小川 康のヒマラヤの宝探し

第40回●「ボンク」耳と鼻を澄ませば


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

ボンク(ロバ)
ボンク(ロバ)
「カカカカーン、カーン、カーン」。朝7時ちょうど、朝の読経の開始を告げる鐘がメンツィカン構内に鳴り響く。最後にもう一つ「カン」という駄目押しの音は、生徒会長の「ほら、起きろ」という強い意思表示である。なぜだろう、チベット社会ではお寺はもちろんのこと、学校でもいまだに電動チャイムではなく、手で鐘が叩かれる。だからその年によって音色も変わってくるのはなんとも趣ぶかい。そして30分間、構内は読経の声で満たされる。
「パレ、パレ、パーレーー」。7時半ころになるとパン売りの声が聴こえ、職員の家族が寝巻き姿で中庭に集まってくる。徐々に声を大きくし最後のレーは極端なまでに伸ばして、フェイドアウトさせていくあたりが、意識の輪郭の不確かな朝の空気に似合っている。 (more…)

第39回●「トンリ・スィルパ」風が日本を救う(上)


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

トンリ・スィルパ
トンリ・スィルパ

法が乱れる濁世の五百年、魔鬼がさまざまな急性の病気を引き起こす。鬼女が伝染病をまき散らす。外教徒の作る新たな物質が毒となる。その時、自分と他人を守る術をここに教える
『四部医典』最終章第156章より

201X年、原因不明の熱病が日本で猛威を奮い、いかなる現代薬も歯が立たない危機的な状況で日本国民は上記の予言が記されていたチベット医学に最後の望みをかけた。なんでも古き薬草書「本草例解」の中に

ヒマラヤ薬草七姉妹が濁世の時代の熱病を癒す

という記述が残されているという。厚生労働省が藁をもすがる思いで風の旅行社に電話を掛けると、薬草の女神イトマに愛された男(第5話参)ヒゲ村氏が「じゃあ、みんなでヒマラヤに宝探しに出かけましょう。ただし大臣も誘ってくださいね。リュックには“無邪気な遊び心”を忘れずに詰めてきてください」 (more…)

第38回●「ニェパ」三体液


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

チベット医学タンカ『身体構成の木』 左の幹が三体液正常の状態、 右が異常の状態を表している。
チベット医学タンカ『身体構成の木』 左の幹が三体液正常の状態、 右が異常の状態を表している。

“ニェパ”
 血で描かれた赤い文字はそこで途絶えていた。死ぬ間際に最後の力を振り絞ったのであろう、パの最後の丸は閉じられることなく未完成のままだった。被害者は4×歳の男性会社員。口から大量の血を吐いて途絶えている死体を凄腕の刑事たちが取り囲んでいた。
「ひでえな、こりゃ。恐らく指先に残した最後のメッセージが犯人の名前か、それに繋がる手がかりになるに違いない。いったいどこの国の言葉だ?もしかしたら背後に大きな外国人組織が隠れているかもしれんぞ。山さん、早速あたってみてくれ」
(more…)

第37回●「セドゥ」ペルシアからの贈り物


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

セドゥ(ザクロ)の花 撮影ダラムサラ
セドゥ(ザクロ)の花 撮影ダラムサラ
ここダラムサラで8年間暮らし、すっかりチベット社会に馴染んだつもりだったけれど、こうしてアムチ(チベット医)として働いていると、社会のさらに深い側面に触れることができる。
一ヶ月間のハンガーストライキで胃の調子を壊してしまったお坊さん。1994年のインド人の暴動(第29話参)に巻き込まれて、いまもトラウマに襲われているお父さん。インド軍の演習中に落下して腰が曲がってしまった若者。実はインド軍のなかにチベット難民兵が多数いることはあまり知られていない。身寄りのない末期癌の尼僧。三年三ヶ月の瞑想半ばにして精神を少し病んでしまった修行者。咳をしながら来院する結核患者。水銀薬の浄化中に気分を悪くした製薬工場の職員。仮病を使って病院の診断書をもらい学校をさぼろうとする若者。 (more…)

第36回●「マニ・リルプ」究極のチベット料理


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

マニ・リルプ 撮影協力 和田武大様
マニ・リルプ 撮影協力 和田武大様
もしも日本を代表する美食家、海原雄三がメンツィカンを訪れたとしたら‥‥。

「タシデレ!ようこそ、いらっしゃいました」ミスメンツィカンのソナムちゃんが満面の笑みで海原氏を出迎えた。
「ここで、究極のチベット料理を食べさせてくれるというので、わざわざ足を運んだが、いったい何を食べさせてくれるというのだ。まあ、所詮、料理の完成度という点においてトゥクパはラーメンに、モモは餃子に叶わないから、期待はしておらんがな。」 (more…)

