モンゴル仏教はどうなっているのか? モンゴルの高僧にインタビュー

モンゴル仏教の中心的な寺院・ウランバートルのガンダン寺

サインバイノー! 「やまもりモンゴル」デビューの中村です。これまでチベットやブータンが専門だったので、モンゴルの話題でお目にかかることが少なかったのですが、ようやく「やまもり」に投稿することができました。とはいっても半分チベット・ネタですが(笑)。

モンゴルの首都ウランバートルはかつて「イヘ・フレー(イェケ・クリエン)」と呼ばれていました。「イヘ」は大きいという意味で、「フレー」は移動式の寺院、つまりモンゴルの伝統的な天幕住居「ゲル」スタイルの寺院のことです。もともとは17世紀に誕生したモンゴル最高の活仏「ザナバザル」ことジェプツン・ダンパ1世の住まいを「イヘ・フレー」と呼んでいたんだそうです。

18世紀に入って「イヘ・フレー」はトーラ川沿いに定着しました。やがてその門前街として現在のウランバートルの街が発展し、移動式の寺院だった「イヘ・フレー」は「ガンダン寺」と呼ばれるチベット仏教僧院へと姿を変え、社会主義時代の受難を経たものの、現在もウランバートルの中心で人々の信仰を集めています。このフレー(クリエン)の音訳が「クーロン=庫倫」という清朝時代の地名となったそうです。

一般にはあまり認識されていませんが、モンゴルはチベットやブータンと同じように「チベット仏教」を信仰する国なのです。

先月出張でモンゴルを訪れた際に、ウランバートルのガンダン寺に併設されている仏教大学で7年前まで校長先生を務めていらっしゃったサムドゥン・ジャムツァ師と縁あってお会いする機会があり、ずうずうしくもご自宅まで押しかけてモンゴルの仏教についてお話を伺うことができました。
以下、長年チベット・ツアーに携わってきた中村が、モンゴルの高僧に突撃インタビューしたときの様子をご報告します。

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中村(以下:中):タシデレ! サインバイノ? 今日は突然押しかけてしまって申し訳ありません。
お目にかかれて本当に光栄です。まずは、先生のフルネームとお歳を教えて下さい。
サムドゥン師(以下:サ):サムドゥン・ジャムツァを言うのは出家してからの名前で、
もともとの名前(俗名)はソニンバヤル言います。1952年生まれで62歳です。
ゲシェー(仏教博士、モンゴル語でガウチ)として、7年前までガンダン寺の仏教大学で校長をしていました。

仏具や法具があふれるサムドゥン師のお部屋

中:仏教はどちらで学ばれたんですか?
サ:1974年、22歳のときに出家しました。
きっかけは、私のおばあさんが病気になったので、ガンダン寺からお坊さんを呼んでお祈りをしてもらったんですが、そのお坊さんに仏教大学に入らないかと誘われたんです。(モンゴルでは病気平癒のためのお祈りがよく行われる)
当時の仏教大学の校長先生が同郷のドント・ゴビ県の出身の方だったこともあって、入学することにしました。ちょうど大学を出たばかりだったし、仏教にも興味があったし。師匠はダンザン・オソルという方でした。宗教弾圧のため1935年から7年間刑務所に服役していたそうです。

中:お師匠さんが、弾圧されて服役されていたそうですが、社会主義時代のモンゴル仏教の様子を教えてください。
サ:1930年代までは社会主義政権でも仏教は許されていました。
当時イヘ・フレーと呼ばれていた現在のウランバートルだけでも1万人以上の僧侶がいたと言われています。ところが、1930年代に入って、(モンゴル人民革命党の)仏教弾圧が始まり、1937年にはモンゴル全土で3万人の僧侶が殺される大粛清がありました。高位の僧侶は死刑に、それほど地位の高くない僧侶は刑務所へ、それ以下の僧侶は軍隊に送られました。

