として活躍、男爵を授かります。


■佐川の幕末維新の史跡:

★佐川城跡:
佐川1万石は、藩主一門で土佐藩筆頭家老である深尾氏の領地で、佐川城という砦のような陣屋が置かれていました。幕末の領主は、深尾鼎重先 (1827-1890) で、山内容堂をよく補佐しながら勤王の志士にも理解を示し、郷士や領民にも学問を奨励した名君として知られています。山内容堂の代理も務めるほどの人物でした。

★名教館跡:
安永元年(1772)、六代領主・深尾茂澄が私塾として開校したのが最初で、のち享和2年(1802)、七代領主・繁寛が拡張し、郷校に昇格させました。勤王の志士・田中光顕、植物学者・牧野富太郎、明治・大正時代の土木工学者・広井勇(港湾工学の父と呼ばれた人物)等がここで学び、巣立ってゆきました。

★青山文庫:
佐川出身の勤王の志士で、明治時代は宮内大臣となった田中光顕と、彼の子孫が寄贈した幕末維新期の史料を多数、収蔵しています。坂本龍馬や中岡慎太郎等の手紙、明治時代の皇室に関する史料、田中蔵書等、貴重な史料を展示しています。

★伯爵・田中光顕公宅跡(勤王屋敷):
名教館で学び、元治元年に脱藩。勤王の志士として活動し、新撰組とも戦った、田中光顕伯爵の屋敷跡です。命の危機を何度も迎えながら生き延びた人物です。

★男爵・片岡利和邸跡:
藩士の家から陪臣の家臣の家に養子に入り、勤王運動を行い、元治元年に脱藩し、新撰組の沖田総司や斎藤一と刃を交え、十津川に潜伏し、中岡慎太郎の陸援隊に入隊し、仁和寺宮を補佐して戊辰戦争を戦い、維新後は明治天皇の侍従を務め、貴族院勅選議員となり、それらの功績で男爵を授けられた波乱万丈の人物です。

★脱藩志士集合地記念碑:
元治元年(1864)8月4日、佐川の町から5人の勤王の志士が、脱藩の旅に出ました。田中光顕、池大六、橋本鉄猪、井原応輔、那須盛馬です。井原応輔は病で歩行困難になりましたが、那須盛馬が彼をおぶって伊予まで走ったそうです。井原応輔は、後に遊説の途中で横死しますが、残りの4人は乱刃の中に身を置きながら明治維新を迎えました。知名度は低いですが、明治維新の礎となりました。


【津野】
■津野ゆかりの人々
●片岡直英 (1811-1867) :
片岡直英は津野の郷士で裕福な家庭に生まれました。坂本龍馬や吉村虎太郎等土佐郷士の支援をしたことで知られています。山内容堂により、土佐勤王党の獄が行われると、志士たちを助けるため、容堂と喧嘩をし、追放されたほどの傑物でした。後に坂本龍馬に亀山社中設立や、薩長同盟の是を説く等活躍し、龍馬のブレーンと目されますが、維新を目前にし、病を得て、なくなりました。明治・大正・昭和に実業家として名を残した片岡直輝・直温兄弟は息子です。直英の死を悲しんだ龍馬も同年、京都の近江屋で襲撃され、亡くなりました。

●吉村虎太郎 (1837-1863): 四志士   
坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太と並ぶ幕末土佐の四天王と呼ばれています。安政6年に檮原村番人大庄屋として赴任すると、武市半平太等と土佐勤王党を結成。狂気を変革のエネルギーの源となすという思想の半平太とは相容れず、朝廷を動かして幕府から天下を奪うという運動に身を投じます。長州藩が孝明天皇の大和行幸を企画すると、いち早く革命政府の財源として天領の大和国を押さえるべく公家の中山忠光を擁して『天誅組』を組織、天領の五条代官所を襲撃します。しかし、八・一八の政変で長州藩が失脚すると、天誅組は暴徒とみなされ、幕府により追討を受け、東吉野の鷲家口で戦死しました。地方とはいえ、革命政府の機関を樹立しようと考えたのは虎太郎が初めてだといいます。

●宮地宜蔵 (1838-1863): 四志士
宮地宜蔵は津野の郷士で吉村虎太郎の親友です。文久2年、吉村虎太郎等と脱藩、天誅組の結成時に加盟していますが、その直後、病に斃れた人物です。彼の史跡と呼べる場所は現在ここのみです。引き続き調査を続けております。

●松山深蔵 (1837-1864): 四志士
松山深蔵は庄屋の次男です。次男であったため庄屋を継げず、医者を志します。脱藩して長州に赴き、中岡慎太郎率いる忠勇隊の一小隊を指揮して禁門の変に出陣して敗れ、久留米の水天宮の宮司・真木和泉守等と天王山で自刃しました。

