特別記事

飯田泰也のラダック旅行の基礎知識 その2
ボリウッド的ラダック王 ジャムヤン・ナムギャルとセンゲ・ナムギャル

 

当時の王族の生活を描いたバスゴ寺の壁画

飯田泰也のラダック旅行の基礎知識 その2

ジャムヤン・ナムギャル王

ラダック史の登場人物について調べると、高僧たち、そして寺院や仏塔を寄進するなどして仏教を保護した王様たちの羅列で面白みにかける。政治史よりも仏教史に関心が強いのがチベット文化圏全体の特徴なのだ。それでもラダックの歴史から注目すべき人物を取り上げるとしたら、躊躇することなくジャムヤン・ナムギャル王とセンゲ・ナムギャル王の二人を選びたい。今回は、ジャムヤン・ナムギャル王を紹介する。


ナムギャル・ツェモ

ナムギャル王朝

ラダック史は、二つの王朝に分けられる。10世紀から16世紀まで続いたラチェン王朝と、それ以降のナムギャル王朝である。ナムギャル王朝は、16世紀、タシ・ナムギャル王によって興った。1531年、シルクロードのカシュガル(現在の中国新疆ウイグル自治区カシュガル)の回教軍がラダックに侵入してきたとき、タシ・ナムギャル王がこれを迎え撃った。王は多数のカシュガル兵を殺戮し、死体をレーの北にそびえる丘の上に埋め、ナムギャル・ツェモ寺院を建立した。兵士の死体は今でもゴンカン(護法堂)の護法神像の下に葬られていると言う。

タシ・ナムギャル王には、子供がいなかったので兄の子であるツェワン・ナムギャル王が即位した。かれは領土を拡大し、東は、中央チベットのンガムリン(ラツェの西約60km)付近から西は現在パキスタンのバルティスタンまで、南はインドのラホール、クル地域まで領土を拡大した。ツェワン・ナムギャル王の死後、各地の領主たちが、ラダック王国からの独立を主張しはじめた。
詳しくは ラダック周辺概略図

ジャムヤン・ナムギャルの誤算

ここで、今回の主人公ジャムヤン・ナムギャル王が登場する。ツェワン・ナムギャル王にも子供がいなかったため、弟のジャムヤン・ナムギャルが1576年に即位した。
この時代、チベットにも大きな変化の兆しが起る。1577年にグルク派の宗主ソナム・ギャツォがモンゴルへ赴き、当時モンゴル最大の有力者アルタン・ハンから「ダライ・ラマ」(前2人の生まれ変わりを数えて3世となる)の称号を受けた。ゲルク派政権への第一歩である。

ジャムヤン・ナムギャル王は、亡き兄王の遺志を引きついで、領土拡大の野心を持っていた。このころ、ラダックの西にあるプリク地方の二人の王子(東のチクタン地区の王子と西のカルツェ地区の王子)がかれらの土地の住民をイスラム教徒に改宗させていることを知った。王子たちは、それぞれチクタン地区とカルツェ地区のスルタン(イスラム教の守護者=アラビア語で王、君主の意)であると宣言し、互いに争っていた。

首都レーから情勢を見守っていたジャムヤン・ナムギャル王は、かれらのイスラム教への改宗がラダックの仏教徒に対して悪い影響を及ぼすであろうとおそれた。一方、この地域紛争は、互いに争っているチクタン地区とカルツェ地区王子たちから領地を奪い返すよいチャンスであると考えた。そしてチクタン地区とカルツェ地区の双方に攻撃を仕掛ける代わりに、チクタン地区の王子だけを支援する計画を立てた。しかし、ジャムヤン・ナムギャル王がこの地域紛争へ介入した結果的、バルティスタン地方のスカルドゥ王国のアリ・ミール・シェール王の介入を招くことになった。バルティスタン軍は、二人の王子が争っていたプリク地区を支配下に治めたのみならず、ラダックまで軍を進め、ついに征服してしまったのである。イスラム教徒であるバルティスタン軍は、仏教寺院を破壊し、経典を燃やし、仏像を河に投げ込んだ。

捕虜となった王

敗北したジャムヤン・ナムギャル王は、スカルドゥのカプール(現パキスタン領)に連行され、アリ・ミール・シェール王の捕虜となった。ジャムヤン・ナムギャル王はハンサムでしかも魅力的な性格であったため、アリ・ミール・シェール王に好かれた。アリ・ミール・シェール王は、三つの条件を飲めば、かれにラダック王国を返還することを約束した。それらは、

  1. アリ・ミール・シェール王の娘ギャル・カトゥン王女と結婚すること。
  2. ギャル・カトゥン王女を第一王妃とし、前王妃の二人の息子を廃位すること。
  3. ラダック王国内で、イスラム教の布教に努力すること。

