第201回 チュ ~水~

tibet_ogawa200_3完成した池と建設中の店舗

野倉(のぐら)の自治会長(以下、会長)が「気になる。いつもこの辺りの土が湿っているなあ」と深刻な表情で呟いた。たしかに、店舗予定地の一区画はいつもジメジメとしている。単純に乾きが悪い場所だと軽く考えている僕に向かって、会長は「おそらく地下水が敷地の下を流れている。これは大事な問題だ」と続けた。普段は酒を飲み、おやじギャグばかりを連発している会長だけに、いつもとは違う真剣な表情に驚いたが、この時点で僕はまだ水の流れの重大さを自覚していなかった。翌日現場に行くと(僕の了解を得るもなにも)すでに会長は重機で穴を掘りはじめていた。みるみるうちに穴が深くなっていく。すると、深さが1mに達したころ水が滲み出てきた。ここで、「まるで井戸のようだ」と無邪気に喜んでしまうあたりが、まだまだ森の民として初心者なようだ。

野倉は夫神岳と女神岳の山間、標高700mに位置する小さな集落だ。地面の2mほど下に硬い地層があるので地震には強いが、地下水が地表付近を流れるために土地は湿りやすいという。したがってこの水の流れをコントロールすることが野倉地区で生きるために大切な知恵として昔から受けつがれてきた。確かに、各家庭の庭には小さな貯水池が必ずある。水を一か所に集めて土の湿気を防ぐことで建物の安定性をうみだし、人々の病を防ぐことができると会長は語る。

tibet_ogawa200_2池の石垣を組んでいる会長

 会長は敷地の山側に大きな溝を掘ると古い瓦の破片を敷きつめてまた埋めた。その溝の先に池を作ると山側から浸みてきた水が溝を伝って池に溜まる算段である。そして、いったん排水ポンプで穴に溜まった水を抜くと、「池の石垣を作るから大きな石を集めてきてくれ」と僕に命じた。石垣という単語は身近に感じているが、「石垣を作る」となるととたんに遠い話になってしまう。しかし、会長にとって石垣を作る主語は「自分」である。整地したときに出てきた大きな石を一輪車でせっせと運び集めた。「石はあんまりがっちりと組んじゃいけない。水が沁み出てくるように少し隙間をあけるように組むんだ」と教えてくれた。そして、翌日、直径、深さ1.5mの見事な池が完成した。2日後には池になみなみと水が溜まり敷地は驚くほどカラカラに乾いた。敷地内の水が池に向かって流れ込んでいるのが(目には見えないけれど)実感できる。雨が降っても降らなくても水面の高さが変わらないのは不思議だ。これを集水井戸と専門用語で呼ぶらしい。僕たちには見えない地下の水脈を感じ取る力。「なぜ、会長は地下の水の流れがわかったのでしょうか」という僕の素朴な疑問に「野生の勘」だよと、会長をよく知る地元の人が笑って答えてくれた。

 今年で還暦を迎えた会長は野倉に生まれ育ち、過疎が進む集落を自治会長として守り続けてきた。昨年秋、黙々と整地作業を続ける僕の姿を見るに見かねて「重機を貸してやるよ」と助け舟を出してくれたのは会長である(第193話)。そのときは「いや、自分の手で最後まで整地したいんです」と断った。結局は「やっぱり人間の力だけでは無理でした。重機を貸してください」とお願いしたのだが、いまにして思うと、いったん断ったのは正解だったようだ。「便利、便利を求める社会が大っ嫌いだ」と酒が入ると会長は熱く語る。たしかに、便利な社会と引き換えに、僕たちは大切な力を失ってしまったのかもしれない。

tibet_ogawa200_1チベットの龍神 ルー

ちなみにチベットにはルー(龍神)と呼ばれる土地神がおり、やはり同じように土地の水流と深く関わっている。また、ル―は医学的に皮膚病と関わりがあるとされる。ルーの法要を執り行ったところ突如、土地から水(チベット語でチュ)が湧きでた。もしくは皮膚病が治ったという話をよく耳にしたことがある。きっとこうした言い伝えや信仰の源泉には、辿り辿れば民族や国を越えて共通する「なにか」があるのではなかろうか。

tibet_ogawa200_4池のカエル

 「ゲロッ、ゲロッ」。池に水が溜まったらさっそく蛙の鳴き声が聞こえてきた。気持ち良さそうに泳いでいる。僕は蛙にむかって「おい、俺が(実際には会長が)この池を作ったんだぞ。感謝しろよ」と恩着せがましく呟いた。生きるために池を作り池を守っていく。僕は自分の意志や理想なんて関与する余地もない「そうせざるをえない」大自然の必然性のなかで生きていくことが大好きだ。


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