「韓のくに紀行」と「伽耶古墳群」をゆく

李舜臣

司馬遼太郎は1971年5月15日に釜山の玄関口、金海空港に到着した。私たちはその55年後の5月21日に金海空港に到着し、張大石先生とガイドのミセス・キム(金敬蘭氏)と合流した。その後、釜山倭城跡地と龍頭山を訪ね、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)において祖国を救った李舜臣の銅像も見学した。その像は、はるか対馬をにらんでいる。この晩は釜山の「チャガルチ市場」で張先生お勧めのデボン紀から生き抜いてきたヌタウナギをご馳走になった。司馬さんのころの釜山と現在の釜山はものすごい変わりようだと張先生はいう。「突如、五分刈りの頭のように林叢を冠っていない韓国の山が近づいてきた。」と司馬さんは書いたが、今、釜山の山々は“ふさふさ”の緑一色である。そして山ぎわには高層のマンション群が立ち並んでいる。

左:チャガルチ市場
右:釜山の山際に建つマンション群

翌日は、古代製鉄の「達川遺跡」を経由し、司馬さんが老人たちの「野遊び」に合流した慶州の「掛陵(元聖王陵)」に行き、張先生の解説をきいた。ここにはペルシャ人風の武人像があり、また新羅の古墳からはペルシャ由来の美しい「ローマングラス(ガラス器)」なども見つかっており、中央アジアの人々が実際に慶州を行き来していた、あるいは移住していた可能性は十分に考えられるという。その後、慶州の半月城や国立慶州博物館を見学し、友鹿洞の沙也可という、文禄・慶長の役で日本軍から朝鮮側へ帰化した武将とその子孫が暮らす集落を訪ねた。

掛陵の石像

世界遺産の伽耶古墳群は、韓国の南部に点在する7つの古墳群によって構成されている。「伽耶」とはかつて複数の小国が連合していた「伽耶連盟」の国々である。この古墳群は1世紀から6世紀半ばにかけて造られた王や支配層の墓である。私どもが訪ねた古墳群は、高霊伽耶池山洞古墳群「大伽耶」、玉田古墳群「多羅国」、末伊山古墳群「阿羅伽耶」の三か所で、「金官伽耶」では、伝説的な初代国王・金首露王陵と首露王妃陵を訪ねた。これらの古墳群は見事に整備されている。芝生に覆われた古墳は実に美しい。まさに「至る処青山あり」の風景であった。そして各古墳群に付随して無料の博物館があり写真も撮れる。そして張先生が各古墳群の学芸員や郡長さんに連絡を取り、同行していただき解説もしていただいた。韓国の文化財に対する政策には驚くばかりである。文化財にかける予算は日本のおよそ5~6倍も計上しているという。

左:高霊池山洞(大伽耶)古墳群
右:掛陵(元聖王陵)

そして最後の晩に、落花遊び(落花ノリ)を楽しんだ。この花火はケヤキの墨を粉にして韓紙で細い縄状に編み込み、それを池に張られた無数の紐に垂らし、夕暮れとともに点火する。火の粉が桜の花びらのように無数に舞い落ち、それが水面に映え、とてつもなく美しい。

韓のくに紀行の中で、司馬さんは「その一大空間をゆっくりと横切ってゆく物体がある。白い鵞毛か、それとも雪片のようなもので、それらが天をゆき、地をゆき、ひとびとの顔をかすめ、脚をかすめ、ただよっているのか、進んでいるのか、その異様さは心臓の鼓動があやしくなるような感じのものであった。」と書き“柳絮”を見たのである。私たちもその“マリーン・スノーのようにゆっくりとうごいている”“柳絮”を光射す、うす緑の林の中に見た。

古代の伽耶の国々には、かなりの倭人が住んでいたという。現代の日本語と韓国(朝鮮)語ほどの違いは伽耶時代にはなかったのではないかと勝手に想う。
この旅では「アンニョンハセヨ」、「カムサハムニダ」、という言葉を何回も何回も聞いた。聞いているうちに、なにか“いにしえ”の淡い記憶が蘇るような気がした。

さて、司馬さんが掛陵で老翁たちの野遊びに紛れこんだとき、ガイドのミセス・イムから翻訳してもらった老翁の唄でしめくくりたい。

“きのうまでは 二八(十六歳)の青春だったが ふと気がつくと
こんな齢になってしまっている かえりみれば 友はみな白い髪に白いひげ
せめてものひとときを 愉しんで踊るしかしかたがない“

落花遊び

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