5名様から催行出発日限定日本語ガイドは付きません英語ガイドが付きます添乗員が同行します特別講師は同行しません

明治維新150年

明治維新胎動の地・佐賀~近代化のために倒幕を志した佐賀藩士たちの史跡探訪

  • 佐賀城本丸歴史館
  • 佐賀城鯱の門
  • 大隈重信侯生家
  • 佐嘉神社
  • 築地反射炉跡
  • 佐野常民記念館

明治維新胎動の地・佐賀
石碑や銅像でたどる“幕末維新最強の近代国家―佐賀藩”の足跡

明治維新から150年が経過した今年、ちょっと変わった維新史探訪の旅をご提案します。

明治維新を牽引した薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前佐賀)のうち、肥前佐賀藩の維新史を探訪します。

肥前佐賀藩、という言い方は、厳密には間違いで、江戸時代を通じ、『鍋島肥前守家中』あるいは『鍋島侍従家中』などという言い方をしていました。
「お手前はどちらのご家中で?」
「鍋島肥前守の家中でござる」という感じです。
藩という言葉が公文書に書かれるようになったのは、実は明治時代からという説もあります。
でも、ここでは『佐賀藩』という、慣れ親しんだ名称で統一させて頂きます。
佐賀藩は、旧国で言えば、肥前国の大部分で構成されています。

■意外と知られていない幕末の肥前佐賀■
①佐賀藩にも勤王の志士はいた。
→幕末期に脱藩して他藩の志士たちと交流したのは江藤新平だけだと思われがちです。しかし、藩校・弘道館の教授であった国学者・枝吉神陽のもとで、実弟の副島種臣をはじめ、大隈重信、大木喬任、島義勇など、明治維新に活躍した人物が尊王思想を学んでいます。また、武雄領主の側近であった山口範蔵尚芳は、長崎で蘭学や洋学を学ぶかたわら、比較的自由な立場を利用して薩長土の志士と交流し、薩長同盟や王政復古の実現に向けて尽力し、薩摩藩家老・小松帯刀等に認められました。彼が岩倉使節団の副使の一人に選ばれたのは、こうした志士活動が認められたからにほかなりません。

②佐賀藩は常に西洋文明の近くにいた。
→江戸時代を通じ、肥前佐賀藩と福岡藩は長崎警護の任につき、西洋文明に触れてきました。律儀にひたすら警護のみを勤めていた福岡藩と、西洋文明に好奇心を抱いた佐賀藩、これが幕末期に両藩の大きな差となって現れました。福岡藩では勤王運動を推進したのは主に上士身分(加藤司書、建部武彦、月形洗蔵、中村円太)で、生野の変を起こした平野國臣や、薩長同盟を早期に提唱した早川養敬などの下士はむしろ珍しかったといいます。長州藩が幕府より征討を受けると、長州藩士と親しかった勤王派は弾圧され、辛うじて早川養敬が明治維新を迎えました。佐賀藩は隣国や近隣諸藩のめまぐるしく変遷する藩政を傍観し、ついに王政復古の大号令をもって、新政府に合流することを決定します。

③佐賀藩は幕末最強の先進国
→佐賀藩は、西洋文明に早くから触れることで、日本も近代化しなければならないという意識を持っていました。幕府が海軍設立のため、長崎海軍伝習所を創設すると佐野常民や、中牟田倉之助等を送り込み、学ばせました。またフルベッキを招聘し、藩士たちに英学を学ばせました。反射炉を実用化し、蒸気船や近代的大砲や野戦砲まで“国産”していた佐賀藩が加わったことにより、戊辰戦争は一年ほどで終結したとも考えられます。


佐賀藩は、江戸期を通じ、二重鎖国を行い、幕府や他藩の介入を防いでいたといいます。また、西洋文明や科学を学ぶ場所ができれば、進んでそこに、藩士を送り込んで学ばせるなど、常に新しい時代と向き合っていました。

