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<山本高樹 特別寄稿> もうひとつの居場所、 ラダック

 

文・写真●山本 高樹

黄金色に実った麦の収穫をしているシャクティの若者
黄金色に実った麦の収穫をしているシャクティの若者

約束の場所

ラダックMAP
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2007年から2008年にかけて、足かけ一年半の間、僕はインド北部の山岳地帯、ラダック地方で暮らしていた。ありったけの力を注ぎ込んで、ラダックについて、一冊の本を書く。それだけのために、僕は日本でのフリーライターとしての仕事をすべて放り出して、ラダックに飛び込んでしまった。本を書くといっても、その時点では出版社のアテも何もなかったのだから、酔狂といえば酔狂、無謀といえば無謀な試みだったのかもしれない。
なぜ、ラダックという場所にそこまで惹かれるのか。それをひとことで言い表すのは難しい。

二十代の初め、まだ学生だった頃から、僕は幾度となく旅をくりかえしていた。
最初の一人旅では、神戸から上海まで船に乗り、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)を回った後、北京からシベリア鉄道に乗った。ソ連崩壊直後のロシアであわやという目に遭いながらもどうにかヨーロッパまで抜け、ユーレイル・ユースパスを使って夜行列車を宿代わりにしながら、旅費が底をつくまで各国を旅して回った。
ロサンゼルスからローカルバスを乗り継いで、メキシコと中米諸国を三カ月かけて旅したこともある。東南アジアからインド、パキスタン、イランを経て、トルコのイスタンブールまで、半年かけてアジアを横断したこともある。長短の旅を合わせると、それなりにたくさんの国々を回ってきたし、中には気に入って居着いてしまいたくなった場所もあった。
でも、そういった場所の中でも、ラダックは別格だった。おんぼろバスで標高5,000メートル級の峠をいくつも越えている時は高山病でふらふらになっていたのに、ラダックに辿り着いたとたん、そんな症状はすっかり吹き飛んでしまった。文字通り、僕はラダックにひと目惚れしてしまったのだ。風景も、人々も、あらゆるものが、しっくりと自分に馴染む。まるで、何年も愛用して着込んだジャケットに袖を通した時のように。
僕にとっての、約束の場所。こう書くと、ちょっと格好つけすぎかもしれない。でも、その後、ラダックの魅力と奥深さを知れば知るほど、そうとしか言いようのない繋がりを僕は感じるようになった。それまで僕が何度も旅をくりかえしていたのは、いつか、ラダックのような場所に巡り会えることを、心のどこかで願っていたからなのかもしれない。


最初の一歩

ラダックで暮らしはじめた頃、僕はシャクティという村を一人で訪ねて、ツェリン・ナムギャルという老人の家で畑仕事の手伝いをしていた。
ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた平均標高3,500メートルの高地にあるラダックには、北海道よりひと回り小さいくらいの大きさの地域に、23万人ほどの人々が住んでいる。一年を通じて雨はほとんど降らず、冬の最低気温はマイナス20度以下となり、外界に通じる峠道は雪と氷に閉ざされる。
ラダックの人々は遠い昔から、土とともに生きてきた。先祖代々受け継いできた畑に雪解け水を引き、麦とわずかばかりの野菜を育てる。ゾ(ヤクと牛の混血種)を駆って畑を耕し、牛の乳を搾ってバターやチーズを作り、羊毛を紡いでゴンチェという民族服を織る。残飯はすべて家畜の餌となり、乾燥させた家畜の糞は暖を取ったり煮炊きをするための燃料となる。短い夏の間の労働は、長く厳しい冬を乗り越えるためのもの。日々の仕事のすべてが、生きることに直結している。62歳のツェリン・ナムギャルは、この苛酷な土地で生き抜いてきた、誇り高き農夫だった。

ゾを引いて畑を耕すツェリン・ナムギャル
ゾを引いて畑を耕す
ツェリン・ナムギャル
家畜に踏ませた麦を宙にすくい上げ、風に晒して籾殻を飛ばす
家畜に踏ませた麦を宙にすくい上げ、
風に晒して籾殻を飛ばす



