倫理学

「いつかきっと倫理学を学びたくなる時がまた来ますよ」新宿の末廣亭の近くの地下のバーで50代(おそらく)の少々太ったK教授は、私たち哲学科倫理学専攻(略して哲倫)の学生に向かって呟いた。「そんなもんですか?」「きっとそれなりの仕事をして退職してからだろうな。そう思うのは」そんな先の話をされても想像すらできなかったが妙に印象に残り時々思い出す。

今年の年明け、年賀状でその時一緒に飲んだ哲倫の旧友から、定年退職の報が届いた。彼が、倫理学を再び学ぶかは甚だ疑わしいが、そういう年になったのかと改めて実感した。

倫理学というと、命題は「人はいかにして生きるか」だ。倫理という言葉からか、道徳的な生き方の探求と受け止められがちだが、それは宗教の領域だ。大学ではもっぱら、ソクラテス、プラトン、カント、キルケゴールの書物を読んだ。ゼミは原典購読。昔のゼミは、今と違って語学ができなければスタート地点にも立てなかった。

とはいっても、翻訳が悪いのか原文の問題なのか、訳本も原文もさっぱり理解できなかったが、解らないことが学問だ、くらいの意識だったと思う。それが災いして、これらの哲学者に関しては何も語れない。

最近は、倫理学の本を手に取ることはまずない。小説かせいぜい歴史の本くらいしか読まない。それでも、以前も書いたが、山岡荘八の『太平洋戦争』(全10巻)を3月に読み終えた。著者の思想性には違和感はあるものの、やっと太平洋戦争の全体像を頭の中で描くことができるようになった。知っているようで知らないことも多々あった。

例えば、A級戦犯とは平和に対する罪、B級戦犯とは(通例の)戦争犯罪、C級戦犯とは人道に対する罪であり、罪の重さのA>B>Cではない。とかくA級戦犯が重い罪だと受け止められがちだがそうではない。

それにしても、何故、あんな悲惨なことになったのか。日本兵には、降伏するという選択枝がなかったわけだが、死という本来は個人領域の問題を「〇〇のために尽くす」という形に置き換えて昇華させる。こんな意識構造は、程度の差はあれども今も私たちの意識の底にあり、日本という社会も、むしろそうあるべきだという感覚で覆われているような気がする。

もちろん、家族のため、会社のため、国の発展のため。世界平和のために尽くす。これが悪いとは思わないし、むしろそうあるべきだと思う場合も多い。ただ、第一義は個人である。少々倫理学とは違うが、こういうことも一つ一つ考え確認しておく必要がある。

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