●上岡胆治 (1823-1864): 四志士
土佐藩の在郷の医師で、禁門の変に参戦し、敗れて自刃しました。松山深蔵、上岡胆治、那須信吾、千屋金策、いずれも医者出身の志士として斃れました。


■津野の幕末維新史跡:
★吉村虎太郎銅像:
幕末土佐の英雄・四天王のひとり吉村虎太郎は津野の庄屋の家に生まれました。土佐藩では庄屋は藩の公務員とみなされており、転勤がありました。虎太郎は安政6年、後に勤王運動の渦中に巻き込まれる檮原に大庄屋として赴任します。幼少の頃より学問に精通して、器の大きな人物であったといい、中岡慎太郎とよく似ています。早くから尊王攘夷思想に傾倒し、武市半平太の土佐勤王党に属し、半平太の依頼で長州の尊王攘夷派の首領・久坂玄瑞に手紙を届けに行き、久坂玄瑞の思想に共鳴し、各藩の有志と交流し、討幕運動に繋がる伏見義挙を画策しますが、彼等が頼む島津久光は伏見義挙~討幕の計画を知ると、それを鎮圧(寺田屋の変)、虎太郎も国許に護送され、投獄されますが、後に赦免。文久三年、再び上京すると公家・中山忠光(明治天皇のおじ)を首領に担いで天誅組を組織、藤本鐡石、松本奎堂とともに三人の総裁の一人に就任しました。長州藩が混沌とした世情を一挙に討幕に向かわせるために仕組んだ孝明天皇の大和行幸と時を同じくして、天領の大和を押さえ、天朝の穀倉にしようと企て、大和に進軍。五条代官所を襲って代官・鈴木源内ほか吏僚等を殺害し、さらに譜代大名・植村家の大和高取城を攻撃しますが、鳥ケ峰の戦場で味方の銃弾に倒れ、以降は駕篭に乗って采配を振るったと言います。米の取れ高の安定した大和の国を朝廷の直轄領にして、領民を天皇の民として味方に引き入れようと画策した天誅組ですが、八・一八の政変で長州藩は京都を追われ、大和行幸は中止となり、天誅組は賊徒として討伐を受けることになります。虎太郎等は、次第に官軍の幕府軍に追い詰められ、ついに東吉野の鷲家口で戦死しました。吉野の鷲家口には、吉村虎太郎や、共に斃れた盟友・那須信吾の墓があります。天誅組は吉野で壊滅しましたが、石田英吉等、生き残った隊士によって彼らの新しい時代への思いは盟友である坂本龍馬や中岡慎太郎等に引き継がれました。


★吉村虎太郎の両親の墓:
吉村虎太郎の銅像の背後には、吉村虎太郎の父・太平、母・雪の墓があります。

★四志士の碑:
津野地区を代表する四人の勤王の志士である吉村虎太郎、宮地宜蔵、松山深蔵、上岡胆治を祀る招魂碑が建てられています。明治維新の先駆となった四人です。天誅組の結成時に加盟していますが、その直後、病に斃れた人物が、宮地宜蔵。彼の史跡と呼べる場所は現在ここのみです。引き続き調査を続けております。

★松山深蔵生誕地:
庄屋に生まれ、勤王の志士となり、脱藩して長州に赴き、庇護を受けた長州藩の危機に忠勇隊に属して禁門の変に参戦し、命を落とした松山深蔵の生誕地です。

★上岡胆治生誕地:
医家に生まれ、勤王の志士となり、脱藩して長州に赴き、庇護を受けた長州藩の危機に忠勇隊に属して禁門の変に参戦し、命を落とした上岡胆治の生誕地です。

★吉村虎太郎生家:
土佐の英雄・吉村虎太郎は、大庄屋として民の暮らしのために、様々な工夫をこらした善政を行った偉人としてもしられていますが、生家は残っていませんでした。平成27年6月、津野町文化的景観ガイダンス施設・吉村虎太郎邸として復元されました。大庄屋時代、志士時代の虎太郎の遺品や史料が展示され、虎太郎の生涯や業績を知ることができます。本日の昼食は、ここでとります。

★片岡直英旧宅:
土佐勤王党や脱藩郷士たちの面倒をよくみた片岡直英は、自らもまた郷士でした。明治・大正・昭和に実業家として名を残した片岡直輝・直温兄弟は息子です。

★天忠神社:
津野には天忠トンネルというトンネルがあり、その基点の真上に、天忠神社が建てられています。津野が生んだ幕末の四人の志士―吉村虎太郎、松山深蔵、上岡胆治(吉村虎太郎の姉の夫)、宮地宜蔵を祀っています。天忠とは、吉村虎太郎や宮地宜蔵が組織し、参加した天誅組の別名、天忠組に由来しています。