ギャル・カトゥン王女は、絶世の美人だったので、ジャムヤン・ナムギャル王は、これらの条件を躊躇せずに受け入れた。(下心かよ!) ジャムヤン・ナムギャル王が条件を飲んですぐ、アリ・ミール・シェール王は、高官や軍人たちを招いて婚礼の宴を開いた。このときギャル・カトゥン王女は、もてるすべての宝石を身に着けて宴に臨んだそうだ。

アリ・ミール・シェール王は、祝宴の席でジャムヤン・ナムギャル王を玉座に座らせて言った。
「昨日、わしは夢を見た。夢の中で、宮殿の前を流れる川からライオンが現れ、ギャル・カトゥン王女に飛びかかり、彼女の体内へと消え入った。このときギャル・カトゥン王女は、妊娠した。将来、彼女に子供が生まれたら、その子の名は、センゲ(ライオン)・ナムギャルと名づけよう」


壁画に残る当時の楽士

ハリウッド的展開である。
いや、インドなのでボリウッド?

のちに、ジャムヤン・ナムギャル王とギャル・カトゥン王女の間には、ノルブ・ナムギャルとセンゲ・ナムギャルの二人の王子が生まれている。

スカルドゥの宮殿で行われた豪勢な結婚式の後、ジャムヤン・ナムギャル王とギャル・カトゥン王女は、スカルドゥから大勢の楽士をともなってラダックへ戻った。こうしてラダック王国は救われたのだが、領土の規模は以前よりも縮小してしまった。

仏教復興

地位と権力を回復したジャムヤン・ナムギャル王は、仏教復興を決意した。「仏教の拡大のために何でもしよう。しかし、仏教の布教が成功するか否かは民の心次第であるから、税を減らし、わが子のように民を扱おう」と。王は、バルティスタン軍によって破壊された寺院を再建し、金銀銅を溶かして経典を作成した。

ラダックとチベットのよりよい関係を築くために、ジャムヤン王は、前王妃との間に生まれていた王子の位を廃位させた息子たちを僧侶にし、チベットへ使節として遣わし、セラ寺、デプン寺、ガンデン寺、タシルンポ寺などへ寄進を行った。

ジャムヤン・ナムギャル王は、多くの高僧たちと交流をもった。
1613年から1616年の間にチベットからドゥクパ・カギュー派の高僧タクツァン・レーパ(レスパはラダック語で、チベット語では「レーパ」)がパドマ・サムバヴァの故郷ウディヤナ(パキスタンのスワット渓谷)への巡礼の途中、ラダックへ立ち寄った。この時、ジャムヤン・ナムギャル王は、ラダックに滞在中のタクツァン・レーパに出会い、将来、再びラダックへ来ることを願ったが、再会する前に亡くなってしまい、願いは叶わなかった。タクツァン・レーパは、次回のセンゲ・ナムギャル王の紹介のとき再登場する。

ジャムヤン・ナムギャル王は、晩年ハンセン氏病に罹って苦しんでいた。アムチ(チベット医学伝統医師)や占い師に頼ったが治らなかった。当時、カイラス山で修行していたディグン・カギュー派の高僧ダンマ・クンガ・タクパを招くために使者を送った。ダンマ・クンガ・タクパは、王の病状を知り、ラダック行きを決意した。


ピャン寺

ダンマ・クンガ・タクパは、法力でジャムヤン・ナムギャル王のハンセン氏病を治療した。感激したジャムヤン・ナムギャル王は、ダンマ・クンガ・タクパに自分の師になるよう懇願したが受け入れてもらえなかった。かわりに寺院建立については、快く受け入れてもらった。ダンマ・クンガ・タクパは、現在ピャン寺院が建っている場所で、ディグン・カギュー派の護法神である青い馬に乗ったアプチ女神の幻影を見た。縁起が良いと思ったダンマ・クンガ・タクパは、ジャムヤン・ナムギャル王の援助を受けてピャン寺院を建立した。

ジャムヤン・ナムギャル王は、のちにブータンの建国者となるシャブドゥン・ンガワン・ナムギャルに使者を送り、ラダックへ招待した。しかし、1615年にジャムヤン・ナムギャル王は死に、翌年、1616年にシャブドゥン・ンガワン・ナムギャルは継承者争いに敗れブータンへ逃れることになり、ラダックへくることはできなかった。かわりに弟子のムグズィンパをラダックへ派遣した。彼が、スタクナ寺を建立することになる。


スタクナ寺

スタクナ寺シャブドゥン像



ジャムヤン・ナムギャル王は、権力を保持している間、仏教のみならず、ラダックでイスラム教の布教も支援した。多くのバルティスタンの家族が、スカルドゥからラダックへ移住してきた。ラダック各地へ住み込んで、今でも、チュショ、ピャン、ティクセなどに子孫がいる。


レーのモスク

プリク地区スル谷のモスク


飯田泰也プロフィール