第241回 シンカ ~医学と農業~

薬房の前の畑薬房の前の畑

 

 もともと自分の薬店を持ちたいという夢はなかったし、そもそも僕はいまも昔も自分で商売を営む才覚はない。メンツィカン卒業後、日本へ帰国してからの仕事の第一希望は大学講師か、いずれにしても医学教育関係の仕事に就きたかった。しかし、世の中そんなに甘くはない。どこからも声が掛かりそうにないというあきらめとともに「お店を建てようか」とはっきりと自覚したのは2015年春のラダック旅行が切っ掛けだった。そのときの強い思いは帰国後の5月12日『ヒマラヤの宝探し』第178話のなかで読者のみなさんに向かって宣言している。

いま、僕はタンツェのような信州の大自然のなかに薬局を開きたいと考えるようになっている。信州もチベット医学文化圏の辺境のひとつとして仲間入りを目指したい。

 希求を世間に解き放つことで不思議と夢が実現するかもしれない。このときはかなり確信的にエッセーを記していた。「なにかが動き出す」という予感は確かにあった。そんな一カ月後6月のある日、知人からあわてたように電話がかかってきた。いますぐ野倉に来られるかと。土地と森を手放したい人がいるという。それから話はトントンと順調に進んだ……わけは決してない。紆余曲折。先方(土地の所有者)の親戚からの大反対。建設費の資金不足。途中で話がキャンセルになりそうな瀬戸際が二度あったけれど、きっと『ヒマラヤの宝探し』の言葉がブーメランのように帰ってきて、そっと手助けしてくれたのではとロマンチックな想像をしている。2016年夏に無事完成。店の名前は迷いに迷った末に、教育に関わりたいという初志を忘れないために薬店にも関わらず「塾」と名付けた。

森のくすり塾森のくすり塾

 あれから2年、薬房にはいろんな人たちが訪れてくれた。東京の高校を退学した若者は一週間ひたすら薪割りを手伝ってくれ、雨が降れば縁側で将棋を指した。古民家に住むのが夢だという20代女性は大工仕事を手伝ってくれた。お店の伝統工法がお目当てで来訪する設計士さんも多い。子どもたちは畑のノビルを掘り取っていった。ヤゴが孵化してトンボとなって飛び立つまで、一日中ずっと見守り続けた親子がいた。薬房の礎石や石垣の石の種類で盛り上がったこともあった。病院でもらった大量の薬が不安でセカンドオピニオンを求めてくる人もいる。突然現れたウドン職人は森のなかでウドンをうって、店の縁側で振る舞ってくれたのだが、これが驚くほど美味い! 
 
そんなある日、遠方の県から医師が訪れた。なんでも週三日は街の病院で普通に内科医として働き、残りの三日は山間部で農業を営み、残りの一日は農場(チベット語でシンカ)のある大自然のなかで患者のカウンセリングに当てているというが、その語りはとても柔らかい。当然のごとく話が盛り上がってしまい、急きょ別所温泉で宿を手配して話は翌日まで続いてしまった。別れ際、僕は「チベット医学的な医師として勝手に認定しますね」とお墨付きをプレゼントしてあげた。多様な営みのなかの一部としての医療。大自然のなかでの医療。現行の医療制度に囚われない医療。そして、ちょっと土の香りがしそうな医師。こんな病院や医師がもう少しだけ増えたなら、日本は少しだけチベット医学的な社会になりそうな気がしている。

ヤマイモ
 ヤマイモ

 
こうしていろんなお客さんとの出会いを自慢すると、いかにも毎日が千客万来で賑わっていると思うかもしれないが平日はいたって静かなものである。お客さんがいないときは農作業をしていることが多い。品目はジャガイモ、大豆、ズッキーニ、ヤマイモ、ハトムギ、インゲンマメなど、特に薬草にこだわっているわけではない。薬房の前に広がる畑は小型の耕運機で何往復もして土を細かく柔らかくする。エンジンを止めた瞬間、そのときを逃さぬように妻が大声で僕を呼ぶことがよくあった。「お客さーーん!」。僕は作業の手を休めると薬房にむけて畑のなかをゆっくりと歩きはじめる。長靴を脱ぎ、泥がついた手を洗い、額の汗をぬぐってからお客さんに「こんな格好ですいません」と挨拶をするとき、かつてラダックで出会ったアムチ・ツェスペルさん(第181話)やタシ(第20話)の姿と自分が重なって不思議な充実感に包まれる。林業や農業の脇役としての薬(くすり)。大自然のなかの薬店(注)。ちょっと汗の匂いがする薬剤師。こんな薬店や薬剤師がもう少しだけ増えたなら、日本はチベット医学文化圏への仲間入りに少しだけ近づけそうな気がしている。


 

薬局と薬店は法律的に大きく異なる。薬局は病院の処方箋の薬を処方できるところで、気密性の高い調剤室など特別な構造を必要とするため開業には多くの資本とともに、当然、病院や医師との連携が必要になる。また開業する日数に義務が生じる。薬店はいわゆるドラッグストアであって病院の処方箋には対応できないが制約は少ない。大きさが10畳程度の施設(他にも細々とした規定はあります)と薬剤師の資格があれば比較的簡単に開業できる。森のくすり塾は薬店である。



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