本コースでは、幕末から明治に活躍した佐賀の人々が、どのような場所で近代化を模索したか、その軌跡を辿ってみたいと思います。

★御舟小屋跡/真木長義海軍中将 (1836-1917) 史跡:
佐賀藩第十代藩主・鍋島直正(閑叟)が建設を命じた御舟小屋がありました。長崎警備に赴く佐賀藩士たちが乗る船が停泊していました。佐賀藩の海軍力の増強のたえ、オランダで建造された日進艦も、ここに繋がれていました。明治3年、日進艦は、船将・真木安左衛門長義をはじめとする船員もろとも政府に献上されました。真木は佐賀藩・藩医の家に生まれ、幕府が開設した長崎海軍伝習所で一期生として佐野栄寿左衛門常民と共に学び、オランダから電流丸が届くと、三重津海軍所で電流丸艦長を務めました。日本海軍の発展に貢献し、男爵となりました。現在、御舟小屋跡は更地になっており標柱が残っています。

★江藤新平乗船の地丸目:
佐賀の乱で敗れた江藤新平は、鹿児島の西郷隆盛や桐野利秋に決起を促すため、船で鹿児島へと向かいます。そのとき、乗船した場所が、丸目の波止場です。結局、西郷は決起せず、更に土佐の片岡健吉を頼りますが片岡もまた決起せず、ついに土佐と阿波の国境の甲浦で捕縛されます。裁判での判決は『除族の上、梟首』で、勤王の志士から明治の顕官として活躍した江藤新平は刑死しました。

★嘉瀬刑場/千人塚跡:
明治7年。佐賀の乱の首謀者・江藤新平や、島義勇等が、梟首された場所です。江藤は征韓党、島は憂国党の党首で、幕末以来あまり仲はよくなかったとか。

★江藤新平 (1834-1874) 誕生地:
江藤新平は、肥前佐賀藩の家中にあって、唯一、志士活動を行った人物です。藩校・弘道館で優秀な成績を残しましたが、父親の職務怠慢により進学できず、江藤の学才を惜しんだ弘道館教授の枝吉神陽(副島種臣の兄)が自分の私塾に引き取り、学問を授けました。嘉永3年に枝吉神陽が楠正成・正行親子を祀る『義祭同盟』を結成するとそれに参加し、尊皇攘夷思想に傾倒してゆきます。文久2年、脱藩して京に上り、各藩の勤王の志士と親交を深めます。脱藩者は処刑されるのが常でしたが、江藤の見識を惜しんだ藩主の命により助命され、以降、明治維新まで後進の教育に力を注いだといいます。戊辰戦争が始まると東征軍軍監として出陣、上野の彰義隊討伐で活躍、太政官政府に登用されます。以降、東京奠都を皮切りに、学制の基礎固め、四民平等の基礎固め、警察制度整備、司法制度整備、裁判所建設、民法編纂、国法編纂等、彼の業績は枚挙にいとまがありません。司法卿として近代国家への脱皮を模索した政治家という評価があります。外遊中の大久保利通には憎悪の対象としてみられ、一説には征韓論での敗北から下野~帰郷~佐賀の乱と連なる一連の流れには、大久保の江藤抹殺の意思が働いていたとも言われています。新政権の基盤づくりという共通の目標がありながら同じ敏腕型の政治家は相容れなかったかもしれません。江藤新平は維新の十傑、佐賀の七賢人として後にその名誉を回復しています。

★築地反射炉跡:
佐賀藩の第十代藩主・鍋島直正(閑叟)は、薩摩の島津斉彬とならぶ開明的な大名です。藩の近代化を推進しました。その一環として、反射炉を備え付けた大砲鋳造工場や、三重津海軍所を開設し、アームストロング砲と並ぶ威力を持つ大砲や蒸気船までも完成させる国力を持っていました。れんが作りの反射炉の傍らにある24ポンド砲は、その反射炉を使って完成の国産第一号の大砲です。

