20年ほど昔の正月、奈良の五条市に友人を訪ねた帰りに当麻寺を拝観し夕暮れ時に竹内峠を越え、泉州の堺市に下った。細く狭かった道の記憶がある。
さて、この5月末の古事記のツアーで河内王朝と竹内街道を訪ねてきた。まず、「日本のシュリーマン」と称えられた“山根徳太郎”が発掘した難波宮跡に建つ大阪歴史博物館から始まった。この建物の最上階の10階が最も古い難波宮時代の展示物がおかれている。通常の博物館はせいぜい3階建てほどの建物が多いのだが、難波宮遺跡に建築されたせいなのか縦長である。エレベーターで10階に上がり展示物を見終わり窓の外を眺めると、法円坂遺跡(難波宮)と大阪城の石垣が見える。そしてその向こうに生駒山地が見え、大阪の野は関東に比べて山が近い。その後、生國魂神社と住吉大社を訪ね、堺市のホテルに向かった。
翌日は、まず堺市市役所の21階の展望ロビーに上がった。事前に風の旅行社を身内同様にしていただいている堺市在住の医師T先生に情報を伺ったところ「う~ん、森みたいにしか見えないですよ」と聞いていたのだが、せいぜい200mほどの規模の関東の古墳しか見ていないものにとっては、ひどく大きな森のように見えた。いつのころからか手つかずになっている百舌鳥古墳群の野生の森をすべて俯瞰でき、遠くには二上山をはじめ葛城、金剛の山々も見える。
大阪の歴博といいこの展望ロビーといい、見る人を楽しませる“まなざし”によって設計されているように感じる。多くの博物館などは「見せてやっている」という見せる側の“まなざし”で構成されているような気がするのは僕だけであろうか。この日は多くの古墳を見学したが、驚いたのは誉田御廟山古墳(応神天皇陵)であった。築造に際して使った土の量は大山古墳(仁徳陵)を抜いて最大とのこと、大型ダンプカーで17万台以上にあたるそうだ。拝所から見ると山のようである。折からの強い北風に吹かれて森の木々の葉が揺れ、山が動いているような錯覚を覚えた。河内王朝の規模を驚きとともに感じた一日であった。
さて、最終日はまず大阪府立近つ飛鳥博物館を訪ねた。その後竹内街道歴史資料館に向かうも、旧街道の道が狭く私たちの車では通ることができず、近くのみちの駅から歩き見学した。そして竹内峠を越え、中将姫伝説で知られる当麻寺に向かった。むかし通った時とは異なり、広い幅の新しい道に様変わりしていた。当麻寺は日曜なのに拝観者も少なく、国宝や重要文化財の仏像をじっくりと拝観できたのが幸いであった。
往復した日本最古の官道竹内街道は、古代のシルクロードともいうべきみちであった。飛鳥と難波を結び、一説ではみち幅30mを超える街道であったといわれている。しかしとぎれとぎれに現存する旧街道のみちは、ひどく狭い。
さて大和国北葛城郡竹内という字が竹内峠の大和側の山麓にあり、ここには司馬遼太郎さんの母親の実家があった。子供のころには休みのたびに遊びに行ったという。20年ほど前の竹内峠行は、ここを訪ねたかったのだが道幅が狭く 車を止めることもできず、通過しただけであった。