小川 康のヒマラヤの宝探し

第186回 ヒイラギナンテン ~薬草サバイバル~


ヒイラギナンテンヒイラギナンテン

「災害時に問題となるのは、空腹と出血と下痢と熱と感染症、そして痛みです。これらに対応できるように都内にもっと薬草を植えましょう。」と、帰国後の講演会でいつも語っていた。当初は、ここで聴衆から笑い声が起こったものだったが、3.11以降、状況は一変し、みんなが身を乗り出して僕の話に耳を傾けてくれるようになった。そもそも、この「薬草サバイバル」の着想は、都内の予備校医学コースで講演をしたときに得た。 (more…)

第185回 ランワン ~続・秘伝の薬~


tibet_ogawa185_1キハダ軟膏

 信州・佐久市に住む知人(62歳)が、この地方に古くから伝わる家伝薬の思い出を語ってくれた。なんでも、小さい頃、喉が痛かったり咳が止まらないときは、佐久の岩村田の「ある家」にいくと、赤い塗り薬を足の裏に塗ってくれたという。「小川さん、信じられないかもしれないけど、ほんとに喉が治ってしまうんだよ。この地域の人たちはみんなお世話になっていて、お代は、たぶん払っていなかったか、なにかでお礼をしていたような気がする」。赤い薬で、咳に効くとされる可能性があるものといえば、たぶん……紫根(第119話)で、おそらくその家は代々、中国からの貴重な生薬を入手するルートをもっていたのではないだろうかと僕は推察した。「でも、いまはもう、あの薬は手に入らないし、どこの家だったかも覚えていないよ」 (more…)

第184回 メンガ ~秘伝の薬~


tibet_ogawa184_1信州の風景

 その村の名前も、家伝薬の名前も、その薬を受け継ぐ古老の御名前も、あえて記さないが、秘伝(チベット語でメンガ)とされる家伝薬がかろうじて現代に受け継がれ、そして山あいの小さな村で消え去ろうとしている、その物語りだけは、この場を借りてどうしても伝えておきたい。

「そういえば、小さい頃、病気になったらAさんの家で作られる苦い薬をもらってきていたよなあ」。昨年、所用でその村を訪れたとき、村民同士で何気に交わされた会話が僕の耳にとまった。「どんな薬か覚えていますか?」という僕の問いに「黒くて苦かったことしか覚えていないよ」と素っ気ない返事が返ってくるも、僕はその村を訪れるたびに家伝薬に関する質問を繰り返していた。なぜだか気になって仕方がなかったのだ。 (more…)

第183回 トゥルク ~活仏制度~ 


tibet_ogawa183_1スタクナ寺

(4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回は「ラダック伝統医を訪ねて」シリーズの番外編です。)

 レ―近郊のスタクナ寺を訪れたときのこと。スタンジンの仲介で4歳のリンポチェ(活仏)から御加持をいただく機会を得た。僕は手を合わせ頭を垂れると、リンポチェから金剛杖で頭を撫でていただいた。そして、「いただいた」と記すほどに意識が変わった自分に気がつかされた。チベット社会で暮らし始めた15年前、転生(生まれ変わり)制度のことは他人事として興味を持っていたが、だからといって、幼少のリンポチェに敬意の念を抱くことはできなかったことを正直に告白しておきたい。 (more…)

第182回 シェルドン ~読経とアムチ~


tibet_ogawa182_3モスク

(4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回は「ラダック伝統医を訪ねて」シリーズの第5回、最終回です。)

 ラダックの中心都市レーの街に、毎朝4時半ころ拡声器でコーランが大音響で響きわたったのは、正直、驚かされた(注1)。チベット仏教の街と思い込んでいたレーの街には、意外にもイスラム教の人たちがたくさん住んでおり、仏教徒のラダック人と共存している。裏路地に入るとイスラムの人たちのパン焼き工房が軒を並べていて、中世の人々の営みを彷彿とさせるこの通りの賑わいが僕は大好きだった。ただ、なにも拡声器を使わなくてもいいのではという恨み節のいっぽうで、夢うつつながらに耳にするコーランのおかげで、いつもにも増してレ―のホテルに滞在中は(若干の対抗意識とともに)朝のチベット仏教経典の読経に力が入ったものだった(第143話)。

レーの街のお土産やさんに足を踏み入れると、ラダック人のおばあさんがカウンターで読経をしていた。失礼ながら商売気がほとんど感じられず、お決まりの「ジュレ―」のあいさつもなく、目配せだけであいさつは済まされた。そのとき僕は土産物のショールの棚よりも、おばあさんが大切にしている年季の入った読経本に関心が向いた。ラダックの寺院ではもちろん、街角でも、なにげにこうした仏教の読経の風景と、耳をすませば、どこからかかすかな読経の声を聞くことができる。 (more…)

第181回 ギュ ~アムチの成人式~


農村風景

(4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回は「ラダック伝統医を訪ねて」シリーズの第4回です。)