シャクティに来たばかりの頃の僕は、ツェリンとその家族たちに、よその国から来た「お客さん」扱いをされていた。たとえば、朝ごはんの時も、みんなはツァンパ(麦焦がし)とサブジー(野菜カレー)なのに、僕一人だけ小さく切ったトーストとゆで玉子を出されたりしていた。当時の僕は、畑の畝起こしのやり方も水の引き方もわからないような役立たずだったから、彼らが僕をそんな風に扱うのも、無理はなかった。
ある日の午後、ツェリンが「やってほしい仕事がある。ついてきなさい」と僕に言った。言われるまま外に出ると、彼は家の裏手にある、家畜たちを放しておくための放牧地に歩いていった。緩やかな斜面に広がる放牧地の周囲は、高さ1メートル少々の石垣でぐるりと囲まれている。
「あそこと、あそこと……そこの石垣が、崩れている。散らばってる石を積んで、直しておいてくれ」
それは、単純ではあったが、かなりの根気と体力を必要とする仕事だった。直径が4、50センチはある大きな石を下に置いて安定させ、その上に中くらいの石を積み、隙間に小さめの石を挟んで、ぐらつかないようにバランスを取る。チリチリと照りつける日射しに皮膚を焼かれながら、何時間もの間、ひたすら石を運び、持ち上げ、積む、そのくりかえし。額の汗には白い土埃がこびりつき、手のひらはいつのまにか、尖った石の角であちこち小さく擦りむけていた。
でも、これは僕がやらなければならない仕事だった。ツェリンは長年の酷使で膝を痛めているし、ほかの家族も年老いた人たちばかりなのだから。
最後の石垣の穴をようやく塞ぎ終わり、シャツの袖で顔を拭っていると、ツェリンが近づいてきて、僕に言った。
「今日のあんたは、よく働いた。……いい仕事をしてくれた」
今思うと、あの石を積む仕事が、ラダックの人々の絆の中に僕が受け入れてもらえた、最初の一歩だったのかもしれない。

ザンスカールの山奥にあるリンシェの子供たち
ザンスカールの山奥にある
リンシェの子供たち
羊毛を器用に紡いでいくザンスカールのツァザルの女性
羊毛を器用に紡いでいく
ザンスカールのツァザルの女性


「家族みたいなもんだから」

本を書く取材のためにラダックのあちこちを訪ね歩いていた時、僕が常に拠点にしていたのは、ラダックの中心地レーの街外れにある、ノルブリンカ・ゲストハウスという宿だった。客室は全部で5部屋しかない、二階建ての小さな民宿。シャワーとトイレは共用だし、設備だけなら、もっと整っている宿はレーにいくらでもある。でもここは僕にとって、どんなに長い間留守にしていても、帰ってきたらほっとくつろぐことのできる場所だった。
宿を切り盛りするおかみさんのデチェン・ラモは、毎朝5時に起きて仏壇に供えた水を取り換え、宿の廊下と台所を掃除し、泊まり客たちのために朝食のタギ・カンビル(ラダックの伝統的なパン)を焼く。それからバタバタと支度して、街の中心にある役場での事務仕事に出かけていく。夕方、家に帰ってきたデチェンはさすがにくたびれているのだが、「タカ! あんたのラダック語の発音は……いつまでたっても、なっちゃいないね!」と僕をからかいながら、いそいそと夕食の支度を始める。彼女が作る夕食は、特別な味付けは何もしていないのに、ラダックのほかのどの場所で出される料理よりもおいしかった。
デチェンの夫のツェタン・タシは、政府関係の仕事のため、デリーに単身赴任している。三人の息子たち―アチュク、ジミ、ツェリンも、ラダックの外で働いたり、大学に通ったりしているので、普段はみんな離ればなれだ。だから、夏休みに彼らのうちの誰かが帰省してくると、デチェンはいつも以上にパッと顔を輝かせ、肝っ玉かあさんとしての一面をのぞかせる。
「はー、やっと帰ってきてくれた。大助かりだよ。これで、掃除とか庭の畑の手入れとか、面倒なことは全部この子たちにやってもらえるからね!」
そんなやりとりをそばで見ているのが、僕は本当に好きだった。