★三島神社の表忠碑:
三島神社に表忠碑という、楕円形の石碑が建っています。郷土の志士の偉業を称えるため、宮内大臣を務めた田中光顕(那須信吾の甥で佐川出身)や、片岡直英の二人の息子の片岡直輝・片岡直温の支援で大正5年に建碑されました。

★千屋菊次郎・千屋金策兄弟の墓:
千屋兄弟は、安芸郡和食村に生まれましたが、父が高岡郡半山村の庄屋として赴任したため、半山に引っ越してきました。兄の菊次郎は土佐勤王党に加盟し、諸国を遊学。当時の志士の第一人者であった肥後の宮部鼎蔵と出会い、影響を受け、宮部の書を携えて帰郷すると松山深蔵を誘って脱藩、長州の外人部隊の忠勇隊に加わり、禁門の変に出陣するも敗れて、山崎天王山で自刃しました。
弟の金策は医者でしたが、兄とともに国事に奔走するようになります。諸国の志ある者を募るため同志と遊説の旅に出ますが、美作国土居で盗人と誤認され、幕吏と諍いになり、幕吏を殺してしまい、引責自刃しました。千屋兄弟の墓は現在の津野町の姫野々503-1、葉山小学校の裏手の丘に位置しています。


【檮原(梼原)】
坂本龍馬脱藩の道として有名な檮原街道『志あるものは、所属藩や身分・立場にこだわらず、国難に立ち向かうべし―』長州藩・久坂玄瑞の影響を受けた坂本龍馬は、文久2年(1862)春、盟友・澤村惣之丞とともに、檮原の那須信吾と義父の那須俊平の案内で、脱藩しました。既に、龍馬や惣之丞の同志で、檮原の大庄屋であった郷土の英雄・吉村虎太郎が脱藩する際にこのルートを通っています。土佐藩には厳しい身分制度が存在し、龍馬や惣之丞のような郷士や、虎太郎のような庄屋階級は発言権がないに等しく、藩政に加わり、藩をリードし、国難に立ち向かうという行動ができませんでした。郷士と上士の中間である白札と呼ばれる身分であった武市半平太は、上士の代表格であった参政・吉田東洋を暗殺するなど、ある種のクーデターで藩政の一角に加わりますが、やがて京都における幕府関係者に対するテロ活動により、幕府の権威を墜とそうと画策します。虎太郎や龍馬は、半平太とは志を別にし、脱藩の道を選びました。檮原は、吉村虎太郎をはじめ、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉といった勤王の志士を輩出しました。

■檮原(梼原)津野ゆかりの人々
●吉村虎太郎 (1837-1863): 六志士
坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太と並ぶ幕末土佐の四天王と呼ばれています。安政6年に檮原村番人大庄屋として赴任すると、武市半平太等と土佐勤王党を結成。狂気を変革のエネルギーの源となすという思想の半平太とは相容れず。朝廷を動かして幕府から天下を奪うという運動に身を投じます。長州藩が孝明天皇の大和行幸を企画すると、いち早く革命政府の財源として天領の大和国を押さえるべく公家の中山忠光を擁して『天誅組』を組織、天領の五条代官所を襲撃します。しかし、八・一八の政変で長州藩が失脚すると、天誅組は暴徒とみなされ、幕府により追討を受け、東吉野の鷲家口で戦死しました。地方とはいえ、革命政府の機関を樹立しようと考えたのは虎太郎が初めてだといいます。

●那須信吾 (1829-1863): 六志士
佐川領主であった深尾氏の家来筋である浜田家に生まれた那須信吾は、医学を学び、佐川で医者をしていましたが、男子のなかった檮原の郷士・那須俊平に見込まれて養子となり、俊平の娘・為代と結婚しました。後の宮内大臣・田中光顕は、信吾の甥にあたります。武市半平太の土佐勤王党に参加し、半平太の政敵であった参政・吉田東洋を暗殺し、義父である俊平とともに吉村虎太郎や坂本龍馬等、脱藩する志士たちの道案内をしたことで知られています。やがて吉村虎太郎に合流し、天誅組に加わりますが、東吉野の鷲家口で戦死しました。

●那須俊平 (1807-1864): 六志士
那須信吾を養子に迎えたことで有名ですが、自身も養子でした。槍術に長じ、『土佐一槍の達人』と呼ばれていました。那須道場を開いて槍術を教え、養子・信吾とともに、脱藩する郷士たちの道案内をしました。大和・天誅組の壊滅で信吾がなくなると、娘であり信吾の妻である為代や二人の孫を案じて歌を詠みますが、自身も翌年、脱藩しました。長州藩の外人部隊である忠勇隊に属して久坂玄瑞に従い、禁門の変で奮戦しますが、敗れ、鷹司邸門前で戦死しました。