中:大変な時代だったんですね。そんな中、ガンダン寺の仏教大学はどうやって始まったのですか?
サ:仏教大学は1970年に開校しました。当時のガンダン寺の管長と、モンゴルの大統領、そしてロシア(当時ソ連)から来たロシア人の画家で学者レーリッヒ(※)が話し合いをして「モンゴルの文化を守るために」と大学の設置を決めたそうです。
(※レーリッヒについてはサムドゥン師もちょっと自信がなさそうだったので、詳しい方フォローいただければうれしいです。)

おだやかに語るサムドゥン師、しかし次第に話は熱を帯びてゆく

中:現在の大学の様子を教えて下さい。
サ:現在、学生(学僧)は150人くらいです。義務教育を終えた18歳から4年間学びます。
モンゴル人だけでなく、お隣ロシアのブリヤート共和国から来たモンゴル系の学生もいます。

中:あれ? お寺では小坊主も見かけましたが、18歳からなんですか?
サ:大学には入れませんが、10歳くらいの子供が通える小坊主用の学校もいくつかあります。
義務教育を受けながら、仏教の勉強を始めるのです。学堂ごとに共同生活を送っていて、それぞれ20~50人くらいの小坊主がいます。

中:大学ではどんなテキストで教えているんですか?
サ:基本のテキストは「ラムリム(道次第)」(※注:仏教の修行方法をまとめたチベット仏教ゲルク派の根本経典。チベット仏教中興の祖師アティーシャが確立し、ゲルク派宗祖ツォンカパ大師が完成させた。尚、ゲルク派はダライ・ラマの属するチベット仏教の最大宗派)と呼ばれるチベット仏教のテキストです。基本はゲルク派の教え方に則っていますが、経典のモンゴル語訳にも取り組んでいて、チベット語とモンゴル語両方で教えています。

中:インドなどへ留学する僧侶も多いのですか?
サ:そうですね。主に南インドのムンゴットにある(亡命チベット政府が再建した)セラ寺などへ勉強に行きます。
 ダラムサラへ行く僧侶もいます。私自身も1989年には北インドのダラムサラの仏教大学に留学して1年間勉強しました。

中:モンゴルではどんな人がお坊さんになるのでしょうか?
 昔は一家に一人とか、口減らしの意味があったようですが。
サ:今、多いのは家族や親戚にお坊さんがいる人ですね。特に祖父や父親がお坊さんだったという場合が多いです。

中:あれ?! モンゴルのお坊さんは妻帯okなんですか?
サ:本当は駄目なんですけど、田舎ではね(苦笑)。ゲルク派は特に戒律が厳しいので、最近は妻帯が許されるニンマ派の僧侶も増えています。あとはサキャ派のお坊さんも盛んにやってきて布教されています。

中:サキャ派はモンゴル帝国時代にモンゴルで一世を風靡しましたからね。モンゴル的なんでしょうかね?
サ:そうかもしれないですね。
ところで、多くの日本人や外国人がモンゴルは「チベット仏教」の国だと言うのですが、それは間違っています。モンゴルで信仰されているのは「モンゴル仏教」なのです。モンゴルにはモンゴルの習慣や価値観があり、その価値観にあった仏教があるのです。それに、モンゴルに仏教が伝わったのは7世紀のことだといわれていて、チベットからではなく、インドから直接伝わったと言われているのです。歴史からみても別のものなのです。


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ガンダン寺で修行中の若い僧侶

気が付いたら、この季節9時くらいまで明るいウランバートルでもかなり陽が傾いていました。
しかし、サムドゥン師のにこやかで静かな語り口とは裏腹なモンゴル仏教に対する熱い想いに、お話を伺っていた我々もタジタジになるほどでした。

(※モンゴル語⇒日本語の翻訳はモンゴル支店長のハグワがあたりましたが、私もハグワも仏教や歴史を専門的に学んだことがある訳ではないので、誤訳や事実誤認があるかもしれません。ご指摘、大歓迎ですので、詳しい方是非お願いいたします。)


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