「歩く、見る、聞く」を実践し、日本中歩いた民俗学者の宮本常一は、生涯に16万キロメートルほど歩いたと言われている。約、地球4周分である。彼の思想や旅の意味などをわかりやすく書いた本『宮本常一――民俗学を超えて』(木村哲也 著 / 岩波新書)を数か月前によんだ。なかなか興味深く、僕自身がかなり影響を受けた人々との関わりを通して描かれている。著者は木村哲也さんで、周防大島文化交流センター(宮本常一資料展示室)の学芸員などを経て現在は国立ハンセン病資料館の学芸員として勤務されている。ぜひ、ご一読いただきたい一冊である。
さて宮本常一とは目的が異なる旅人が僕のまわりにはかなりいた。1960年代後半から70年代前半に、友人たちは横浜から船に乗り、ナホトカ経由のシベリア鉄道で激動のヨーロッパ各地に旅をした。船の名前はたしか「バイカル号。当時は外貨の持ち出しが500$(日本円で18万円)で、一人の友人は内緒で腹巻に30万円を隠し持って旅立った。彼らのほとんどは、五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」をよみ、あこがれて旅を志したという。彼らを横浜に送った時、色とりどりの紙テープを投げあい、旅立つ彼らと出航するまでもちあった。いずれ汽笛がなり、船が遠ざかると切れてしまうのだが、旅にでる友人たちがうらやましくてしかたがなかった。出ていく彼らはというと、紙テープが切れるとぼろぼろと涙がこぼれ、「どこかで野垂れ死にしてしまうかもしれない」恐怖と旅立つ感傷とが入り交じり、一晩中泣いていたそうだ。見送る僕たちは彼らとの“縁”がこれで切れてしまうかのように、もの寂しい気がした記憶が残っている。
それにしても、大勢の出てゆく人々と見送る人たちがにぎる紙テープの膨大な数にびっくりした。そしてある映像を思いだした。それは1958年から始まった「日劇ウエスタン・カーニバル」のニュース映像である。当時の若者に空前のブームを巻き起こした伝説的な興行である。映像ではステージに押し寄せる大勢の観客(女性が多かった気がする)が色とりどりの紙テープを歌手に投げ、その数たるやすさまじい量であった。なにせ失神者もでたという、すさまじいステージだった。その当時の若者とはおそらく17、8の方々だろうから計算すると、1940年前後の生まれだろうと想像する。戦前生まれの方たちがステージにたつスターたちとわずかの間でも繋がろうとする想いで投げる紙テープと、それをもって歌うスターたちの映像にはとても衝撃をうけた。それからおよそ10年後、1966年のビートルズの来日公演でも驚異的な騒ぎがおこり、ここでも失神者をだしながらの演奏であったがこの映像をみるかぎり、紙テープは一切飛び交うことがなかった。危険防止のためでもあったという。
旅立つ人やスターと紙テープで“つながる”という行為と、観音さまやお薬師さまの手から伸びた紐(五色の紐)に触れる行為はどこかよく似ている。今年は午年のため、各地の観音霊場ではこの“紐”が回向柱につながれている。手の届かない人や神仏、そして離れゆく親しい人などとのせめてものひと時の“縁”をつなぎたいという心情なのだろうか、やがて日常にもどらなくてはならないから…。
奄美島唄の『糸繰り節(いとくりぶし)』別離の刹那さを唄う僕の好きな島唄の一つです。
一、
糸繰り 糸繰り
糸繰りば 知らぬ
夜(ゆ)や ほのぼのと
明け(き)ぬれば(
二、
糸(いと)や 切りりば
結(むし)びよむ むすば
縁(えん)や 切りりば
結(むし)ばらぬ