★本行寺の江藤新平墓:
本行寺は、佐賀市でもっとも大きな日蓮宗の寺です。ここには佐賀の乱で敗れ、処刑された江藤新平の墓があります。江藤の墓に詣でると災難を防げるとか。

★多布施公儀反射炉跡:
幕府はペリー来航を受け、佐賀藩に大砲鋳造を命じました。築地反射炉では能力的に不足だったので、ここ多布施川のほとりにも反射炉が築かれました。

★精煉方跡:
鍋島直正の命によって、産業拡大を目的として設置された理化学研究所では精巧な汽車、蒸気船、電信機等の雛型が製作されていました。その跡地です。雛型は模型とはいえ、外見だけにとどまらず、その中には蒸気機関や機械が備えられており、実際に動かすことができました。レールの上で機関車は、アルコールを焚いて水蒸気を起こして、車輪を回転させて走ったそうです。

★護国神社:
戊辰戦争等の国内・国外での戦争、政変や動乱によって犠牲になった佐賀人を祀るため、明治3年に第十一代藩主の鍋島直大によって創建された神社です。

★楠神社/義祭同盟の碑:
旧長崎街道に面した場所に建つ神社。弘道館教授で国学者であった枝吉神陽はここで『義祭同盟』を結びました。江藤新平や、大隈重信等が参加しました。

★藩校・弘道館跡(徴古館):
弘道館では、明治維新で活躍した江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任、島義勇、佐野常民、中牟田倉之助等の面々が学びました。現在は資料館です。

★佐嘉神社:
昭和8年に建立された新しい神社ですが、ここには、幕末の賢侯として名高い第十代藩主・鍋島直正、十一代藩主・直大が祀られています。大砲模型あり。

★大隈重信 (1838-1922) 生家/記念館:
大隈重信は佐賀藩の侍大将の家に生まれ、7歳で藩校・弘道館に入学、藩是の『葉隠』思想に基づく教育を受けますがそれに反発し、安政元年に同志と共に藩校の改革を訴え、退学。枝吉神陽の私塾に学び、『義祭同盟』に枝吉の弟の副島種臣や江藤新平等と共に参加しました。その後、佐賀藩蘭学寮に転入し、藩主・鍋島直正にオランダ憲法について進講、弘道館が蘭学寮を吸収すると、教授に着任、蘭学を教えました。国内での動乱は列強の介入を招くと考えたと思われ、幕府と長州との敵対関係を調停しようと試みました。慶応元年には、宣教師フルベッキを招聘して開校した藩校英学塾『致遠館』で副島種臣と共に教鞭を執りました。脱藩して志士活動を開始したのは慶応3年という時期で、将軍・徳川慶喜に大政奉還を進言するのが目的でした。明治維新後、薩摩藩の家老・小松帯刀の推挙で新政府に出仕、外国事務局判治になると頭角を現し、参議・大蔵卿等を歴任、明治十四年の政変で下野すると立憲改進党を立ち上げ、また、早稲田大学の前身である東京専門学校を開設、その後第八代、第十七代、内閣総理大臣を務めました。東京の護国寺に侯爵・大隈重信の墓があります。刺客に爆弾を投げつけられ片足を失っても毅然としていた一種の傑物でした。大隈重信は佐賀の七賢人の一人で、大隈重信記念館では、佐賀藩士時代から明治の顕官として活躍した時代までの大隈重信の軌跡を学ぶことができます。

