特別記事

左頬へのおまじない モンゴルの「ふるさと」で過ごした夏

 

文・写真●宮内 愛(大阪支店)

お母さんを中心にオトゴー家大集合"
お母さんを中心にオトゴー家大集合

モンゴルの夏休みが始まる

地図

9月から新学年が始まるモンゴルの学校は、6月中旬から約2ヶ月半の夏休みを迎えた。今回の休みはルームメイト兼モンゴル語の先生でもあるオトゴーの実家、ウランバートルから750km離れたフブスグル県エルデネボルガン村で7月から1ヶ月半過ごすことにした。今までも何度か行った事はあるけれど、ほんの数日の短い滞在だけだったので今回はじっくり田舎の生活を体験する予定だ。70歳近いオトゴーのお母さんに社会主義時代の話も聞けたらなと思っている。
思い起こせば2000年10月にモンゴルに来てから1年8ヶ月が過ぎていた。留学初日、降り立ったウランバートルはすでに肌寒く、日本から持っていった冬用のジャンパーを着て空港の外に出た。出迎えてくれたホストファミリーのお母さんは、私を見るなり笑顔が驚きと呆れた顔に変わり、「あなたそれは夏の終わりの格好よ、体が冷えてすぐに風邪引いちゃうわ。明日は授業が終わったらさっそく冬用のジャンパーを買いに行かないと」と嘆いた。大学の4年間を北海道で過ごした経験がある私は、呆れ顔を見てもまだ、寒さには強いからこのまま何とかなるだろうと思っていた。しかし年が明けて2月になると、持っていった温度計は目盛を振り切り零下40℃まで下がった。寒いと表現するより痛いと言う方が正しく、想像以上のモンゴルの寒さに私は降参するしかなかった。日本から持っていった冬用衣類はほとんど使い物にならず、ジャンパーどころかマフラーから靴まで買い直して、全身モンゴル厳冬仕様にしてやっと街を歩くことができた。
寒さの次は毎日のモンゴル語の授業でつまずいた。こちらに来るまでモンゴル語は「こんにちは」と「大丈夫」しか知らなかったので、モンゴル語の授業をモンゴル語で受けても初めの頃は授業にならなかった。先生とのコミュニケーションは身振り手振りの状態。ある程度話せるようになるまでは、宿題を出されたことすら分からず翌日授業で一人だけ恥をかいたりした。これでは駄目だ。授業で先生の話す知らない言葉を片っ端からノートに書き取った。一日の授業が終わると30個以上も新単語が出てきて、ホームステイ先に帰ってきたらひたすら復習。一日でも復習をサボると翌日は覚える単語の数が倍になってしまうので遊ぶことも忘れ、生まれて初めて真面目に机に向かった。ホームステイ先を出て一人暮らしを始めた頃、学校のオトゴー先生と仲良くなり、ルームシェアして住むようになった。あれから2度目の夏が来て、モンゴル語も上手になった気がする。
オトゴーは10人兄弟で、遊牧をしているのはお母さんとお兄さん家族。今は村の中心から20kmほど離れた夏営地にいるらしい。村までは公共交通機関はもとより定期便のバスなどもないので、まずは車探しから始まった。村にあるいくつかの商店の車が、買出しのために不定期にウランバートルに来た時に、帰りに便乗させてもらう方法しかない。村にいるオトゴーのお姉さんに電話を掛けて車を探してもらい、連絡を待つことにした。夏休みに入って何日か経った日に連絡が入り、やっと出発できることになった。大量の買出し品と共に車に乗り込んで走ること22時間。草原の凸凹道を夜通し揺られた末、懐かしい家の前で車が止まった。

搾乳は牛の神経衰弱

モンゴルの朝は搾乳から始まる
モンゴルの朝は搾乳から始まる

田舎に着いた翌日から朝6時に早起きをして、牛の搾乳を手伝った。搾乳は女性と子供の仕事だ。まがりなりにも日本の大学で酪農について学んでいたので、モンゴルの遊牧にはとても興味があった。夏とはいえ朝はとても冷え込むので上着と長靴、バケツを持ってすぐ裏の搾乳場所に出かけた。牛の群れは、搾乳する時に使う円形の柵の周りにすでに到着していて、反芻をしながらたたずんでいた。搾乳して欲しい! と自ら集まったのだだろうか? 実は牛たちを呼び集めるための遊牧の知恵がここで一つ使われている。モンゴルの牛たちは、夏は朝夕の搾乳時間だけ柵に入り、その他は自由で一日中のんびり好きなだけ草をはんでいる。あの広大な草原で、美味しい草を求めて動き回る牛たちを朝夕柵の近くに呼び寄せる為に、まず子牛を柵の中に前の晩から入れておく。するとお腹を空かせた子牛は母牛を呼び、乳を与えたい母牛とその群れは朝夕柵の近くに自然と集まってくるカラクリになっている。

