シベリア抑留という悲劇

つむじかぜ295号より


シベリア抑留者の最後の帰国は、昭和31年。なんと、戦後11年も経ってからだ。ポツダム宣言に違反した行為が、かくも長く続き多くの命が奪われたことに今更ながらに驚く。どうして、こんなにも長く抑留が可能だったのか。国家間の政治の世界の話なのだろうが、失われた55,000人近い人々の無念を思うとやるせない。

戦争は終わったのに何故?そんな思いを誰だって抱くだろう。戦闘で、銃弾に倒れたというのならまだしも、極寒の中での過酷な労働で、飢えと寒さの中で死んでいっていたからだ。

更なる悲劇は、当時のソビエト政府が「民主化された人間から帰国させる」という政策をとってからだ。民主化とは、マルクスレーニン主義を学び共産主義者となることである。

抑留者たちは、早く日本に帰りたいという一心から、共産主義者のふりを誰もがしたそうだ。しかし、ソビエト政府は、内偵者をつくり密告をさせ日本人を分断していった。日本人が、日本人を「お前は、軍国主義者だ」と言ってつるし上げる。つるし上げられたら、シベリアの奥地の監獄送りになって日本へは帰れない。自殺者も出たそうだ。

人間は、人をおとしめることで自分を上位に保とうという悲しい側面がある。これを支配の道具に使う為政者もいる。差別分断政策といわれる。“村八分”にあった家族に同情すれば、自分も“村八分”にされる。自分の身を守るには、為政者の味方になって、おとしめる側に立つしかない。と思ってしまう。

昔の話ではない。子供たちは、「いじめている側に立たないと自分もいじめられる。仲間はずれにされたくない」。という悩みを抱えているかもしれない。「KY」等ということを、中学生が気にするのも、実は、よく似た構造である。親は、そんなサインを見つけなくてはならない。

八月は、戦争を考える番組や新聞記事が多い。年に一度、じっくり考えてもいいんじゃないかと私は思う。

▼あれよあれよという間に、“つぶやく”ことになり、なんだか心の準備ができてませんがtwitter始めました。
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