子どものころ、祖父や父、叔父たちが「やげんぼりをおくれ」と言っていたのを思いだす。七味唐辛子のことである。薬研堀は地名で東日本橋にあった運河のことで、医者や薬問屋の集まる地域であった。この地で「やげん堀七味唐辛子本舗」が創業されたという。
今月の6日に風カルチャークラブの師走の名物講座「七味唐辛子作り」が開催された。講師の一人西紗耶香さん(もう一人はあのアムチ小川さん)がこの講座にかかわったのはもう10年も前で、まだ20代の若者であった。この頃、小川さんから次のようなリクエストがあった。「首都圏在住の方々を対象にした“里山”での“薬草作り”の講座はできないか」、「遠足気分で出かけられて、自然が豊かでそこに暮らしている古老の知恵と昔の記憶を引きだせれば、ベストです。」との条件であった。そこで当時、僕が教えていた大学で知りあった埼玉県東松山農林振興センターのKさんに相談したところ、東秩父村にピッタリのコーディネーターがいると教えてくれた。早速、根回ししていただき、東秩父村役場にKさんと一緒に訪れた。Kさんが強力に推薦してくれた西さんと一緒に待ち構えていたのが「東秩父村・野草に親しむ会」のおばさまたち。すこし怖い顔をされて僕への品定めが始まった。講座の概要を説明していくうちに、ようやくおばさまたちの緊張がゆるんだ。
そうして、春には「お茶」づくり、初夏には「キハダ軟膏」、秋には「紫雲膏」づくりが計画された。当初、冬には「葛根湯」づくりを計画していたのだが小川さん曰く「これは一日の講座では難しい」と悩んでいたところ、おばさまたちからなんの気なしに出た話題の中で「ここ(東秩父村)では昔、各家ごとに七味をつくっていたんです」と。これに小川さんが反応して「それやりましょう!」と「みなさん薬研はお持ちですか?」と問いかけたが、残念ながらみなさん、処分をしてしまったという。使える薬研は手に入るのかと考えていたところ、次の講座で西さんが「父親が骨董市で、薬研を買ってきてくれました!」と報告してくれた。そこからはとんとん拍子で七味唐辛子づくりの講座が始まった。西さんはすぐに薬研の扱いを覚えた。彼女の技術はすばらしく、今では東秩父村の「道の駅・和紙の里」で彼女がつくる七味唐辛子が置かれている。ほとんどの材料を、東秩父村産で揃えてくれた。おばさまたちや西さんや、彼女の友人たちが丁寧につくった七味の材である。唐辛子、金ごま、福来(ふくれ)みかん、山椒、生姜と、青のり、黒ごま以外はすべて地元産。
今回は、わが社のツアーや講座に数多く参加されている後町せつ子さんとその娘さんが申し込んでくれた。娘さん(陽子さん)は初めてだが、せつ子さんは慣れたもので、手際もよい。西さんが作業用にと用意してくれた黒の派手な羽織を着こんで、作業している様子は深川の粋な辰巳芸者のようであった。講座終了後、後町さんからメールが届いた。「…お疲れ様でした。お昼のとき、村の方々が作ってくれた、野菜のおかずがとてもおいしくて、みなさんの優しさをかんじました。ありがたいことですね。地元の産物で七味唐辛子を作るなんて、なかなかできることではありません。貴重な体験です。ありがとうございました。」と。このくすり塾の講座の昼時には、おばさまたちがいつもつくってくれる漬物や煮物、季節の果物などが出てくる。これが美味しくて、お腹いっぱいになる。

唐辛子を薬研で擂る陽子さん(左)
羽織を着こんだ せつ子さん(中央)
七味の材料と薬研(右)
東秩父村、埼玉県で唯一の村、細川紙(手漉き和紙)が有名で、国の重要無形文化財とユネスコ無形文化遺産にも登録されている。それでいて鉄道の駅とコンビニがない。そしてめずらしいことにゴルフ場もない。昭文社の「山と高原地図」の奥武蔵・秩父を見てみると、この村の周りの市や町には40以上ものゴルフ場がある。人口は2,300人ほどで、やはり過疎化と高齢化が進んでいる。西さんはこの村に生まれ、大学を出、都会で数年はたらき「地域おこし協力隊」として村にUターンしてきた。それ以来、村のおばあちゃんたちや古老たちにずっと聞き書きをしている。村に伝わる「智慧」と「技術」を末永く残したいとの想いが彼女のパトスである。そして数年前、原村政樹監督作品の映画『若者は山里をめざす』に主役として出演した。西さんの周りには今、若者たち、いや大人たちもが少しずつ群れはじめた。ゆるやかでしなやかな集まりである。
あらためて、東秩父村、今のうちに見ておいてほしい!