
ツアー参加者に薬草の指導をするタシ
ツアー「暮らしに息づく伝統医学」3日目の夜、タシが故郷ティンモスガンのホテルに駆けつけてくれた。けっこう老けて、ちょっと太ったなぁと互いにからかいあって再会を祝った。現在はレーにある国立伝統医学院の教師陣の中心的存在となっている。レーから車を飛ばして2時間ちょっとかかったので、「忙しいところすまない」と詫びると、「ちょうど、昨日から学生たちが薬草採集に行ったので授業は休みになっていたんだ」と教えてくれた。
ラダックの伝統医療事情を整理すると、まずは中心的存在として国立の伝統医学研究所(注1)があり、タシはメンツィカン退職後の2012年ころから働いている。ここには血液・尿検査の最新機器が備わっていて、積極的に現代医療と融合している。次に州立の病院が各地にあり、ここでは現代医、看護師とともに伝統医療部門がある。特に僻地での医療を担い、友人ロブサンはここに属している(第178話)。そして、プライベートの伝統医療としてメンツィカンや尼僧パルモさんの病院(第180話)、また、村々にはツェスペルさん(第181話)のように兼業としてアムチを営んでいるケースがある。これらのアムチ(医師)の教育は現在、インド政府によって一元化され(第349話)、AYUSH省への登録が必要である。

インド国立伝統医学院
翌日、「そういえば」とタシが興味深いことを教えてくれた。「昨年、ティンモスカンでギュクの儀式(第181話)が久しぶりに開催され、その立会人として儀式に参加したんだ」。ギュクは村民を集めて行われる暗誦儀式であり、アムチ誕生をみんなで祝う会でもある。法的にはギュクの儀式は必須ではなく、あくまでラダックで過去に行われていた風習である。それをあえて再び開催するとは、いったいどんな動機によるのだろうか。
ギュクに挑戦した新アムチのお名前は忘れてしまったが、普段は学校の先生をしていて、兼業としてアムチの仕事をやるというから、代々続く世襲の家系なのだろう。タシとしては、故郷ティンモスカンの伝統医療はお前に任せた、とバトンを渡したような気持ちで立会人を務めたに違いない。なにしろタシは現役のアムチのなかでは唯一、全暗誦試験ギュ・スム(第51話)を2002年に達成しているラダック人である。現代医学と融合する合理的な流れの一方で、古来の暗誦儀式がよみがえる流れもある、これこそがラダック伝統医療の魅力である。「どれくらいの村民が集まったんだ?」という僕の問いに「1歳の息子の誕生日パーティーも併せていたから、けっこう集まったぞ」と答えてくれ、ズッコケそうになった。

暗誦試験ギュ・スム 2006年
日本で、僕がタシのように立会人を務める日が訪れないかと空想してみた。仮に日本でチベット医学の修了制度を設けるならば、四部医典の根本部6章のみ(注2)、チベット語原文の暗誦試験が現実的な落としどころだろう。それは四部医典の概略部門にあたり、メンツィカン1年生の前期の学力に相当する。文字の分量約5000文字はギュ・スム10万文字、ラダックのギュク4万文字に比べればずっと少ない。医学生ならば12分ほどで暗誦してしまうが、チベット文化圏外の日本人にとってはもちろん高いハードルである(注3)。でも30分かかっても1時間かかってもいい。古来より受け継がれてきた医学の教えを、チベットの伝統に従って受け継ごうとするその姿勢こそが試されるのである。そのとき、本場のアムチたちは、かつての自分を振り返るようなまなざしで、自分との連続性を外国人に対して、はじめて見出してくれるだろう。
根本部だけならば、チベット語をゼロから学びはじめて早ければ2年ほどで可能である。なにしろユーチューブで四部医典の音読を視聴できる時代である(注4)。最初、意味はわからなくとも音としてずっと四部医典を耳にしていてほしい。次に、ただ泥臭く声に出して読み続けて身体に沁み込ませていってほしい。するとあるとき、教えが内側から湧き上がってくる。口から自然と流れ出す、そんな感触が得られるはずだ。
お祭りのようにモモ(第280話)の屋台がでて、在日チベット人が集まって、チベットの歌を歌って踊って、でも要所は厳粛に、日本版ギュクの儀式をいつの日か日本のどこかで開催し、僕がチベット医学のバトンを渡す(チベット語でツィ・トゥ)ことができたら、そんなことをラダックの地で夢想していた。

自宅診察室のタシ
注1
National Institute of Sowa Rigpa なおSowa Rigpaソワ・リクパとはチベット語で「医学」という意味。
注2
根本部第1章 序章
第2章 発問と分類、詳細記録
第3章 身体の本質と病の基礎
第4章 認識診断
第5章 治療法
第6章 比喩により項目・分類を記した章
注3
外国人が和歌を160首暗誦するくらいの難度に比する。
注4
四部医典・根本部の音読
補足
ラダックの暗誦儀式は地方によって「ツァ・チット(脈を・導く)」「アムチ・ジュクス(アムチ・になる)」とも呼ばれていた。『ラダック―西チベットにおける病いと治療の民族誌』(山田孝子 京都大学学術出版会 2009)に詳しい解説がある。
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