●前田繁馬 (1835-1863): 六志士
松原村の庄屋の家に生まれ、那須俊平に武芸を学び、一族の前田要蔵に従って上京すると吉村虎太郎や那須信吾等と交流、勤王の志を抱き、天誅組に加わり大和に進撃します。天誅組が壊滅すると、初瀬(現在の奈良県桜井市)辺りで幕府軍に囲まれ、戦死しました。桜井来迎寺に繁馬の首を掛けた松があります。

●中平龍之助 (1842-1864): 六志士
檮原村の地下浪人(武士の株を売却した浪人)の家に生まれた龍之助は、那須俊平に武芸を学び、勤王の志を抱き、文久3年(1863)に脱藩し、長州の外人部隊である忠勇隊に入隊し、禁門の変に参戦するも敗れ、自刃しました。

●掛橋和泉 (1835-1862): 六志士
和泉は檮原の那須家(俊平の養家とは別流)に生まれ、神官であった掛橋家に養子に入りました。那須俊平に武芸と学問を学び、勤王の志を抱き、脱藩する同志たちに金銭的な援助をしました。そのことが養母に露見し、同志達に類が及ぶことを恐れて、自害しました。檮原の志士の最初の殉難者となりました。

●坂本龍馬 (1836-1867):
坂本龍馬は土佐郷士の株を所有する高知の裕福な商家に生まれ、日根野弁治の道場で武芸を学びました。江戸に出て千葉定吉の道場で剣術修行をしていた頃、ペリー艦隊が来航。龍馬も品川(立会川)にあった土佐藩下屋敷の警備を拝命、その後、信州松代藩士・佐久間象山に師事し、砲術や漢学、蘭学を学びました。土佐に帰国後は、ジョン万次郎を取り調べた絵師・河田小龍に海外事情を学びました。文久元年、同志の武市半平太(瑞山)の使いで長州に久坂玄瑞を訪ね、草莽崛起の思想に感銘を受けました。土佐勤王党に加盟した龍馬ですが、武市半平太の唱える一藩勤王に疑念を感じ、脱藩を決意します。澤村惣之丞と共に檮原の那須俊平、那須信吾の屋敷に泊まり、俊平の案内で伊予に脱しました。その後、勝海舟の海軍塾で海軍を修め、池田屋事件や禁門の変に塾生が関ったために勝塾が閉鎖されると薩摩を頼り、薩摩の支援を受けて長崎に亀山社中を設立。盟友・中岡慎太郎とともに薩長同盟の締結に尽力しました。八・一八の政変で京都を追われた上、巻き返しを図って起こった禁門の変では朝敵となり、外国から武器を購入できない長州藩のために薩摩藩を通して購入、第二次長州征討における長州の勝利に貢献しました。亀山社中は、商社兼私設海軍である海援隊となります。その後、福井藩顧問で熊本藩士であった横井小楠の影響を受けた龍馬は、小楠の考える大政奉還を実現させるべく、土佐藩の前藩主山内容堂に働きかけ、大政奉還の立役者となります。さらに新政府の方針を記した船中八策を起草。脱藩の罪を許され、中岡慎太郎の主宰する陸援隊とともに、土佐藩の外郭団体として活躍を期待されるも、慶応3年11月15日、京都の下宿・近江屋に於いて、京都見廻組と目される一団に襲撃され、落命しました。

●澤村惣之丞 (1843-1868):
坂本龍馬とともに脱藩した人物として知られる澤村惣之丞は、高知潮江の地下浪人(武士の株を売却した浪人)の家に生まれ、土佐勤王党の間崎哲馬に師事、学問をおさめ、土佐勤王党に属し、勤王の志を抱きます。最初は吉村虎太郎に同道して脱藩、その後、武市半平太への報告のため、一旦帰国した後、今度は坂本龍馬とともに脱藩、勝海舟に師事し海軍を学び、龍馬が長崎に亀山社中を興すと隊員の一人として活躍しました。慶応4年、維新の混乱から無人状態になった長崎奉行所に海援隊(亀山社中の後身)が入って長崎を警護していた際、薩摩藩士・川端平助を誤殺。薩摩と土佐の軋轢を恐れ、薩摩藩士の制止を振り切り、自刃しました。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗走したわずか二日後でした。

