乾いているのは砂漠も人間も同じ、という考え方

ホームステイ先で一番遊んだこの女の子は、私にとって1番のモンゴル語の先生でした

 みなさん、サインバイノー?

先日、懐かしい友人から電話が掛かってきた。若いときにモンゴルでお世話になったモンゴル人の友人からです。
友人:「元気か?」
私:「こっちは元気だよ、そっちは娘さんともに元気かい?」
友人「元気だ、もうモンゴルは寒いよ(以下略)」という取り留めのない会話でしたが、その昔旅をしたときのことを思い出し、心が温かくなりました。

 私が初めてモンゴルを訪れた時の話です。
もう10年ほど前になりますでしょうか。初めての海外旅行でモンゴル、いわゆるバックパッカーでしたので、行く当てもないままチケットを汗ばむ手で握り締め「まあ、何とかなる」と自分自身に言い聞かせ、モンゴルの大地を初めて踏みました。目的は「騎馬民族の遊牧民の世界で自分がどれだけできるか、試してみたい」。今では自分でも照れくさくなるような若さ故の情熱からくる行動でした。

頼る人がまったくいない異国の地で、良い出会いに恵まれ、遊牧民の家庭に2ヶ月ほどホームステイをしていました。家族の手伝いをしながら、乗馬をしつつ、夜な夜なモンゴル語を少しずつ覚えていく毎日。「俺は今モンゴルにいて、今日は何をして・・」と自分自身を確認していないと、何だか自分がどこにいて何をしているのかわからなくなってしまいそうな不思議な感情にとらわれてしまう事も、幾度となくありました。と同時に、長年想いを馳せた地に、今こうして自分の足で立っているという高揚感に胸を高鳴らせていたのを覚えています。

草原の先には美しいホンゴル砂丘

「騎馬民族の遊牧民の世界で自分がどれだけできるか、試してみたい」という思いは、ホームステイをはじめてから見事に打ち砕かれ、大自然の中で生きていく上でいかに自分が小さいかということを、思い知らされることとなりました。と同時に自分が取るに足らない小さい存在だと気づかされた事によって、いかに周りの家族や仲間と知恵を出し合って寄り添いながら生きていくことが大切かということも学べました。若かった私にとっては、これを同時に学べたというのが、この放浪旅の一番の収穫だったのかもしれません。

ホームステイを終え、憧れであったゴビの地を訪れた際に出会い、友人になったモンゴル人と、モンゴルで最も大きく最も美しいといわれるホンゴル砂丘に、良く晴れた真夏の日に行ったときの話です。砂丘の中でも登ったら一番見晴らしがよさそうな大きな砂丘のてっぺんを目指し、足を取られながら、息を切らしながら1時間ほどかけて何とか登りきりました。お互いに水をペットボトル1本ずつ持って行ったのですが、暑さと疲労で頂上に着いたときには、ほとんどの水を飲みきってしまいました。それでも私のペットボトルには少しだけ水が残っていたので友人に手渡し飲むように促すと、モンゴル人の友人はせっかくの水を飲まずに全て乾いた砂丘に流してしまいました。あっけにとられる私に友人は「私たちはもう十分飲んだ。それよりこの砂丘の方が水が必要だ」と照れくさそうにいいました。

ゴビへの移動は大量の荷物と大量の人を積み込んだ、足の踏み場もない1台の車でした

人間をこの世界に生きる一部と考え、また自然も人間と同じようにこの世界に生きる一部、と考えるこの思考に私はいい意味でショックを受け、以来ずっとこのことが頭から離れない出来事となりました。

そのときの友人からの久しぶりの電話に、私は「あのときのことを覚えているか?」と聞くと、「覚えてないが、たぶん俺はそうしたと思う」と言いました。
モンゴルを訪れたときには、またこの友人と会い、この話をしたいと思っています。

シェアする