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飯田泰也のラダック旅行の基礎知識 その3
ライオン・キングとタイガー・モンク 

 

飯田泰也のラダック旅行の基礎知識 その3

ラダック史の中で最も活躍した歴史的人物は、センゲ・ナムギャル王である。同じ時代、チベット出身の高僧タクツァン・レーパもかれの右腕として宗教・政治の双方で重要な役割を果たした。


センゲ・ナムギャル

ラダックの覇者 センゲ・ナムギャル王

前回紹介したジャムヤン・ナムギャル王とバルティスタンのギャル・カトゥン王妃の間に生まれ、センゲ(=チベット語でライオン)・ナムギャルと名付けられた王子は強くたくましく育っていった。伝記には、お釈迦様の少年時代を意識したかのように格闘技、跳躍、徒競走、弓矢、競馬において並ぶものがなかったとの記録を残している。また名付け親である母方の祖父アリ・ミール・シャール王の血を引いて、好戦的な性格でもあったそうだ。
父ジャムヤン・ナムギャル王の死後、センゲの兄弟ノルブ・ナムギャルが王位に就いた。センゲ・ナムギャルは、後のブータンの建国者シャブドゥン・ンガワン・ナムギャルが遣わしたムグズィンパの元で出家した。


スタクナ寺

1616年チベットでドゥクパ・カギュ派の管主の座を巡り、二人の転生者が候補に立ち、継承者争いで敗北したシャブドゥン・ンガワン・ナムギャルがヒマラヤを越え、ブータンの地へ逃れドゥク・ユル(龍の国)を建国した。同じ年、在位後間もなくして亡くなったノルブ・ナムギャル王の跡を継いで、センゲ・ナムギャルは修行の途中で還俗し、王位に就いた。王は即位後まもない1618年、師匠であったムグズィンパのためにスタクナ寺院を建立した。

センゲ・ナムギャル王は、ラダックの南ルプシュ地方のスカルシャンと結婚し、二人の間に三人の王子が生まれた。そのうち一人は、建国間もないブータンへ行き高位の僧侶となった。

王家の導師 タクツァン・レーパ


バスゴ弥勒像

タクツァン・レーパ

センゲ・ナムギャル王は、バスゴの地に亡き父ジャムヤン・ナムギャル王を供養するために弥勒大仏像を建立する計画を立てた。父王とも親交を結んだドゥクパ・カギュ派の高僧タクツァン・レーパは、1616年から1620年にかけてラダックの東のギャ地方に滞在しており、 1622年にラダックへやってきた。タクツァン・レーパは、センゲ・ナムギャル王のために、バスゴの弥勒大仏の建立に協力した。

このときから、タクツァン・レーパは王家の導師となり、1624年には、ハンレ寺院を建立する。 タクツァンのタクは虎を意味する。センゲ・ナムギャル王とタクツァン・レーパのコンビは、ライオンの王と虎のラマとして名声を馳せた。

ライオン・キングとタイガー・モンクの活躍


ツァパランのグゲ古城遺跡
(現チベット自治区内)

センゲ王治下のラダック王国は、ドゥクパ・カギュ派に傾倒していた。一方西チベットにあった隣のグゲ王国は、ゲルク派の施主であった。聖地カイラス山には、ブータン人の管理するドゥクパ・カギュ派の僧院があり、この僧院の僧兵がグゲ地方に進出した。グゲ王はかれらを捕え、死刑にする予定であったが、タクツァン・レーパが調停に入り問題が解決した。しかし再び同じ寺の僧兵がまたもグゲ地方を荒らした。再び調停にのりだしたタクツァン・レーパはラダックに捕えられていたグゲの捕虜と交換することで事なきを得た。しかし、悪化する一方の両国間の関係は、タクツァン・レーパの調停能力を超えていった。こうした緊張下でグゲ王タシ・ダクパデが病に倒れ、機に乗じて部下の一部が国王に対して謀反を起こした。1630年、謀反者たちの手引きによって、ついにセンゲ王率いるラダック軍は、グゲ王国の首都ツァパランを占領してしまう。こうしてグゲ王国は滅亡し、グゲ王は捕虜としてレーに連行された。その後、グゲ王は、王族としての敬意を受け邸宅を与えられ優遇されたという。