※土佐藩の郷士たちが脱藩して辿り着いた場所、そこは伊予大洲藩・加藤氏の領地でした。将軍後見職・一橋徳川慶喜の側近で幕末四賢侯の二人、山内容堂の土佐、伊達宗城の宇和島と藩境を接する伊予大洲藩は、外様で開明的な藩でした。一藩勤王を藩是に、藩主以下が勤王の志士という藩風は、土佐からの脱藩浪士たちに理解があり、彼らが藩内を通り、長州藩等に亡命することを黙認していました。後に坂本龍馬の海援隊に大洲藩はいろは丸を貸与したことでも知られています。


■檮原(梼原)幕末維新史跡: 

★維新の門(維新の群像=梼原ゆかりの六志士+坂本龍馬と澤村惣之丞の銅像):
土佐藩では、坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太、吉村虎太郎のほかにも国事に奔走した多くの志士がいました。檮原の郷士たちは、多くの土佐郷士の脱藩の際、道案内や経済的支援をしました。そしてやがて、時代のうねりの中で自らも脱藩、国事に命を捧げました。維新の門の八人は、左から槍を抱える前田繁馬、先頭を走る那須信吾、右手を挙げて号令を掛ける吉村虎太郎、刀の柄に手を掛ける中平龍之介、中央で合掌をする掛橋和泉、旅姿で刀に手を添える澤村惣之丞、旅姿で懐手をして立つ坂本龍馬、そして槍を手に龍馬と惣之丞を案内する那須俊平です。8名はこれよりわずか6年の間に全員が命を落とします。躍動感あふれる群像は、高知を代表する銅像作家・濱田浩造氏によるものです。龍馬や虎太郎だけでなく、一般的には知名度が低かった檮原の志士たちの知名度をあげた維新の群像です。

★歴史民俗資料館:
梼原と、隣接する津野の歴史は、913年に京都から津野経高が入国するところから始まります。以降、梼原と津野は、津野山文化圏を形成し、神楽を含む信仰文化、山岳農耕の技術を共有してきました。資料館では神楽や信仰に関する展示、山岳農業に必要な道具類、梼原ゆかりの六志士に関する資料等を展示しています。

★吉村虎太郎庄屋跡:
★掛橋和泉邸:
石碑には『贈正四位吉村虎太郎先生居住地庄屋跡旧址』とあります。土佐藩では庄屋は公職に準じ、異動がありました。隣村の津野出身の吉村虎太郎は安政6年、この檮原の庄屋として赴任すると、民に寄り添う行政を行ったといいます。後年、天誅組を組織して五条代官所を襲撃したのも、王政復古に際し、幕府から天領を奪い、幕府の圧政から民を救済するという意思があったとされます。五条代官の鈴木源内は開明的な人物で、領民に慕われていたというのは皮肉なことでした。虎太郎庄屋跡に、近年、土佐藩を脱藩する郷士たちに金銭的な援助を行い、その事を養母に叱責され、苦悩の末自害した、掛橋和泉の屋敷が引っ越してきました。

★六志士の墓(分霊墓):
梼原ゆかりの六志士~吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉の分霊墓です。彼らなくして明治維新はなかった、とは申しませんが、彼らが援助した郷士たちはやがて長州や薩摩や肥前佐賀の志士と接触、これらの勢力をひとつに結び付けてゆくことになるのです。しかしながら、彼らの推した土佐の勢力は、明治6年の政変を境に、自由民権運動へとつき進んで行くのです。

★那須俊平・那須信吾屋敷跡:
檮原で武芸の道場を開いていた那須俊平と、娘婿になった養子の那須信吾の元に、多くの土佐郷士が訪れました。土佐を脱藩する際に、坂本龍馬と澤村惣之丞も、那須屋敷に一泊しています。信吾、龍馬、惣之丞は、憂国の思いを肴に酒を酌み交わしたそうです。翌日、信吾と俊平が龍馬と惣之丞を道案内し、俊平はさらに伊予国内まで送りました。龍馬と惣之丞は無事に伊予に入り、船で長州・清末藩豪商・白石正一郎を頼りました。慶応2年のことでした。信吾は翌年、脱藩し、吉村虎太郎に合流。天誅組の幹部となり、五条、高取城で奮戦し、最後は吉野の鷲家口で戦死しました。信吾の死の翌年、俊平も脱藩し、長州の外人部隊である忠勇隊に属し禁門の変に参陣して、鷹司邸門前に於いて壮烈な戦士を遂げました。

★那須俊平・那須信吾墓:
那須俊平・那須信吾屋敷跡の地続きの一画に那須俊平と那須信吾の墓があります。遺髪塚でしょうか?墓碑には那須俊平重任、那須信吾重民とあります。土佐藩を脱藩する人々の道案内をするうちに、父子の勤王の思いは頂点に達し、やがては自らも脱藩し、護国の鬼となりました。吉村虎太郎だけでなく、彼らのように、日本の夜明けを夢見て戦い、果てていった人々がこの村にも6人はいたのです。