★佐賀の乱記念碑と慰霊碑:
明治維新は文明開化と四民平等の時代の始まり、と思われがちですが、一方で国を治めてきた武士が行き場を失った時代でもありました。明治2年に起きた参議・横井小楠暗殺事件と兵部大輔・大村益次郎襲撃事件、明治3年に起きた江藤新平暗殺未遂事件、明治4年に起きた二卿事件(攘夷派の公家二名が政府転覆を企てた事件)と参議・広沢真臣暗殺事件、明治7年の右大臣・岩倉具視暗殺未遂事件は全国でくすぶっていた士族たちの不平不満の噴出とみることができ、やがてそれは反乱へと向かいます。明治7年2月16日に起きた佐賀の乱はその不平不満が暴発した形となり、明治9年の熊本神風連の乱や秋月の乱、萩の乱、思案橋事件、そして明治10年の西南戦争へと続きます。明治維新で報われなかった武士の抱えた矛盾は、西日本全体を席捲した後、明治11年の紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)で収束をみます。佐賀の乱は士族たちによる、最初の反乱と位置付けられています。佐賀の乱を記念する碑の土台には龍のこどもである贔屓が彫られています。また、地続きの一画に建つ慰霊碑に佐賀の乱の首謀者であった、江藤新平や島義勇たちの名前が刻まれています。

★大木喬任 (1832-1899) 誕生地:
大木喬任は佐賀藩士の家に生まれ、藩校・弘道館で学び、枝吉神陽に師事し、枝吉神陽の『義祭同盟』にも参加しました。藩論を尊皇攘夷にすべく運動をしますが果たせませんでした。しかし、江戸遊学を許可されるなど、優秀な人材であったことは間違いありません。彼の能力は明治政府に出仕してから発揮され、参与、軍務官判治、東京府知事、参議、民部卿、文部卿、教部卿、司法卿を歴任。民部卿、文部卿時代には、学制を整備し、その功績によって『明治の六大教育家』と呼ばれています。東京奠都や士族の反乱の事後処理、法典の編纂等様々な分野で活躍、佐賀の七賢人の一人として名を残しました。

★佐賀の乱政府軍墓地/朝倉弾蔵墓(乾亨院):
佐賀の乱の鎮圧部隊は、江藤新平が東京を離れた直後に既に組織されており、大久保利通によって佐賀鎮圧の勅許を得ていたと言います。それによって、大久保が江藤を反乱に向かわせるべく画策したのでは、と噂されたほどです。短期間の戦闘の後、政府軍は佐賀軍を鎮圧しました。政府戦没者の墓地です。同じ乾亨院の境内には、佐賀軍として官軍と戦った朝倉弾蔵の墓もあります。
 
★副島種臣 (1828-1905) 誕生地:
副島種臣は佐賀藩士の家に生まれました。兄には弘道館教授で国学者であり、
義祭同盟の盟主となった枝吉神陽がいます。枝吉家は兄が継ぎ、種臣は副島家に養子に入りました。早くから尊皇攘夷思想に傾倒し、幕末の京に遊学し、国学や漢学を学びました。その後、長崎にて開校した藩校の分校で、英学を教えていた致遠館で教鞭を執りました。慶応3年、大隈重信とともに、将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白するために脱藩・上京しますが、失敗して送還、謹慎処分となります。明治維新後は明治政府に出仕し、参議、外務卿を歴任。横浜に停泊していたペルー船籍のマリア・ルス号から中国人の奴隷を開放し、国内外から称えられるも、征韓論に敗れて下野しました。但し、士族の反乱、自由民権運動にはかかわらず、後年、明治政府に復帰し、活躍しています。書家としても有名で、漢詩文に長け、佐賀の七賢人の一人に数えられます。

★憂国党本陣の寶琳院:
憂国党は、明治政府に不平不満を持つ士族によって構成され、北海道開拓に尽力しながらも、放逐同然に帰国した島義勇が党首に祭上げられていました。江藤新平は征韓論に端を発した明治六年の政変に敗れ、佐賀に戻ると、最初、憂国党の暴発を未然に防ごうした形跡があります。しかし、征韓党の党首に祭上げられ、結局、反乱軍の総帥として政府に反旗を翻すことになりました。

