知人を偲ぶ

*風のメルマガ「つむじかぜ」557号より転載


私が足立区の小学校の事務職員として働き出したのは、かれこれ30年以上前になる。事務職員として働いたのは、わずか6年間だけだったが、不思議とあれこれのことを鮮明に思い出す。どちらかというと苦い思い出が多い。若かったという一言で片付けてしまっては身も蓋もないが、とても気持ちが揺れ動き、必死にもがいていたように思う。

この7月に、当時の知人のYさんが癌で亡くなられ、先週の土曜日に偲ぶ会があった。久々に懐かしい顔にお会いした。都の学校事務職員の労働組合の方々だが、もう殆どが職を辞して年金生活に入っておられた。

Yさんは、当時は書記長をされていて、私は機関紙部長だったので、随分一緒に行動し、その度に酒を飲んだ。当時の酒は、飲むと議論になる。個性派の方々が多かった組合員の中で、Yさんは、珍しく全体が俯瞰できる方で、私の言い分も怒らずに聴いてくれた。

しかし、Yさんとの思い出は、組合活動の話より、登山、スキー、テニスなどのスポーツに関するものが多く、偲ぶ会に参加された方々も、異口同音にそうした思い出を語っていた。

私も、Yさんにスキーを教わった。丸山石内スキー場の一番上まで行き、さあこうして滑るんだ、と私を置いて降りて行ってしまったことをよく覚えている。私はボーゲンもできないまったくの初心者。別に恨みはしないが、夕方には、倒れても起き上がる力もなくなるほど疲労困憊してしまった。

その後も何回もスキーに連れて行ってもらった。直滑降はこうするんだ、と相変わらず先に滑っていってしまうことが多かったが、今では楽しい思い出である。仕事や組合のことは、当時は熱くなって語ったが、今となっては殆ど忘れてしまった。

Yさんは、癌で亡くなったが、7年ほど前から白血病で骨髄移植をして難病を乗り切ったのに、その後、食道癌が発症したのだそうだ。運がなかった。偲ぶ会でみた晩年のYさんは、随分痩せてしまっていたが、とてもいい笑顔をされていた。ふと、“自分は、こんな風になれるだろうか”と自分の顔をさわってみた。当分は無理そうだ。

私は、仕事のことしか話題がないような無趣味な人間である。それに、まだまだ心に余裕がなく未だにもがいている。それじゃあいけないと判ってはいるのだが、どうにもならない。“元気に働けるうちは働け。”商売をしていて定年がない私の生家の家訓のようなものが染み付いているのかもしれない。

Yさんのご冥福を心より祈ります。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

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