★宮野々番所跡(勤王の志士脱藩関所跡):
番士・片岡氏が守っていた宮野々番所は、土佐国高知藩と伊予国大洲藩との間にあった関所です。この番所を通って、脱藩していった土佐郷士は11人、上士の身分でありながら脱藩した1人、計12人の勤王の志士が維新の業火の中に身を投じてゆきました。宮野々番所跡にある説明板には、彼らの名が記されています。
<韮ケ峠ルートで脱藩>
・・坂本龍馬 (1836-1867) :
薩長同盟、長州征討、大政奉還に尽力。京都にて横死。
・・澤村惣之丞 (1843-1868) :
海援隊士。慶応四年、薩摩藩士を誤殺し、引責自刃。
<九十九曲峠ルートで脱藩>
・・吉村虎太郎 (1837-1863) :
天誅組を組織して五条、高取城と転戦、吉野で戦死。
・・那須俊平 (1807-1864) :
長州藩に合流した後、忠勇隊に属し、禁門の変で戦死。
・・千屋菊次郎 (1837-1864) :
禁門の変に敗れ、山崎天王山で真木和泉守等と自刃。
・・松山深蔵 (1837-1864) :
禁門の変に敗れ、山崎天王山にて真木和泉守等と自刃。
・・上岡胆治 (1823-1864) :
土佐藩の在郷の医師。禁門の変に参戦し、敗れて自刃。
・・田所壮輔 (1840-1864) :
上士でありながら勤王思想に傾倒。忠勇隊内紛で自刃。
・・中平龍之助 (1842-1864) :
檮原の郷士。禁門の変に参戦し、重傷を負って自刃。
・・尾崎幸之進 (1840-1864) :
禁門の変に参戦して、松山深蔵に属して戦い、戦士。
・・安藤真之助 (1843-1864) :
禁門の変に敗れ、山崎天王山で真木和泉守等と自刃。
・・千屋金策 (1843-1865) :
菊次郎の弟。禁門の変後、美作国土居で遊説中に横死。
※禁門の変に参戦した、那須俊平、千屋菊次郎、松山深蔵、上岡胆治、田所壮輔、中平龍之助、尾崎幸之進、安藤真之助、千屋金策の9人は、忠勇隊という、長州外人部隊に属して戦いました。隊の最高幹部は久留米・水天宮の宮司で、熱狂的攘夷主義で全国にその名を知られた真木和泉守保臣、そして土佐の中岡慎太郎で、雄藩同志が戦う様に疑問を持った慎太郎は、龍馬にさきがけて薩長同盟を企画し、奔走することになります。宮野々番所を通った志士は、維新を見ずに斃れました。

★茶堂:
茅葺屋根の木造平屋建て、言うなれば東屋。六畳ほどの広さがあり、梼原町内に13棟が保存されています。石像や木像を安置してあり、信仰と社交の場でした。

★坂本龍馬脱藩の道:
新日本歩く道紀行100選にも選ばれた脱藩の道。坂本龍馬、澤村惣之丞そして檮原、津野の志士たちは、この道を通り、伊予大洲藩領へと脱藩してゆきました。

★韮ヶ峠:
坂本龍馬と澤村惣之丞が脱藩する際、那須俊平・那須信吾が二人の道案内をしたことは有名ですが、信吾は龍馬や惣之丞との別れを惜しみつつ、韮ヶ峠から戻りました。龍馬と惣之丞は、俊平の先導でさらに伊予に入り、脱藩を遂げました。


■北川・室戸岬
坂本龍馬とともに明治維新を成就させた中岡慎太郎のふるさとは、高知県の東部、北川村です。龍馬も慎太郎も土佐藩士ではなく、郷士・庄屋という身分でした。北川村には、中岡慎太郎ゆかりの史跡が点在しています。まず、中岡慎太郎没後100年を記念して、生家が復元されました。そして1988年には中岡慎太郎生誕150周年を記念して、ふるさと創生事業として中岡慎太郎館の建設が住民アンケートの結果として採用され、1993年に中岡慎太郎館が開館しました。北川村の特産品はゆず製品です。そのゆず栽培は、慎太郎が村の将来を見据えて奨励したものです。近江屋事件で慎太郎が落命しなければ、明治の時代にどれだけ活躍したか、興味深いものがあります。今回は有名な室戸岬の銅像も訪れます。


■北川・室戸岬ゆかりの人物:

