チベット語辞書の世界[LHASA・TIBET]

日本は寒い!

ラサから帰ってきて一週間以上経つが、
久々の日本は、寒い!

こんなに日本は寒かったっけなぁ。
冬にラサから日本(大阪)へ戻るのは、ほとんど初めてなのだが、
改めて日本の冬は寒いなぁ、と思う。
チベットはよく「極寒の代名詞」のように扱われるが、
ほぼ毎日快晴に恵まれ、非常に乾燥しているラサは、案外暖かいのである。

しかし今年に限っていえば、
暖冬であることもあるかもしれない。

チベット人たちは「今年の冬は暖かすぎる、農作物が心配だ」と口々に言っていた。
冬がちゃんと寒い→
雪が降ってくれる→
春~夏にその雪が融けて、川に流れる→
雨不足でも大丈夫

のからくりである。
どれほどこれが当てはまるかは、地方によっても異なるであろうが、
口伝えの予報/予言をチベット人はとても気にかけるもので、
今冬のラサ滞在中、なにかといえば、人々は冬の異常気象の話題で盛り上がっていた。

でもやはり、
概して日本の冬は、ラサよりずっと寒いと思う。


(ポタラ宮殿の裏にあるルカンの池。凍っている。寒そうに見えるが、
氷点下が続いても日中は晴天に恵まれ乾燥しているので、割合暖かい。)

さて今日は、チベット語の辞書の話である。

意外に思われる方もいるかもしれないが、
チベットは文書文化が高度に発達してきた文明のひとつなのである。
大蔵経や蔵外文献などの仏教書をはじめ、公文書、歴史書、そして文学(主に伝記や詩学)など、
古代・中世から現代まで、様々なジャンルでチベット人たちはチベット語のなかに、
自らの思想・命を吹き込んできた。
チベット人はチベット語を「神聖視」している、といえばやや大げさになるが、
自分たちの言語というものに対して、書かれたものに対して、書いた人に対して、
日本人にはない一種独特の思い入れを抱いているような気がする。
(もちろんこれは、現在のかなしい政情のなせる反動でもあるのだが。)

古代以来の文書文化もさりながら、民族としての強い思い入れもあり、
結果、チベット語辞書の世界は、非常に充実したものとなっている。


(蔵漢大辞典)

さて、まず最初に紹介したいのは、この辞書。
老若男女、聖俗問わず、すべてのチベット人、
そして、チベット語を学ぶ多くの外国人たちに愛用されてきた、
蔵漢大辞典である。

編纂にかけた時間はなんと半世紀以上、堂々の「極厚」の二巻本で、
掲載用語数は五万数千文字である。
漢語とチベット語の二言語で解説されている。

そして、これは正確には辞書ではない。
エンサイクロペディア(百科事典)、なのである。
それも化け物レベル。
解説が懇切丁寧でありかつ、
チベット仏教や歴史、言語世界へのマニア向け入門書といってもいい。
三千ページのなかに、チベット文化の香りたっぷりの解説・用例が、
それこそ万華鏡の如く散らばっている。


(蔵漢大辞典の中身)

僕はチベット語学び始めたときは、この辞書に載っている、
チベット語や漢語で解説をそのまま抜書し、時には、絵なども描きいれ、
チベット人が教えてくれた、生のセンテンスなどもそのまま書き写し、
単語=文化ノートを作っていた。その数、五百枚はあろうか。

作ることが目的ではなく、作りながら覚えていたのである。

この蔵漢大辞典、
チベット語学習者には、思い入れ深い一書となること、必定である。
ちなみに紙質はそんなによくないので、マニア=狂気のほとぼりがさめるまで、
2-3冊は潰すことになろう。


(十二年ほど前に作っていた単語=文化ノート)

つぎに類義語辞典
これは普段は全く使わないのであるが、僕は一時この辞書を肌身離さず使っていた時期があった。
実は、チベット語で詩作(!)をしていたのだ。
正確にいうと、チベット大学に留学していた時、詩学専門の先生にお願いし、
有志の学生だけで詩作の授業をしてもらっていたのだ。
宿題はいつもこんな感じである。
「来週までに、7音節の4行詩を三つ作ってくるように」。

音節の数を合わせるため、詩に音韻を含ませるために、この類義語辞典は大活躍していた。
僕はいい詩(ニェンガ)を作るよりも、
いかに、恋愛ネタ、ボケネタの詩で、先生を笑かすか、に集中していた。
大阪っぽいノリなのかもしれないが、これは本能に近いのでしょうがない。

僕みたいにやや不浄な(?)動機で授業を受ける者もいたが、クラスメートのイギリス人は、
「バルコルを歩いていても、どんなに近くにいてもいつも遠い、
私は分かっているつもりでいるが、決して触れることのできない、チベット人のこころ、云々・・」
といった高尚な詩をつくり、我々も先生も、えらく感動したのを覚えている。

彼はなるほど、ケンブリッジで英文学を修めた人間で、
今は、コロンビア大学で高名なチベット学者となっている。

辞書の話にもどる。
マニアックどころでは、敬語辞典というのもある。
ラサではむかし(今も)、目上の人やラマに対して
敬語を話す・書くのを美徳とする文化があり、その需要もあって
編纂された辞書である。

チベット語を勉強する外国人のなかには、ちょっと変わった「敬語オタク」が必ずいるもので、
彼らは昔のラサ貴族のように一字一句敬語のみで、話せるようになるのを目標としていた。
僕にはさっぱり解せぬ欲望であったが、彼らのラサ語を聴いていると、
なるほど確かに綺麗で丁寧なのだが、
「そんな完璧な敬語話せるラサ人、どこにおんねん!?」とツッコミたくなる。