第35回●「シュケン」異境に舞い落ちた葉


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

シュケン ハイノキ科 絵師の間ではシンクとも呼ばれる
シュケン ハイノキ科 絵師の間ではシンクとも呼ばれる
後日、B氏に確認したところそれは1995年に放映されたという。アジアのどこかの山奥で日本人がタンカ(チベット仏画)を描き続けているというドキュメンタリーを僕は日本のどこかで何かをしながら何気に見ていたような記憶がある。こんな凄いところに日本人が住めるんだ・・・自分には一生、縁のない世界だろうな・・・、そんな微かな感触が心に残ったに過ぎなかったにも関わらず、それから4年後、ダラムサラの街で偶然、長身長髪のB氏に出会った瞬間、記憶の彼方からあの番組が劇的なまでに蘇った。なんと信じられないことに、あのときの自分の視線の向こう側に、いま自分は立っているではないか。 (more…)

第34回●「セワメト」薬草の主人公


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

セワメト バラ科
セワメト バラ科
愛する恋人が不治の病に冒され余命いくばくもない。
「先生、お願いします。何か手立てはないですか?」泣いてすがる男性に医者は困ったように言いました。
「一つだけ手段があります。ダラムサラにセワメトという白い花が咲いています。この花弁を5キロ集め、チベットの呪文を唱えながら煎じてお茶を作り、それを飲めばもしかしたら治るかもしれない。いやぁ、ちょっと小耳に挟んだことがありましてね。信じるかどうかはあなたしだいです」
「あなた、無理しなくてもいいのよ。私はもう十分。あなたと出会えただけで幸せ」
「何を言うんだ、おとみさん。僕は行くよ。必ずセワメトを5キロ採ってくる。それまで生きていてくれ!」 (more…)

第33回●「リ」慟哭の上に散る花


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

リの花 日本名:ヤマナシ 梨の原種にあたるが、実は渋くて食用不可
リの花 日本名:ヤマナシ 梨の原種にあたるが、実は渋くて食用不可
毎朝9時ちょうど、メンツィカンの屋上で全生徒が整列したのを確認すると生徒会長が元気よく号令をかける。

「ブーギ・ゲルカプ・チェンボ・ゲルー・チク・ニ!(大チベット国歌斉唱、一、二!)」

5年間の在学中に歌ったチベット国歌の回数は、生まれてから歌った日本国歌の通算回数を上回ったのではないだろうか。元来、歌が大好きな僕は、毎朝、チベット人の誰よりも大きな声で気持ちよくチベット国歌を歌うことから、ことさら調子がよかったときは、斉唱後に彼らから握手を求められることもある。 (more…)

第32回●「ケルパ」世界の医学史


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

ケルパ ヒイラギの仲間にあたる。開花は4月
ケルパ ヒイラギの仲間にあたる。開花は4月
1999年、初めてダラムサラに到着して間もなく、道端に真っ黄色の樹皮が剥きだしになっているのを見つけて「ここにも黄檗(オウバク)が生えているのか」と懐かしさが込み上げてきた。黄檗の樹皮にはベルベリンという黄色の薬用成分が含まれており、現代薬においても下痢止め薬や目薬に配合されている。少し時代をさかのぼると陀羅尼助や百草丸という伝統的和漢薬の主成分になっており、さらには縄文時代の遺跡から黄檗が発見されたことからも分かるように黄檗は日本の薬の歴史を語る上で欠かすことのできないキーポイントとなっている。個人的にもその昔、百草丸を愛用し、また黄檗を畑に蒔いて農薬効果を調べたことがある馴染み深い薬草である。 (more…)

第31回●「ティタサンジン」赤い実の誘惑


小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

ティタサンジン バラ科
ティタサンジン バラ科
ヒマラヤ薬草実習中盤(第1話参照)、野イチゴの蔓(ティタサンジン)の採取を命じられた。実でも葉でもなく蔓を薬に用いるとは何とも不思議な医学だと、いぶかしがるものの、これがなかなか重労働で蔓を忙しなく引き寄せても一向に袋に溜まらない。アワ(第25話参照)同様に辛抱強さを試される修行である。
そんな作業にいよいよ嫌気が指した折、山が気を利かせてくれたのだろうか、大きく真っ赤な実で敷きつめられた野イチゴの群落に出くわし狂喜乱舞した。薬の蔓よりも食のイチゴに心を奪われるのは生物の本能として当然であり、僕と親友のジグメは泥だらけの手で貪るようにイチゴを食べ続けたものだった。ヒマラヤの甘い息吹が僕の体の中に溶け込んで行く。やはり蔓よりも赤い実がいい。 (more…)