普段はやんちゃでも、牛を見分けるのは一人前
普段はやんちゃでも、
牛を見分けるのは一人前

集まってきた母牛を子牛が入っている隣の柵に入れる役目は10歳になるゾラーと私。柵に入れ終わるといよいよ搾乳が始まった。「このモハル(角無し)母牛の子を出して!」お母さんから声が掛かる。私は子牛側の柵の中に入り、言われた子牛を出していく。モンゴルでは家畜の体の色や特徴、ひいては年齢によって呼び名が細かく決まっている。母牛と子牛を見分けてぴったり合わせる上級者向けの神経衰弱が始まった。残念なことに母牛と子牛は牛であること以外に共通性はなく、体の色や柄は全く違う。真っ黒な体の牛がまだら模様の子牛の母親だったりする。リクエストがあった「モハル(角無し)」の子がどれだか、実は私にはさっぱりわからない。みんなは毎回教えてくれるのだが、写真にして張り出さない限り覚えることは出来そうに無かった。あーでもないこーでもないと柵の中で途方に暮れていたら、ゾラーが柵の外からてきぱきと私に「一番奥にいる顔が真っ白のやつよ!」と指示を出してくれた。5歳くらいになると自分の家の牛たちを見分けることが出来るようになるそうだ。1ヶ月間子牛出しに付き合ったのに神経衰弱はいつも1組か2組しか当てられなかった。
さて、お腹が空いている子牛は柵から放たれると一目散に母牛の元に駆け寄り、すごい勢いで乳を飲もうとする。子牛が乳頭に吸い付きながら頭で乳房を突き上げると、母牛は刺激を受けて乳房が張ってくるようだ。乳房が充分に張ったことを確認すると、食事中の子牛をいったん母牛から引き離し柵に紐でしばる。バケツを持ったお母さんが登場し、子牛用に少し乳を残して1頭目の搾乳が終了した。紐を解かれて自由になった子牛は一目散に母牛の元に走り寄って乳を飲み始めた。

羊を虎刈り

慎重かつ抱いたにハサミを動かし、毛を刈っていく
慎重かつ抱いたにハサミを動かし、
毛を刈っていく

雲ひとつない7月のある日、この日は人手も多いので羊の毛刈りをすることになった。羊の毛刈りは、オーストラリアなどでは電気バリカンでバリバリッとものの5分くらいで行うけれど、こちらでは電気がないのでハサミを使う。ハサミでは一頭当たりの毛刈りにも時間が掛かるので、人手も多い方が短時間で済むのだ。羊を炎天下の中、柵に長時間閉じ込めるのは良くないので、作業は午前10時頃から午後3時頃、もしくは午後1時から午後6時頃までに行い、一人15頭〜20頭くらいの数をこなす。
朝ごはんが終わった頃から女の人たちは毛刈り用のハサミを出してきて準備を始めた。毛刈り用の道具は、持ち手部分にクッションになるよう布が巻き付けられているハサミを使う。切れ味を確認して、切れにくくなっているものは茶碗の底の出っ張りを砥石代わりにして研いでおく。男の人たちは柵の中に羊を入れ、今日毛を刈る羊とそうでないのを分けていく。毛刈りにはこの見分けがとても大切だ。7月のナーダム祭りが終わった頃から羊の毛は抜け初め、新しい毛が生えてくる。毛は抜けても、もじゃもじゃな毛同士が絡み合っているせいでまだ体から落ちない。新しい毛が地肌から生えてくると、抜けた毛の方は肌から離れて体から少し浮く。体から落ちずにしがみついた状態だ。羊もちょっと重いのか痒いのか、体を木や柵にしきりにこすりつける。家の前の柵には白い羊毛があちこち引っかかって風にそよいでクリスマスツリーを思わせる。
ハサミの準備が出来たらいよいよ毛刈り開始。一人一頭ずつ羊を捕まえると、足の3本をまず布ヒモでくくって地面に転がす。お腹の部分から毛を刈り始め、厚い毛布と一回り小さくなった羊に分けられていく。私も羊の体を足で挟んで固定し、左手で毛を少し持って浮いた部分を確認しながらハサミを入れていく。羊の毛についている油分や汚れでハサミは思ったよりも上手く進まない。お尻を刈っている時に羊の肌を少し切ってしまい血が滲んだ。流血! このままだとハエがやってきて傷口に卵を産みつけてしまう! 薬が手元にないときの応急処置は新しい羊の糞。この場合自分のでもそうでなくても良いらしい。指でつぶして、傷口に塗り込んだら治療終了。慎重に刈ったにもかかわらず、結局傷を3本つけてしまい、川の字に糞を塗り込まれたかわいそうな羊となった。これ以上被害羊を出さないためか、毛刈り担当からはすぐに外された。