★高傳禅寺:
高傳寺は、佐賀藩鍋島家の菩提寺です。この高傳寺墓地に、副島種臣の墓が
あります。佐賀の尊皇派のリーダーで明治の顕官にしては慎ましやかです。

★島義勇 (1822-1874 しま よしたけ)屋敷跡:
島義勇は佐賀藩士の家に生まれ、藩校・弘道館で学びました。また、諸国に遊学し、美濃岩村藩の儒者・佐藤一斎、熊本の林桜園、水戸の藤田東湖等に師事し、学識を深めました。また、藩命により、函館奉行・堀織部正利煕を補佐して蝦夷地、樺太を探検・調査しました。明治維新後は戊辰戦争に際し、東征軍の軍監として従軍、各地を転戦しました。その後、蝦夷開拓御用掛を拝命、北海道開拓に奔走しました。銭函(現・小樽市銭函)に仮庁舎を建て、札幌を本庁とすべく、札幌の街づくりに尽力。無人の荒野に近かった札幌を碁盤の目状の区画を計画し、後に『北海道開拓の父』『名判官・島義勇』と呼ばれました。明治政府の方針には相容れぬところがあり、やがて退官し、江藤新平とともに佐賀の乱を起こしますが、敗れて斬首されました。北海道開拓に夢を賭けた一人として有名です。彼もまた、佐賀の七賢人の一人です。

★久米邦武 (1839-1931) 誕生地: 
久米邦武は佐賀藩士の家に生まれ、藩校・弘道館で学びました。枝吉神陽の『義祭同盟』にも参加し、同藩の大隈重信と親交を結びました。文久2年、藩命により江戸にでて昌平坂学問所に入学。古賀茶渓(謹一郎/筑後守)に師事しました。翌年帰国すると弘道館で教鞭を執り、前藩主の鍋島直正に、近侍として仕えました。明治維新後は岩倉使節団に加わり、欧州各国を視察、帰国後、貴重な史料となる『特命全権大使 米欧回覧実記』を著しました。その際、500円という褒美を貰い、長男・桂一郎をフランスに留学させ、桂一郎は薩摩の黒田清輝と共に洋画家として大成する切っ掛けとなりました。

★龍泰寺/大隈重信墓:
龍泰寺は、戦国期に鍋島氏の主君筋にあたる龍造寺隆信が建立した曹洞宗の寺院。現在の本堂は佐賀城の本丸屋敷を改装。大隈重信の墓があります。

★焔硝蔵(御薬蔵):
現在の鹿子交差点の西側一帯に、佐賀藩の焔硝蔵がありました。明治7年の佐賀の乱後、政府が没収しました。石壁は鹿の子天満宮の石垣になりました。

★神野西公園:
神野西公園には、鍋島直正のお茶室であった神野のお茶屋の遺跡があります。『隔林亭』は実際に直正公の茶室でした。園内に『江藤新平像』もあります。

★三重津海軍所跡:
ペリー来航により、泰平の眠りを覚まされた幕府は、老中首座・阿部正弘により、広く意見を求め、勝海舟の唱える「海軍設立が急務」という意見書が目付・大久保越中守忠寛(のちの一翁)により提出されました。それにより長崎奉行所の一画に、長崎海軍伝習所が建設されました。佐賀藩は、第一期伝習生として佐野栄寿左衛門常民、真木安左衛門長義が派遣され、オランダ教官により海軍について学びました。佐賀藩は、オランダから10万ドルで排水量およそ300トンの木製コルベット艦「電流丸」を購入すると、藩内随一の港を有する三重津で運用しました。三重津海軍所はペリー艦隊来航のわずか5年後の安政5年に設立され、蒸気船をはじめとする船舶の造船及び修理工場、西洋船運用のための教育機関/訓練機関として活用されました。実用的な国産初の」蒸気船である「凌風丸」の製造も、ここで行われました。2013年に国の史跡に指定され、2015年に「明治日本の産業革命遺産」としてユネスコの世界文化遺産に登録。「三重津海軍所のドライドック」は、現存する日本最古の乾船渠です。隣には佐野常民記念館が建てられています。

