第357話 チュー ~仏法~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

森のくすり塾の建設が準備段階だった2015年8月のこと。風の旅行社ツアー「アムドの聖なる山・アムネマチンにチベット医学の原点を求めて」一行5名と現地ガイドのノコさんは、その名にふさわしく医学の原点を求めて、ある一人の医僧アムチ(チベット語で伝統医)を訪ねた。
 
小さな病院に到着すると「遠くからよくいらした」と素敵な笑顔とともに祝福のカタをかけてくれた。六十歳くらいだろうか。いまツァム(第317話)の期間中で、一年間はこの病院の敷地内からはいっさい外出せず、患者の治療にあたるとともに修行を積んでいるという。本来はこうして来客と会うこともしないのだが、今回は特別に機会を設けてくれた。「夏はみんな農作業にいそがしくて、ちょっとやそっとの病気では病院には来ませんよ」と語る気さくな話しぶりは、ツァムに抱いていた厳格なイメージを和らげてくれた。 

病院の敷地内には小さな製薬工場があり、夏のあいだに採取された薬草が乾燥されているところだった。これらの薬草は弟子の医学生5名によって採取されたものだ。同じく敷地内には寺院が併設されており、地域の人たちが参拝に訪れ、真言を唱えるかすかな声とともにマニ車がカラカラと音をたてて回っていた。

乾燥中の薬草

乾燥中の薬草

アムチは僧侶であり、医学に加えて顕教も密教も修めるべきだという理想論を欧米、日本において眼にし、耳にすることがある。1960年代以降のチベット神秘ブームのなかで形作られ、それは日本にも影響を及ぼした(第177話)。そのためこんな僕ですら、瞑想など密教的なことを求められることは多い。しかし現実には、この三つを正式な過程にもとづいて修めるには約10年(顕教・注)、5年(医学と暦法学)、約6年(密教)で約21年も費やさねばならず、残念ながら理想のアムチは現代ではほとんど見当たらない。1959年以前は学識者が僧侶にほぼ限られていたこともあり、必然的に僧侶のなかから医師が生まれていた。しかし20世紀後半、一般社会への教育が普及し知識所有層が俗人にまで普及したことでその必然性は低下し、2011年のデータによるとインド・ネパールだけに限ればアムチ375人中、医僧は30人にとどまっている。

病院に隣接する寺院

病院に隣接する寺院

話をアムドの医院に戻したい。
「先生のようにツァムの修行に励むアムチは他にいらっしゃいますか」という僕の問いに「多くはいないがカム地方(チベット東南部)の寺院には数名いますよ」と答えてくれた。「ほとんどいない」と推定していたのはあながち誤りではないようだ。そうして約2時間、ノコさんの通訳を介して先生とお話をしているうちに(先生はチベット方言にあたるアムド語を話される)不意に涙が零れてきた。理想を体現されているアムチにはじめて出会うことができた感動。先生は最高峰とされる修行にまで辿りついている。それでいて民衆に開かれている。さらに医学生たちがその意志を受けついで学んでいる。その事実に触れて僕は胸がいっぱいになってきた。ツアーの名にふさわしく「チベット医学の原点」に出会えたことに感謝の念が沸き起こってきた。

もちろん僕にとってツァムに至るまでの道のりはまだまだ遥かに遠い。ただ、遠い目標がある。一本の道がある。10年間の学びを持ってしてもまだ道半ばと自覚させてくれる学問、それこそチベット医学の魅力である。大言壮語はできないが、森のくすり塾でお客さん(患者)と接しながら、ツァムのような環境で入菩薩行論や中論など顕教を学んでいければいい。さすがに密教はまだまだ先になりそうなので、来世に繰り越すことを許してもらえるだろうか。

思えば1999年、チベット社会で暮らし始めた時点では仏教に関心の薄かった自分がツァムを意識するまでになっていることに気がつかされた。つまり10年間(1999~2009年)に渡ってチベット社会で暮らしたことの因によって「自分自身の内面の変化」という果報を得ることができたといえる。仏法を意味するチベット語「チュー chos」の原義が「誤った心を正す」であり、さらには「よりよい心の変容をもたらすための教え」とも解釈できることを考えると(注)、やはりチベット医学は仏法「チュー」と深い関わりがあることが自分ごとからではあるが浮かびあがってくる。

(病院、医師の御名前は伏せさせていただきます)


『ダライ・ラマの「中論」講義: 第18・24・26章』(ダライ・ラマ一四世テンジン・ギャツォ 大蔵出版 2010 P68)
本稿は『医療と仏教――仏教が補完する医療の未来』(サンガジャパンVol.28 2017年)に寄稿した「チベット医学と仏教」(小川康)から抜粋したものです。

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