死神姿で草刈り

モンゴルの朝は搾乳から始まる
シメーセグを担いだハシャー
体が締まってきている
7月の羊の毛刈りが終わってホッとしていると8月にはいり、次の大仕事がやってきた。親戚中から男手が集められ、冬に向けての乾草作りが始まる。これから2週間、冬営地付近一帯の草を刈り取り、乾かして乾草を大量につくる。この乾草の出来上がり具合と量で家畜達がこの冬を越せるかどうかが決まる大切な作業である。私もオマケで見学がてら連れて行って貰えることになった。テントや草刈の道具を出してきて、冬営地に向かった。今いる夏営地周辺は家畜に食べられて草の丈が短いのに比べ、冬営地周辺は夏に家畜が入らないようにしているので腰あたりまで草が伸び、青い海が広がっていた。早速テントを張って、草刈りの準備を始めた。草刈りには専用のシメーセグと呼ばれる鎌が登場する。長い柄の先に巨大な弓なりの刃がついていて、見た目はまさに死神が持つ鎌そのもの。シメーセグ隊は横一列並び、前後との間隔を2mほどあけて4人が並んだ。各自シメーセグを持って刈り取り作業が始まった。体の軸を使い遠心力を上手く利用して、腕に力を入れながら体を右から左に回転させると目の前左右1mくらいの幅の草を刈ることが出来る。シメーセグを一往復させると半歩前進し、また刈り取る。
シメーセグをリズム良く動かして草を刈っていく
シメーセグをリズム良く動かして
草を刈っていく

シメーセグはそうすぐには使いこなせず、私の場所だけ草が途中から折れて寝てしまい、刈り取ることができない。同じ所でシメーセグを何往復もさせていると、すぐ斜め後ろから「シュッ、シュッ」という切れ味の良い音が聞こえてきた。もたもたしていると、その音は足元にどんどんせまって来て死神に追われているようだった。
刈り取った草は集めて高さと幅が2mになるまで積み上げ、ボハルと呼ばれる小山を作る。食事と少しの休憩以外は、2週間ずっと刈り取りと積み上げの作業が続き、ボハルを1,000個作るという。私はシメーセグを使いこなせなかった上にすぐに筋肉痛で腕が上らなくなり、結局2泊3日で逃げ帰った。草刈を終えて戻ってきたオトゴーの親戚の子ハシャーは、あまりの重労働で真ん丸だった体が逆三角の筋肉質の体に変身していた。ボハルも目標の1,000個を大きく上回って1,300個作ることが出来た。このままボハルは自然乾燥させ、9月に一つにまとめて積み上げたら、翌年の春までの大切な家畜の食料ができあがる。

蛇に咬まれて・・・

ボハルを作っている最中こんなことがあった。茂みに潜んでいた蛇に気が付かずに、サイナーおじさんが手を咬まれた。手はみるみるうちに腕の付け根までパンパンに腫れ上がった。すぐに血清を打つか、処置をしないと命に関わる危険さえある。応急処置で傷口から毒を吸い出し、村の医者に翌日見せに行った。村の医者にみせると、腕にヨーグルトか馬乳酒を塗って、湿布代わりの草を貼り付けるようにという診断。結局入院せずに腕が腫れたままおじさんは帰ってきた。咬まれた部位によっては、一大事になっていたかもしれない。