★佐野常民 (1823-1902) 誕生地:
佐野常民は、佐賀藩士の家に生まれ、藩医・佐野常徴の養子となりました。藩校・弘道館で学び、江戸に遊学して古賀侗庵に師事。いったん帰国すると弘道館に復学して考証学を、松尾塾では外科術を学びました。嘉永元年には大坂のの緒方洪庵の適塾で学びました。幕府が長崎海軍伝習所を開設すると佐賀藩から真木安左衛門とともに派遣され、オランダ教官より海軍について学び、三重津海軍所の監督を拝命しました。幕府が発注したボイラー製造を請け負い、やがてボイラーは幕府の千代田形に搭載されることになります。慶応3年、佐賀藩はパリ万国博覧会に、独自に出展しますが、その折に佐野常民は使節として渡航、ヨーロッパを視察して赤十字の精神等を学び、後に日本赤十字社を創設します。その後、明治政府で政治家、官僚として活躍し、伯爵を授けられました。日本の近代化に尽くした、佐賀の七賢人の一人です。
※千代田形(艦長は森本弘策)は戊辰戦争末期の箱館戦争の際、佐賀藩出身の海軍副参謀・石井富之助率いる政府艦隊と交戦し、座礁して拿捕されます。座礁後すぐに退艦したのは森本弘策の判断ミスであったと言われています。

★佐賀城/本丸御殿/鯱ノ門:
戦国期に龍造寺家の居城があった場所に、主家である龍造寺家から事実上、独立した鍋島藩初代・鍋島直茂により改修された佐賀城は、敵が攻撃をしてきた場合には、主要建造物以外を水没させ、敵の攻撃を避けるように築かれました。江戸期を通じて鍋島家の居城で、本丸御殿は象徴でもありました。佐賀の乱では主要な建物が破壊されました。鍋島直正公の銅像があります。

★山口尚芳屋敷跡/記念碑: 武雄市花島
山口尚芳(ますか/なおよし)は、武雄領主・鍋島茂義に見出され、彼の紹介で佐賀藩主・鍋島直正の命により、長崎に遊学、蘭学を学びます。また、大隈重信や副島種臣等とともに、フルベッキに英語を学び、帰藩後は翻訳方兼練兵掛を仰せつかります。武雄出身という比較的自由な立場を利用して、薩摩藩、長州藩、土佐藩の志士と交流し、薩長同盟や王政復古に尽力したと言われています。維新後は、官軍に属し、徴士として新政府に出仕。薩摩藩家老・小松帯刀に認められます。この志士活動と、語学に堪能であったことを買われたことにより、尚芳が岩倉使節団の副使に選ばれるきっかけになったと考えられます。佐賀の乱では反乱軍に与せず、旧藩主や一門を説得し、反乱と切り離し、自身は鎮圧につとめました。以降は外交官として活躍し、近代日本の国づくりに貢献しました。

今回は佐賀市、武雄温泉に残る維新史跡を、歩きながらめぐります。

ツアーポイント
1. 維新胎動の地・佐賀を徒歩や公共交通機関で観光します。
2. 維新に活躍した人々の史跡(誕生地・旧宅地・旧宅・墓)を探訪
3. 所謂、観光地めぐりではありません。石碑を訪ねる新しい旅です。
4. 大隈重信記念館、佐野常民記念館に入場します。
5. 佐賀の郷土料理もたのしみ!
6. 添乗員が佐賀の幕末史と近代化を説明します。


企画・同行予定添乗員

立花 誠(たちばな まこと)

世界200カ国以上を歩いた旅の鉄人!