★中岡慎太郎 (1838-1967) :
坂本龍馬に次いで人気のある幕末の英雄・中岡慎太郎。彼は土佐国安芸郡北川郷柏木村に大庄屋・中岡小傳次と後妻・ウシの長男として誕生しました。幼少より学問に長け、庄屋としての力量も評価されています。その一つがいまや北川村の名物となっているゆず。庄屋見習いの時代、村内に自生するゆずに目をつけて、醤油や味噌の入手にも事欠くほどの貧困にあえぐ村の将来をも見据え、調味料としても使え、いずれは村の財源となる可能性を秘めたゆずの栽培を奨励しました。このゆずの栽培が功を奏して、村の危機が救われたという逸話が残っています。成長した慎太郎は、間崎哲馬に学問を、武市半平太に剣を学び、尊王攘夷の志を抱き、志士としての活動を開始します。文久2年、長州藩の久坂玄瑞、山県半蔵(のちの宍戸璣)とともに、信州松代藩に佐久間象山を訪問し、国防や政治論を交わし、意識を高めました。これにより慎太郎は玄瑞や半蔵と同様、志士の中で抜きんでた存在となってゆきます。身分制度にがんじがらめとなった土佐藩では国事に奔走できないと悟った慎太郎は、活動の場を藩外に求め、脱藩しました。長州藩に身を寄せた慎太郎は、七卿落ちで長州藩に落ち延びた三条実美に仕え、外人部隊である忠勇隊を組織し、禁門の変、下関攘夷戦争に出陣、負傷しました。日本人同士が戦う状況を憂えた慎太郎は雄藩連合により幕府を倒し、挙国一致の体制を作ろうと東奔西走します。その努力はやがて、薩長同盟、薩土密約そして土佐藩が建白した大政奉還という具合に実を結んでゆきます。また、武力討幕を視野に入れて、陸援隊を組織すると、その隊長となりました。しかし、慶応三年十一月十五日、盟友・坂本龍馬とともに京都近江屋に於いて刺客に襲撃されます。龍馬は即死。二日後、慎太郎は訪れた人々に後事を託し、不帰の客となります。慎太郎は土佐の坂本龍馬や後藤象二郎や板垣退助、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の桂小五郎や高杉晋作・久坂玄瑞・山県半蔵、筑前福岡の早川勇など当時の第一級の志士たちと交流し、ひとかどの人物であったことが記録されています。


■北川・室戸岬幕末維新史跡:

★中岡慎太郎館:
土佐の英雄・中岡慎太郎の遺品や書簡、陸援隊に関する史料等が展示する記念館。意外と知られていない慎太郎没後の陸援隊の活動の軌跡を知ることができます。陸援隊は戊辰戦争の直前、水戸出身の副長・鯉沼伊織(のちに断絶していた公家・香川家を継いで香川敬三となる人物で、維新後は皇后宮大夫・皇太后宮大夫等を勤め伯爵を授与される)が過激派の公家・鷲尾隆聚を首領に推して高野山で挙兵、紀州藩を牽制した功により、官軍として認められ、吸収される形で消滅しました。

★中岡慎太郎生家:
慎太郎の生家は、慎太郎没後100年を記念して、1967年に復元されました。庄屋の暮らしがわかります。庭の棗の切り株は幼少の慎太郎が登った木の跡です。

★中岡慎太郎碑:
土佐の英雄・中岡慎太郎を顕彰する碑。勤王の志士として西国雄藩の間を走り、薩摩・長州・土佐・芸州を結びつけ、やがてそれが討幕の原動力となりました。

★中岡慎太郎向学の道:
若き慎太郎がこの道を通り、土佐藩校の分校・田野学館に通いました。奈半利の清岡道之助等と交流し、のちに志士活動に身をささげるきっかけとなりました。

★中岡慎太郎銅像:
中岡慎太郎の銅像といえば、室戸岬の威厳のある銅像が有名ですが、北川村には志を立て、大地に足を踏み出す若き日の慎太郎の躍動感あふれる像があります。

★室戸岬:
土佐の東に、太平洋の荒波が押し寄せる室戸岬があります。中岡慎太郎の銅像が大西洋に向かって建っています。銅像の上に展望台があり、太平洋を見渡せます。


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ツアーポイント
1. 維新胎動の地・高知を徒歩や公共交通機関で観光します。
2. 維新に活躍した人々の史跡(誕生地・旧宅地・旧宅・墓)を探訪
3. 所謂、観光地めぐりではありません。石碑を訪ねる新しい旅です。
4. 室戸岬の中岡慎太郎の銅像や、中岡慎太郎記念館も訪問
5. 土佐の郷土料理もたのしみ!
6. 添乗員が土佐の幕末史と近代化を説明します。


企画・同行予定添乗員

立花 誠(たちばな まこと)

世界200カ国以上を歩いた旅の鉄人!