大好きな弟妹たち 左上が私、その下がオトゴー
大好きな弟妹たち
左上が私、その下がオトゴー
今回の蛇事故でモンゴルでは医者に見せる以外にも、古くからのおまじないがあることを聞いた。なんでも、蛇にかまれたら咬んだ蛇は喉が乾くので、後をつけてその泉に蛇より先に腕を浸したら毒が引くという。おじさんの腕を見て、みんな口を揃えて同じことを真剣に言っていた。モンゴルではこのような色々な病気に対しての治療や予防法を「ドム」という。他にも乳児を馬に乗せて遠出をする際には、小瓶に水を入れて乳児のお腹にくくっておく。小瓶の水が替わりに振動を吸収するため、酔わないと言われている。モンゴルでは現在でも都市部以外では緊急時の医療体制が整っていない部分が多い。これから徐々に整っていくことを切に願わずにはいられないが、ドムのような治療法もモンゴルの人々の支えになっていることを強く感じた出来事だった。


牛乳からお酒づくり

遠心分離に掛けると、ツツギー(奥)とシンゲンスー(手前)に分かれる
遠心分離に掛けると、
ツツギー(奥)と
シンゲンスー(手前)に分かれる

一回の搾乳で25頭から40リットルほどの牛乳が取れる。搾乳が終わると乳製品へ加工していく。人肌に暖めた昨夕の分とあわせて80リットルの牛乳を、マシンと呼ばれる手回しの遠心分離機にかける。遠心分離機は牛乳タンクとその下の本体部分とに分かれている。ガーゼで漉してゴミを取り除いたタンクの牛乳を機械本体に流し込んでいく。同時に機械脇に付いている取っ手を回すと中の機械がどんどん高速で回り、遠心分離が行われる。機械を通った牛乳は、乳脂肪の高い生クリーム状のツツギーと低い脱脂乳のシンゲンスーに分けられて、それぞれ出口からでてくる。ツツギーはパンにぬって食べるとたまらなく美味しい。また、攪拌させるとバターができ、揚げ物など食用の他にも、バター灯明としても利用される。シンゲンスーは乳製品作り専用の小屋にある大きな桶に集めて攪拌し、発酵させ、ここからまた様々な乳製品が作られる。
今日は私より5歳若いトムゾラーが発酵乳を蒸留し、シミンアルヒを作るという。シミンアルヒはナーダム祭やお客様の歓迎の時にも登場するアルコール度数15%ほどの蒸留酒だ。蒸留にまず必要なのが冷たい水。杜氏と化したトムゾラーは私と小さい子達に10リットル缶をいくつか手渡して、「水くみ2往復お願いね」と注文を出した。水くみは毎日のお手伝いでもあり、遊びでもある。川岸から200mの距離を運ぶのに缶の水を掛け合ったり、真っ白な小石を見つけたりと15分ほど掛かってやっと運び終えた。小屋の中では発酵乳の入った大きな鍋が火に掛けられて、シミンアルヒ作りが始まっていた。沸騰してきた鍋の上にはお酒を受けるコップをつるした木の筒を置き、そしてフタをするようにもう一つ鍋を上に置いて蒸留装置が出来上がった。発酵乳は沸騰してアルコール成分が水蒸気となり、筒の中に充満し、水の入った鍋肌で冷えて水滴になった出来立てほやほやのシミンアルヒがコップにたまっていく。アルヒ作りが終わって、鍋に残った発酵乳はさらしで作った袋に流し込んで濾し、重石を乗せて固めていく。袋から染み出た液体は乳清である。モンゴル語ではシャルスーといって、ヤギや羊が喜んで飲むし、髪をパックしても良い。

アーロールを天日干し たまにリスが盗みに来る
アーロールを天日干し
たまにリスが盗みに来る

袋の中身は水分が抜けて硬くなる。これを包丁で薄く切り出して板に乗せ天日に干すとアーロールが完成する。朝搾った牛乳は、日が暮れる頃までに4種類の乳製品とお酒に変わった。朝食のパンに塗るツツギー、仏壇に置かれた灯明、お客様に出したシミンアルヒ、ヤギが群がって飲んでいたシャルスー、保存食のアーロール。毎日乳製品を作り、乳製品に囲まれて生活していたことに気が付いた。家畜たちもさぞ誇らしいだろう。
あんなに毎日忙しく楽しかった夏休みも8月後半になるとひと段落し、子供たちは学校に行くために草原から村に戻る頃になり、帰る準備を始めた。私たちも9月からの授業に間に合うように車を見つけてウランバートルに戻ることになった。オトゴーのお母さんが出迎えてくれたときと同じように車の前まで来てくれた。私の右頬にキスをして、「また必ず来るのよ。次に来たら左頬にキスするわね」と言った。再会を祈るモンゴルのおまじないが2002年から7年経った今でも解けないでいるから、また今年もついつい足がモンゴルに向いてしまうのだろう。

風通信」37号(2009年6月発行)より転載