世界を歩いた旅の鉄人! 2005年、ツアーデスク“パームツアーセンター”を立ち上げました。行っていない国はイスラエル、モンテネグロ、コソボ、南スーダン、クック諸島(独立前に訪問)のみ。1996年から2003年まで風の旅行社に在籍、休みの期間にはギアナ三国、ブルキナファソなど、いまのツアーの原型となる体験をしてきました。今まで歩いて感銘を受けた国や、驚きとともに印象に残った地域、異文化体験などのプログラムをこれから発信してゆきます。旅のメインはもちろん、国境越えや、村歩き、トランジットの街での途中下車など、旅の鉄人ならではの味付けもお楽しみ頂けます。


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スケジュール
 都市内容 (宿泊地)
1佐賀駅
佐賀駅集合: 14:15~14:45
徒歩で旅館またはホテルへ。
夕方: 佐賀市内を散策します。
特に川沿いを歩いてみましょう。
佐賀藩にとって川は海と、外国とつながる特別な場所でした。
  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事● - /  - / 夕
2佐賀終日:維新史跡を徒歩でめぐります。いわゆる観光地ではなく、佐賀の、日本の近代化に夢を賭けた人々の史跡を訪ねます。
★御舟小屋跡/真木長義海軍中将 (1836-1917) 史跡
★江藤新平乗船の地丸目
★嘉瀬刑場/千人塚跡
★江藤新平 (1834-1874) 誕生地
★築地反射炉跡
★本行寺の江藤新平墓
★多布施公儀反射炉跡
★精煉方跡
★護国神社
★楠神社/義祭同盟の碑
★藩校・弘道館跡(徴古館)
★佐嘉神社
★大隈重信 (1838-1922) 生家/記念館
★佐賀の乱記念碑と慰霊碑
★大木喬任 (1832-1899) 誕生地
★佐賀の乱政府軍墓地/朝倉弾蔵墓(乾亨院)
★副島種臣 (1828-1905) 誕生地
★憂国党本陣の寶琳院
★高傳禅寺
★島義勇 (1822-1874 しま よしたけ)屋敷跡
★久米邦武 (1839-1931) 誕生地
★龍泰寺/大隈重信墓
★焔硝蔵(御薬蔵)
★神野西公園
★三重津海軍所跡
★佐野常民 (1823-1902) 誕生地
★佐賀城/本丸御殿/鯱ノ門
  宿泊●ホテル または 旅館泊 食事●朝 / 昼 / 夕
3佐賀駅
武雄温泉駅
花島
武雄温泉駅
佐賀駅
午前: JRで武雄温泉駅へ。徒歩で花島公民館へ。
★山口尚芳(1839-1894)屋敷跡/記念碑
昼: 佐賀に戻り、昼食。
午後: 佐賀駅にて解散
  宿泊●泊 食事●朝 /  - /  - 
出発日・旅行代金(1名様あたり)
▼以下、出発日が過ぎたツアーは、参考料金としてご覧ください。
2018/10/2388,800円
ご旅行条件・他
最少催行人員●5名(定員8名)
添乗員●添乗員は1日目の佐賀駅で合流し、最終日は佐賀駅まで同行しお世話いたします。
利用予定航空会社●
利用予定ホテル●【佐賀】佐賀ワシントンホテルプラザ、アパホテル佐賀駅前中央、ニューオータニ佐賀、コンフォート・ホテル佐賀、龍登園、ルートイン佐賀駅前
お一人部屋追加代金●18,000円
燃油特別付加運賃(旅行代金に含まれません)●
●注意点
※ 佐賀市市街地は基本的に徒歩と公共交通機関で観光します。
※ 荷物を持っての移動があります。ご自分で持てる範囲の荷造りをお願い致します。
※ 史跡周辺の自然物、人工物は持ち去らぬよう、お願い致します。



●旅行代金に含まれないもの
目的地までの交通費、日程表に含まれない食事代、その他個人的な出費。

【事前徴収】
<2018年07月現在>

●大阪・名古屋発及び、その他の地方都市発の場合
・佐賀駅到着、出発の交通費は含まれておらず、この交通機関はお客様ご自身の手配・ご負担になります。





 
●燃油特別付加運賃及び空港諸税
【ご注意】燃油特別付加運賃及び空港諸税について をご覧下さい。
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