世界を歩いた旅の鉄人! 2005年、ツアーデスク“パームツアーセンター”を立ち上げました。行っていない国はイスラエル、モンテネグロ、コソボ、南スーダン、クック諸島(独立前に訪問)のみ。1996年から2003年まで風の旅行社に在籍、休みの期間にはギアナ三国、ブルキナファソなど、いまのツアーの原型となる体験をしてきました。今まで歩いて感銘を受けた国や、驚きとともに印象に残った地域、異文化体験などのプログラムをこれから発信してゆきます。旅のメインはもちろん、国境越えや、村歩き、トランジットの街での途中下車など、旅の鉄人ならではの味付けもお楽しみ頂けます。


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スケジュール
 都市内容 (宿泊地)
1高知駅
高知駅集合: 14:00
徒歩または公共交通機関で旅館またはホテルへ。
夕刻: 龍馬・慎太郎・武市半平太像に行きます。
時間が許せば、幕末維新関連の石碑を訪ねます。
  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事● - /  - / 夕
2高知奈半利北川村室戸岬奈半利高知終日: 中岡慎太郎関連の史跡を探訪
高知⇔奈半利間は、土讃線と土佐くろしお鉄道を利用します。
奈半利からは貸切車で観光します。
 ◎中岡慎太郎館
 ◎中岡慎太郎生家丸
 〇中岡慎太郎碑
 〇中岡慎太郎向学の道
 〇中岡慎太郎銅像
 ◎室戸岬・中岡慎太郎銅像と中岡慎太郎銅像上展望台
  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事●朝 / 昼 / 夕
3高知佐川津野梼原午前:貸切車で高知を出発。観光しながら伊予との国境(くにざかい)に近い梼原へ。道中、下記の場所を訪れ、観光します。
<佐川>
 〇佐川城跡
 〇名教館跡
 ◎青山文庫
 〇伯爵・田中光顕公宅跡(勤王屋敷)
 〇男爵・片岡利和邸跡
 〇脱藩志士集合地記念碑
<津野>
 〇吉村虎太郎銅像
 〇吉村虎太郎の両親の墓
 〇四志士の碑
 〇松山深蔵生誕地
 〇上岡胆治生誕地
 ◎吉村虎太郎生家
 〇片岡直英 (1811-1867) 旧宅
 〇天忠神社
 〇三島神社の表忠碑
 〇千屋菊次郎・千屋金策兄弟の墓
  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事●朝 / 昼 / 夕
4梼原高知午前:龍馬や吉村虎太郎脱藩の史跡群がある梼原を観光。
<梼原>
 〇維新の門(維新の群像=梼原ゆかりの六志士+坂本龍馬と澤村惣之丞の銅像)
 ◎歴史民俗資料館
 〇吉村虎太郎庄屋跡
 〇掛橋和泉邸
 〇六志士の墓(分霊墓)
 〇那須俊平・那須信吾屋敷跡
 〇那須俊平・那須信吾墓
 〇宮野々番所跡(勤王の志士脱藩関所跡)
 〇茶堂
 〇脱藩の道
 〇韮ヶ峠
午後:貸切車で高知に戻ります。
  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事●朝 / 昼 / 夕
5高知朝: 桂浜の坂本龍馬像とご対面。
午後: 高知駅にて解散となります。
  宿泊●泊 食事●朝 /  - /  - 
出発日・旅行代金(1名様あたり)
JR高知駅
2018/12/01125,000円
2019/02/02125,000円
ご旅行条件・他
最少催行人員●5名(定員8名)
添乗員●添乗員は1日目の高知駅で合流し、最終日は高知駅まで同行しお世話いたします。
利用予定航空会社●
利用予定ホテル●【高知】サウスブリーズ・ホテル、ホテル楽家・櫻舘、高知サンライズ・ホテル、龍馬の宿・南水、天然温泉はるのの湯、高知プリンスホテル 【梼原】雲の上のホテル、マルシェ・ユスハラ(雲の上のホテル別館)、遊友館(旧越知面小学校を改装した宿)
お一人部屋追加代金●33,000円
燃油特別付加運賃(旅行代金に含まれません)●
●注意点
※ 高知市市街地は基本的に徒歩と公共交通機関で観光します。
※ 荷物を持っての移動があります。ご自分で持てる範囲の荷造りをお願い致します。
※ 史跡周辺の自然物、人工物は持ち去らぬよう、お願い致します。



●旅行代金に含まれないもの
目的地までの交通費、日程表に含まれない食事代、その他個人的な出費。

【事前徴収】
<2018年07月現在>

●大阪・名古屋発及び、その他の地方都市発の場合
・高知駅到着、出発の交通費は含まれておらず、この交通機関はお客様ご自身の手配・ご負担になります。





 
●燃油特別付加運賃及び空港諸税
【ご注意】燃油特別付加運賃及び空港諸税について をご覧下さい。
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