忘れ去られた文化の痕跡を、熱心に追い求めた探検家たち=
20世紀初頭に、西域(現在の新疆ウイグル自治区)が俄然注目を集めました。背景には、イギリスとロシアが政略的に対立したグレートゲームがありました。各国は、表向きには、西域の探検や調査に協力し合おうと申し合わせましたが、実際の探検は、それぞれの国の威光を背負って、激しく競い合っていました。
ドイツ、イギリス、フランス、日本、ロシア、スウェーデンなどの国の探検隊が、それぞれどんな意図をもって、探検に乗り出していったのか、興味が尽きません。文化的には空白と思われていた地域から、次々と文化の痕跡が見いだされ、さらに敦煌莫高窟の石窟から古い文書等が発見されるに及んで、欧州や日本の学界は沸き立ちました。本講座では、そういう文化の再発見に携わった各国の探検家たちの熱意の痕を丹念に追いかけてみたいと思います。
《配信形式》ZOOM 見逃し配信も予定しています
《参加費》3,300円/回 全5回一括申込の場合:15,000円
《見逃し配信公開期間》全回共通:2026年3月12日(木)迄
《各講座の内容》
第1回 日本・大谷探検隊と、西域コレクションのゆくえ
欧州各国が派遣した西域探検隊は、各国政府の支援を受けていましたが、大谷探検隊は国の支援を受けず、西本願寺の門主である大谷光瑞師が私的に行った西域探検でした。日本仏教の淵源である中国、西域、インド、西蔵などを対象とした広汎な調査でした。したがって西域探検だけに注目するのは、大谷探検隊の全体像を正当に評価したことにはなりません。
大谷探検隊に関して残念なのは、収集した西域コレクションが分散してしまったことです。大谷探検隊の西域資料は、日本の各所以外に、北京、旅順、ソウルに存在します。何故、そういう状況になってしまったのでしょうか。その分散の過程を追跡してみましょう。
第2回 ドイツ・トルファン探検隊の足跡 ー戦火に消えた宝物
1902年、欧州各国は、中央アジアの歴史、考古、言語学、民俗学に関して、互いに協力して調査や研究をしようと申し合わせました。その後、先陣を切って探検隊を派遣したのはドイツでした。ただし、探検の実態は必ずしも国際協力体制に基づいたものではありませんでした。ドイツが最も力を注いだのはトルファン地区とクチャ地区でした。石窟壁画を大量に切り取り、ベルリンに持ち帰りました。
そのコレクションは、ベルリンの民俗学博物館に収蔵、展示されていました。これらが、第2次大戦の折に大きな被害を受けてしまいました。收藏品の多くは、空襲を避けて疎開しましたが、大画面の壁画の多くが博物館の壁に固定されていたために、疎開できず、空襲によって破壊されてしまったのです。欧州の他のコレクションが戦災を免れたにもかかわらず、ドイツのコレクションの半数近くが戦災で失われたのは残念でなりません。
第3回 イギリス隊スタイン、泥棒という汚名を一身に着た、誠実な考古学者
スタインほど、西域探検に一生を捧げた人はいなかったのではないでしょうか。中国領の西域調査を3回行いました。4回目も挑戦しましたが、中国から共同研究でなければ許可できないと言われ、自ら拒絶しました。その後は、インドやイランの調査を積極的に行いました。最後は、アフガニスタンの調査ができると聞いて向ったカブールで病を得て亡くなりました。彼の墓は、カブールの郊外にあります。
スタインは西域南道を中心に調査しましたが、第2回探検の1907年に敦煌莫高窟で古文書類を入手しました。西洋で最初に敦煌文書を入手した探検家です。そのため、中国では、スタインは盗人扱いされています。濡れ衣としか言い様のない罪も着せられています。かわいそうなほどです。スタインは勢力的に調査を行い、その正式報告書や紀行文などをきちんと刊行しました。その丹念な活躍ぶりを丁寧に追ってみましょう。
第4回 フランス隊ペリオ ー義和団事件の英雄、探検家、コレージュ・ド・フランス教授
ペリオは、スタインに遅れること1年で、敦煌莫高窟を訪れました。蔵経洞の管理人である王円籙を説き伏せ、蔵経洞の中に入って、すべての文書類に眼を通したと言われています。彼の収集した文書類は高く評価されています。目利きでもあったのですね。
中国の学者たちに、敦煌文書の重要性を気づかせたのもペリオでした。彼は、1900年の義和団事件の折に、王族や高官、学者たちと共に故宮に籠もりました。この時の彼の活躍に対して、後にフランス政府から勲章を授かっています。また、この時に、高官や学者たちと懇意となった可能性があります。そういう親密な関係の中から、学問の輪が広がったのかもしれません。彼の探検は一回きりです。その後は、コレージュ・ド・フランスの教授となって、研究と教育に邁進しました。
第5回 ロシア隊とエルミタージュ美術館の西域コレクション
ロシアの中央アジア調査というと、セミューノフやプルジェワルスキー、コズロフによる自然科学的な調査が有名ですが、歴史的、文化史的な成果をあげた探検としては、コズロフによるカラ・ホトやノイン・ウラの発掘調査、そしてオルデンブルグの東トルキスタン調査を忘れることはできません。
オルデンブルグは、ロシアにおけるインド学、仏教学の樹立者の一人でした。彼は、他国の探検隊による考古学的調査の大きな成果を見るにつけ、ロシアも新疆の考古学的な調査を行うべきだと考えるようになりました。1909~10年、1914~15年に東トルキスタン調査隊を組織し、自ら率いました。1914年5月~6月には敦煌莫高窟を訪れ、石窟の調査を行い、文書類を手に入れています、現在、文書はサンクトペテルブのロシア科学アカデミー東洋写本研究所に、美術品や考古遺品はエルミタージュ美術館に保管されています。
シルクロード仏教美術史研究家
中野 照男 (なかの てるお)
現在、東京文化財研究所名誉研究員。1950年福岡県に生まれる。1973年九州大学文学部卒業。1978年九州大学大学院文学研究科博士課程を中退し、東京国立博物館研究員となり、普及室長、建築室長などを勤める。1992年に東京国立文化財研究所美術部第一研究室長に転じ、美術部長、副所長などを経て、2011年退職。2014年~2019年成城大学文藝学部第二世紀特任教授。
専門分野は、東洋美術史、中央アジアの仏教美術史、文化財保護、博物館学。主な著書は、『中国石窟 クムトラ石窟』共著、1985年、平凡社、『仏画の見かた 描かれた仏たち』2001年、吉川弘文館など。
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