王家の菩提寺ヘミス寺

同じ年に、タクツァン・レーパの居寺として、ヘミス寺が建立される。以後、この寺は、徳川家にとっての増上寺のように王家の菩提寺として、王家の庇護の下発展していく。(例えば、タクツァン・レーパの三代目の化身には、センゲ・ナムギャルの曾孫にあたるデスキョン・ナムギャル王の次男、サキョン・ナムギャルが選ばれた。)


ポタラ宮のモデルとなったと言われる
レー王宮

センゲ王は、ラダックにあるゲルク派の有力なティクセ寺をドゥクパ・カギュ派に改宗させようとしたが、その行き過ぎた排他性をタクツァン・レーパに忠告されこれを受け入れた。このようにゲルク派に対して厳しい態度をとったとはいえ、センゲ王は、チベットのラサ、ツェタンのタントゥク寺、サムイェ寺、セラ寺、デプン寺、ガンデン寺、サキャ寺、ラルン寺などに寄進したり、ダライ・ラマ4世と5世の家庭教師であったパンチェン・ラマ1世(異なる数え方では4世)に対して宝石・財宝を寄進したりしている。
センゲ王は、3年の月日を費やしてレーに9階建ての王宮を建てた。一説では1645年に造営が始まるポタラ宮殿は、このレー王宮を真似たものだと言われている。

ザンスカール地方には、パドゥム王家とザンラ王家の二つの王統があった。センゲ王の姉は、ザンスカールのパドゥム王のもとに嫁いでいた。しかし、夫婦中は悪く、ついに1638年ザンスカール王は、国外へ逃亡し、センゲ王はこの期に乗じてザンスカールの地を併合してしまう。
この時期、バルティスタンのアダム・カーン王(センゲ王の母ギャル・カトゥンの兄弟、すなわちセンゲ王の伯父)が率いる軍隊が攻めてきた。センゲ王は、カルプでバルティスタン軍と戦った。(歴史書によって、このとき敗北したという記述と勝利したという記述がある)。

西方面での国境争いの後、センゲ王の軍隊は、矛先を東へ向け、ローマンタン(現在のネパールのムスタン地方)やチベットのツァンのンガムリン地方(シガツェの西)まで軍を進めた。センゲ王は、このときシガツェに拠点を起き中央チベットの支配をめぐりラサのダライ・ラマ政権と対立していたシンシャクパ政権のカルマ・テンキョン王と交渉し、国境をンガムリンに定めた。シンシャクパ政権は、協定に従ってラダックに朝貢することになった。シンシャクパ政権は、ダライ・ラマ5世と援軍のグシ・ハン率いるモンゴル軍とも対峙し、1634年、1639年には、建国してまもないブータンとも戦っている。西のラダック、北と東のゲルク派勢力とモンゴル、南のブータンと戦線を拡大し、非常に苦しい時期であったのだ。

1642 年、センゲ王は、この遠征から帰国する途中、ハンレの地において亡くなった。この年、シガツェでシンシャクパ政権を倒したダライ・ラマ政権が樹立する。センゲ王は、ブータン建国の年に即位し、ダライ・ラマ政権発足の年に亡くなった。かれは、チベット文化圏が大きく変動していく時代の西の覇者であった。


チュムレ寺

センゲ王没後も、タクツァン・レーパの活躍は続く。
1644年、センゲ王の息子のデデン・ナムギャル王は、タクツァン・レーパの協力を得て、センゲ王の菩提を弔うためチュムレ寺院を建立した。
続いて、1647年、デデン・ナムギャル王は、皇太后の求めに応じてセンゲ王のためにシェーカル宮に釈迦大仏を建立した。このとき仏殿の定礎にタクツァン・レーパが立ち合った。
同年、カシュガルから回教徒軍の侵入があった。このときもタクツァン・レーパが戦線において調停に当った。

1651年 タクツァン・レーパは遷化し壮麗な葬儀が執り行われた。
センゲ王が一生のうち何度も東西狭しと出兵したのとは対照的に、ラダック王家のラマになった後のタクツァン・レーパは、調停に明け暮れた人生を送ったのだった。17世紀前半、獅子と虎の名を持つ二人が駆け抜けた時代は、ラダックのゴールデン・エイジであった。

飯田泰也プロフィール