 スタンジンが暮らすニンム村(レ―から車で1時間)に到着し、ホームステイ先に荷物を置くと、ご近所のアムチ・ツェスペルさんを紹介してくれた。かつてニンム村には、10軒ものアムチの家系があったが、現代に残っているのはツェスペルさんを含めて2人だけだという。自宅を訪れるとちょうど畑に肥料を撒いているところだったが、手を休めて僕のために時間をとってくれた。夕暮れどき、堆肥の匂いに包まれながら伝統医学の話しをするのは悪くない。最初はチベット語を話す日本人にやや警戒心を抱いているのが伝わってきた。しかし、「ギュ」の話題を振ると「よく知っているな!」と表情を緩めて、夕暮れのザンスカル山脈を眺めながらむかしの思い出話で盛り上がっていった。

かつて、ラダックの村々ではアムチの家系の跡継ぎが20歳前後になったとき、村民を自宅の前庭に集めて四部医典の暗誦試験「ギュ」が行われていた(注1)。そして村民の立会のもとで半日がかりの暗誦試験を終えたあとは、新しいアムチの誕生を祝して村をあげてお祭りが執り行われていたという。 (more…)

第180回 アニ ~尼僧の人権~


レーの風景レーの風景

(4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回は「ラダック伝統医を訪ねて」シリーズの第3回です。)

尼僧医パルモさんを訪ねた。メンツィカンの大先輩(第8期生)であり、ラダックからメンツィカンへ進学する道を切り開いた先駆者でもある。僕が自己紹介すると、日本人アムチ(第14期生)がいるという噂を以前から耳にされていたようで、「あなたが、あの日本人!」と胸襟を開いて迎えてくれた。いまはレ―空港の近くにある尼寺で30人近い若い尼僧(チベット語でアニ)にチベット語と仏教の基礎を教えるとともに、小さな製薬工場と病院を構えて診察を行っている。腰を落ち着けて話をはじめると「ラダックでは尼僧は家政婦くらいにしか思われていない」とパルモさんの口調はいきなり厳しい。 (more…)

第179回 サン ~銅の匙~  


チリング村の風景

(4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回は「ラダック伝統医を訪ねて」シリーズの第2回です。)

 スタンジンの提案でチリング村へ出かけることにした。地図で見ると中心都市レ―の近郊のように見えるが、ザンスカル渓谷の上流へと向かう道のりはかなり険しい。渓谷を切り拓くために爆破したままの岩がゴロゴロと転がっている。慎重に進むこと2時間、ようやく渓谷の奥の、さらに奥にあるチリング村に到着した。人口は約80人。レー行きのバスは週に往復1便だけの文明社会とは隔絶した村だ。なんでも、むかしむかし(たぶん17,18世紀ころ)、ラダックの王様がネパールから彫金師を招聘し、この村に住まわせたことが切っ掛けで、いまなお、ほとんどの家では銅や黄銅の彫金を営んでいるという。 (more…)

第178回 パンゴンツォ ~辺境の医学~


パンゴンツォ 奥の薄青い部分が氷結箇所

4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回から5回シリーズで「ラダック伝統医を訪ねて」を連載します。

29日早朝、ラダックの中心都市レーを出発し、雪が残る標高5300mのチャンラ峠を越えてパンゴンツォを目指した。パン(草原)ンゴン(青)ツォ(湖)、すなわち「真っ青な草原のような湖」である。有名なインド映画のラストシーンに使われたことから、多くのインド人観光客が夏になると訪れる。同行のイケメン早稲田学生が「小川さん、行きましょうよ」と強く背中を押すので腰があがったが、実は、僕の真の目的はパンゴンツォにはない。湖の手前の小さな村タンツェに赴任している僧医ロブサンと再会することにあった。 (more…)

第177回 タパ ~医師が僧侶であること~


ハクドン僧医

「アムチといえば僧侶(チベット語でタパ)」というチベット医学の理想像を体現している数少ない僧医の一人が、同級生のロカ・ダワである。名医を輩出することで有名なロカ地区(ラサ南方)の出身のことからロカと呼ばれている(注1)。朴訥とした性格で、そういえば、メンツィカン5年間の共同生活のなかで怒ったところを一度も見たことがなかった。ヒマラヤ薬草実習でも、製薬工場での勤労奉仕でも、いつも愚痴をこぼさず黙々と仕事を続けるその姿はみんなのお手本になっていた。試験では上位でも下位でもなく、5年間を通じて中位を保ち続けたのも彼らしい。そんな彼は2008年に卒業後、標高4500mの無医村に派遣され、過酷な環境のなかでいまも地道に働き続けている。まさに僧医の鏡のような存在である。とはいえ、彼のような僧医はメンツィカン所属のアムチ160名のなかで、たった7名だけだというと意外に思われるだろうか。 (more…)