たとえば、「おしっこに行った」を、「御放尿遊ばされた」と表現したら、どうであろう?
そうである、敬語が完全にパロディ化してしまうのである。
ここまでくれば、ギャグ以上のなにものでもない。

だが、やはり、敬語を使いこなせたほうが、目上のラサ人に対しては、
ラマに対しては、ずっとずっといいにきまっている。
特に、仏教をラマからチベット語で直接学ぶには、敬語は絶対必須である。
ラマを家にお招きしても、敬語なしではなんともスムーズにいかないものであるし、
だいいち、自分たちの帰依の気持ち、信心を、友人に話すようラマに表明するなど、
全くもってありえない。
こころだけではなく、カタチも大事なのは、どこも同じである。

「ションベンする?」(チンバ、タンゲー?)は、せめて
「お手洗いに行かれますか?」(チャプサンナンガ、ペゲー?)と、
すらっと言えるようでなければならない。

おっと、辞書の話である。

このペチャ(経典)を見てみよう。


(太字で書かれたのが「ペーツック」、細字が草書。)

このペチャ、実は僕が去年読んでいたものであるが、
普段よく見るチベット語がカクカクしたものであるのに対して、
これはクネクネしている。
実は、カクカクのチベット文字は、印刷などで使われる、いわゆる楷書であるのに対し、
写真のものは、写本などの手書きで使われる字体のひとつで、「ペーツック」という。
非常におおざっぱにいうと、漢字でいうところの行書体に近いかもしれない。

このペーツックであるが、割合読みやすい字体ではあるのだが、
この字体には短縮形というものが多数存在し、
僕のような非文献学者には、これがまた解読に時間がかかるのである。
そこで活躍するのが、短縮語(隠語)辞典!である。
一番はやいのは、チベット語に強いラマに聞くことだが、
そばにいないときはこの辞書が偉大なラマとなり、「大恩に感謝いたします」の五体投地の対象となる。


(短縮語(隠語)辞典)

ついでにいうと、こういうペチャには冒頭や結びなどに
サンスクリット語の発音をチベット語表記で表わした文字があったりする。
これは、陀羅尼(だらに)という一種の呪文や祈祷であり、これがまた難解なのである。

そういう神秘文字に特化したのが、サンスクリット語=チベット語辞書だ。
ここまでくると、さすがにマニアの域を脱してしまっているが、
興味のある方はラサの書店で簡単に手に入るので、買って帰って自分の書棚に並べても
楽しいかもしれない。


(サンスクリット語=チベット語対照辞典)

さらにいうと、このようなリアル・ペチャを読んでいくには、
行書のほか、個人の癖があって非常に読みにくい草書(キューイック)を判読することもある。
さらに、筆写版ということは、誰かが直筆で書いたとうことである。
つまり、当然、スペルミスもある。
それもどういうわけか、結構ある。
(僕のあたる文献がたまたまそうなのか!?)

それらは大概、筆写者自身がスペルが分からず(もしくは、誤って)、
発音のみをテキトー(?)に綴ったものである。
それらを一字一句吟味し、正確なスペルを類推する作業をする。

そのときには流石に、こちらも必殺技を使わせてもらう。
同音もしくは同音に近いものを検索摘出する特殊なチベット語辞書ソフトが
チベット研究者の間に出回っており、それに頼るのだ。
スペルがほぼ特定できたところで、やっとセンテンス全体を俯瞰できるようになるが、
抽象的かつマニアックなことが書かれている場合、意味がまったく分からないことも少なくない。

そうやって四苦八苦しながら、
様々な用途に特化したチベット語の辞書を多数同時に開きながら、解読していくのである。
ふうぅー。

古代チベット語文献の場合は、文字が刻まれた木版や石碑自体が傷んでいることも多く、
文字の文様からの判読となろう。
このようにチベット語文献研究とは、
なんとも骨の折れるようなヒエログリフ的連続離れ業を、やっているといってよい。
(文献学者じゃなくて、よかった・・・笑。)
それでもその苦しいプロセスは、自分のチベット世界が広がっていくプロセスでもあるので、
一種の享楽(jouissance)なのかもしれない・・。

上にあげた辞書のほかにも、
蔵漢辞典とはまた趣向の違った、チベット語大百科事典(ドゥンカル大辞典)、
仏教用語辞典、古語辞典などもあり、チベット語の辞書の種類は挙げればきりがない。


(左から、ドゥンカル大辞典、蔵漢大辞典二冊、そして大きさの比較のため岩波の単行本)

チベット語で辞書のことを「ツィクヅォー」という。
これは「言葉の蔵(くら)」という意味である。
蔵好きな、宝探し的な野心をもっている人は、
一生涯、チベット語辞書という言葉の蔵の群れのなかで、楽しめることだろう。
僕の歴史研究者の優秀な後輩のなかには、市販されているチベット語辞書では飽き足らず、
とうとう、自分の専門領域の自分用の辞書を自分で作ってしまった者がいる。
新しい文献を読破するたびに、その辞書はアップデートされていく。
彼は宝を探すだけでは飽き足らず、自分で自分の宝蔵を掘り出しているといってよい。

また、文献学のことを英語でphilologyというが、
philoは「愛する」、logyは「言葉」、
つまりphilologyとは「言葉を愛する」という意味となる。
言葉を学ぶのが好きな者、言葉というものを愛している者にとって、
チベット学は理想的な<遊び場>になると思う。
本当にそう思う。

そういうチベット語辞書の世界なのである。

Daisuke Murakami


(いつのころからか、ポタラ宮殿の裏側もライトアップされるようになった。)

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