ガルダン・ナムチョ(灯明祭)の時のデチェン・ラモ
ガルダン・ナムチョ(灯明祭)の時の
デチェン・ラモ

ラダックで暮らしていた一年半の間、ノルブリンカ・ゲストハウスの一家には、何度助けられたかわからない。水あたりで体調を崩して丸三日寝込んでいた時、デチェンはわざわざ僕のためにスープやおかゆをこしらえてくれた。地方に向かう長距離バスで僕の荷物が置き引きにあった時、アチュクは自ら進んでバスターミナルに聞き込みに行き、警察署で僕が申請書類を作るのを手助けしてくれた。日本でつらいことが起こって僕が落ち込んでいた時、ジミはいつもの彼らしくないさりげない言葉で、そっと励ましてくれた。この小さな宿は、いつのまにか、僕にとってかけがえのない存在になっていた。
ノルブリンカ・ゲストハウスでの逗留が続くにつれ、デチェンたちの僕に対する扱いも、次第に変わっていった。ほかに泊まり客がいると、いつもそれなりに手の込んだ食事を用意するのに、僕一人しかいない時は、一家と同じ、簡単なものだけ。ほかの客のためにテーブルや料理やチャイを運ばされるのはざらで、ある時は、家の脇を流れる水路から屋上のタンクに水を汲み上げるポンプの操作法を覚えさせられたりもした。日中、僕が部屋にいてみんなが出払っている時に新しい客が来たら、空き部屋を案内して応対するのは僕の役目。もはや、泊まり客としては扱われていなかった。そして僕は、そんな邪険な扱われ方を楽しんでもいた。
僕が日本に帰国した後にノルブリンカ・ゲストハウスに泊まった日本人女性の方が、あることを僕に教えてくれた。彼女が次男のジミと僕について話をしていた時、ジミは彼女にこう言ったのだという。
「タカは……あいつは、家族みたいなもんだから」
僕にとって、それは何よりもうれしいひとことだった。


絆とともに生きる

朝の光に照らされたティクセ・ゴンパの全容
朝の光に照らされた
ティクセ・ゴンパの全容
スムダ・チュン・ゴンパの本尊ナンパ・ナンツァ(大日如来)
スムダ・チュン・ゴンパの本尊
ナンパ・ナンツァ(大日如来)
ゴンマル・ラ(5,130メートル)で遭遇したウリアルの群れ
ゴンマル・ラ(5,130メートル)で
遭遇したウリアルの群れ

苛酷なラダックの地では、人は、一人では到底生き抜くことができない。農作業にしても、家畜の世話にしても、家族、親戚、友達、ご近所さんなど、周囲の人々との助け合いが不可欠になる。シンプルで小さなコミュニティで暮らす彼らを結びつける、固い絆。ラダックの人々には、そうした絆で支え合っているからこそ持つことのできる、心の余裕がある。そして、その余裕があるから、僕のようなよそ者がやってきても、こちらが心を開けば快く受け入れてくれるのだと思う。
互いを支え合う絆とともに生きる。それは、人が人として本来あるべき姿なのかもしれない。でもそれは、ラダックに行く前に東京で一人気忙しく働いていた頃の僕には、決定的に欠けていたものだった。だから、僕はラダックの人々の生き方に、これほどまでに強く惹かれたのかもしれない。
もちろん、彼らも僕たちと同じ人間だ。喧嘩したり、いがみあったりすることもある。デチェンたちのように、大切な家族と離ればなれになって暮らしている人も大勢いる。それに、ここ20年ほどの間にインド本土から押し寄せた大量消費社会の波によって、ラダックの人々の暮らしは急激に変わった。朝から晩まで仕事に追われる人、こじれた人間関係に悩む人、伝統的な文化や信仰への興味を失ってしまった人……。もしかすると、彼らを支えていた絆は、次第にほつれつつあるのかもしれない。
ラダックの人々がどんな未来を選ぶのかは、彼ら自身が決めることで、僕から「こうするべきだ」という意見を押しつけるつもりはない。でも、強い絆に支えられてきた彼らの生き方は、日本で暮らす僕たちには簡単に真似できない、すばらしいものだ。それだけは忘れないでいてほしいと思わずにいられない。

カルナクのルングモチェで出会った遊牧民の男性
カルナクのルングモチェで
出会った遊牧民の男性

ラダックは今、厄介な問題に直面している。2010年8月にラダック各地で発生した集中豪雨による洪水被害は、人々の生活と心に深い傷跡を残した。死者205名、負傷者607名、行方不明者は約400名。1,000軒近い家屋が壊れ、多くの畑の表土が流されてしまった。復興のための支援活動は、インド政府や国内外の団体によって今も続けられているが、すべての人々の生活が完全に元通りになるには、あと何年もかかるだろう。

たぶん、僕はまたラダックに戻る。忘れてしまうにはあまりにも深く、僕はラダックという場所に関わってしまった。いい時も、悪い時も、ラダックのことを見つめ、伝え続けていく。それは僕にとって、仕事でも、義務でもなく、自分で見出した役割のようなものなのかもしれない。
もうひとつの僕の居場所は、あの空の彼方にある。

風通信」42号(2011年4月発行)より転載