小川 康のヒマラヤの宝探し

第162回 シ ~死~

 
リンチェン先生の家族と。2000年撮影。

 その日、家庭教師リンチェン先生(第85話)の様子があきらかに違っていた。「どうかしましたか」という僕の無粋な問いに答えは返ってこない。いつもの笑顔はなく手に数珠を持ちずっと真言を唱え続けている。そうして5分後に真言を唱え終えると「すまない。父が亡くなったとラサから連絡が入ったんだ。さあ、授業をはじめよう」と教えてくれた。それは2000年の冬、メンツィカン受験勉強中のときのこと。そうしていつもと同じ調子で授業がはじまったが、むしろ僕の方が心ここにあらずだったのを覚えている。

ツクラカンに捧げられる灯明

1988年にインドに亡命して以来、12年間、再会を果たすことなく去って行った先生のお父さん。ほとんどのチベット難民が、こうしてヒマラヤを挟んだ遠くの地で肉親の訃報を知ることになる。
そのときチベット人はツクラカン(メインテンプル)に灯明を捧げ、真言を唱えながら肉親との別れの儀式をひとり静かに行う。ちなみに偶然か必然か、チベット語で死はシという。

 2006年7月末、4年生のときのこと。メンツィカン男性寮に戻ると、妙な静けさに包まれていたのを明確に覚えている。いつもなら誰かしらの笑い声や話し声が聞こえるはずだ。するとルームメイトが事情を把握していない僕の目を覗きこむように教えてくれた。「オガワ、まだ知らないのか。ついさっきドルマ(仮名)が事故で死んだんだ」。「えっ…(絶句)」。つい午前中まで一緒に教室で学んでいたではないか。そして翌朝の未明、3時に起床すると送迎バスでダラムサラの山間にある火葬場へ向かった。基本的に火葬の時間はチベット暦学によって決められるが、僕の知る限りすべて未明に行われている。多分、社会的な要因のほうが大きいのかもしれない。

同級生たちと、2002年撮影。後列左から二番目が筆者

雨季で小雨が降るなか、震えながら1時間近く大きな声で読経をした。メンツィカン学生と僧侶たちが取り囲む中央には薪が組まれ、その上に白い布で包まれたドルマの遺骸が安置されている。そして読経が終わり薪に火がつけられると、ほんの目の前、3メートルくらいのところで炎があがり、彼女の遺骸が燃えていった。次第に白骨がむき出しになっていく。そんな光景を、僕はどんな顔をしていればいいのか分からず、悲しさよりも戸惑いのほうが強かったものだった。そして、それから一週間、メンツィカンのお堂でドルマのための読経が毎日一時間、執り行われた。

ちなみにダラムサラでは日本同様に火葬と決まっており、鳥葬(第128話)や水葬、土葬は行われない(注1)。日本のお墓のような風習はなく、また、遺品や遺骨への執着はほとんどない(注2)。むしろ、遺品を大切にすると故人の魂が現世へ執着し転生への妨げになるとさえ考えるむきもある。ただ遺骨の一部を粉にしてツァンパに混ぜて練り、ツァツァと呼ばれるお供え物として巡礼道に捧げることはある(注3)。巡礼道でよくみかける三角錐状の小さなお供え物にはそんな意味が込められている。

 話は変わり、2014年5月、僕の父が癌で亡くなり、生まれてはじめて葬儀を取り仕切ることになった。ところが、古い慣習や大勢の参列者の方々への挨拶、浄土真宗の難解な儀式に翻弄されてばかり。富山県は全国でも特に葬儀を盛大に行う風習があるらしい。葬儀後、システム化された火葬場で綺麗に焼かれた父の骨を見る段になっても心ここにあらずで、特別な感情は湧いてこなかった。故人を偲ぶ間もないとはよくいったもの。そのせいか父との別れの感情は希薄なままに日々は過ぎていき、四十九日を終えたいまもそんな不思議な感覚が続いている。あの日のリンチェン先生、そしてドルマの姿を知っているがゆえに、極端なまでにシステム化された日本の葬儀に違和感を覚えてしまうのは仕方のないことかもしれない。

ただ、長年に渡り政治家として社会と向き合ってきた父の葬儀に際し、息子である僕自身が葬儀を通して(故人に対してよりも)社会と向き合う姿を見せられたことは、これはこれで日本らしい故人を偲ぶあり方なのかもしれない。そう自分自身を納得させているところである。

注1
たとえばバラナシでは水葬が許されるなど、インドでは州によって法律が異なっている。

注2
高僧の遺骨は「リンセル」と呼ばれ最高のお守り、または宗教薬とされる。

注3
基本的にダラムサラで散骨は禁止されているので、ツァツァの風習は公然とは行われず暗黙の了解のうちに行われているようだ。