僕の頭のせいもあるが、日本の中世の歴史は複雑で実に判りづらい。父子や兄弟、叔父、甥の争いなども頻繁におこり、ややこしいことこの上ない。そこで風カルチャークラブの講師、関根秋雄先生(栃木県野木町に住み、都立高校で38年間歴史教師として勤務され、「のぎ・歴史を歩こう会」などを立ち上げ)に時々お頼みし、関東の歴史散歩の講座を開いてもらっている。この2月の下旬には「関東のへそ・下総古河の歴史探訪」を企画していただいた。室町期に根をはった「古河公方」の館と、今は明治末の渡良瀬川の河川改修事業で城跡のほとんどが消滅した江戸期の古河城の跡を訪ねる講座である。

古河城址本丸跡の石碑
古河市は茨城県であるが、旧分国名は下総で常陸ではない。古河駅の渡良瀬川の対岸にある東武日光線の新古河駅は埼玉県にある。次の駅「柳生」のすぐそばには、めずらしいことに栃木(下野)、群馬(上野)、埼玉(武蔵)の三県の境界がある。地理的にいえば、この近辺はまさに関東の「へそ」にあたるのだ、と関根先生は話してくれた。
その日は、古河駅に集合し市営バスに乗り、古河公方公園に向かった。よく整備された公園で、まだ桃まつりには早い土曜日なのに、かなりの人出である。研修所のような小部屋でまず、「へそ」の話と、鎌倉公方から古河公方にいたる歴史の講義をしてもらった。まことに興味深い内容で、関東平野の近世までの権力闘争の話がとくに印象に残った。
まず、足利尊氏の四男の基氏が、坂東八か国に伊豆と甲斐を加えた十か国と奥羽を統治する「鎌倉公方」になる。その基氏から五代目の成氏が「享徳の乱」により、相模鎌倉より古河に本拠を移し、初代「古河公方」となった。享徳の乱とは八代将軍・足利義政の時代に起こり28年間、断続的に続いた内乱で、足利成氏が関東管領の上杉憲忠を暗殺したことに端を発し、関東一円に拡大したという(ウィキペディアと関根先生の解説による)。これだけでも、訳の分からないことばかりである。享徳の乱の12年後に起こった「応仁の乱」は約11年続いたが「いかに享徳の乱のほうが永く続いた内乱であったか、歴史の教科書にはあまり表に出てこない、」と関根先生は嘆いて(?)いる。
関東管領の上杉家は、鎌倉期には丹波国の上杉荘(京都綾部市)を領していた藤原の流れを汲む武家で、足利尊氏の母親が上杉氏の出である。その縁で関東管領家を世襲し、関東に広く勢力を広げた。実は、足利尊氏が生まれたという場所が京都の綾部市にある。安国寺というお寺である。境内には尊氏とその母、妻を供養している三基の宝篋印塔があり、尊氏が浸かったという産湯の井戸もある。このお寺には、出口春日さんが講師の “大本の節分祭”を体験するツアーで訪ねたことがある。余談だが、この時につきそってくれた“大本”の古老が「実は、この“丹波”から三人の“謀反人”がでたのですが、だれだか解りますか?」と訪ねられた。しばらく考えて、足利尊氏は解ったのだが、後の二人はでてこない。古老曰く「明智光秀」と「出口王仁三郎」と答えられた。光秀はたしかに丹波を領していたし、大本の出口王仁三郎は丹波の出で戦前、二度にわたる大弾圧に遭った。

明治3年の古河城の写真と古河公方関係図
中世から近世そして近代へと刺激的な講座を受けたが、頭の中はまだ混乱している。
あはずして 行かは惜しけむ 麻久良我の 許我こぐ舟に 君も逢はぬかも
「万葉集」(巻14)
*麻久良我(古河市周辺の古称、歌枕)
*許我(現在の古河市の渡良瀬川の「古河の渡り」で交通の要所)