親鸞

つむじかぜ407号より

親鸞は、90歳まで生きた。その妻、恵信尼も、86歳まで生きたとされている。2人とも、なんとも長生きである。親鸞は、4男3女の7人の子をもうけた。全て恵信尼との間の子であるとも言われるが、そうではないという説もある。いずれにしても、師の法然が妻帯せずに過ごしたことを考えると、親鸞とは、随分「世俗的」である。

2人が生きた時代は、12世紀後半から13世紀に掛けてで、室町後期から鎌倉初期である。正法、像法に続き、釈迦没後1500年で始まるという、「末法」の時代が正に到来し、人々は、不安に駆られ、念仏にすがりついた。実際、この時代は、普通に生きていくことが大変困難であったという。 病気に罹ることは死を意味したに違いない。

病気に罹らない固体の強さがなければ、到底、長生きはできない。二人とも、生命体としての固体も強く、且つ気に満ちていたのだろう。それにしても、90歳とは、凄いものだ。

親鸞は、9歳で出家し、仏法の世界では、エリート集団であった比叡山で修行をつんだ。29歳で、それを捨て、在にあった法然の専修念仏の世界に飛び込み、法然の浄土宗を超えて浄土真宗を確立していく。歴史の教科書では、鎌倉仏教の革新は、非常に印象的である。

どんな世界も、理念が第一義であった初期の精神は、次第に形式化し権威主義に陥る。しかし、仏教が日本に伝来したときは、既に、形式化していたのかもしれない。鎮護国家を目的とした治世者によって独占され、一般の人々は救済の対象にならなかったようだ。ただ、聖徳太子信仰のように、庶民の心の中に根付いて長く続いたものもあるが、鎌倉仏教は、日本の仏教史において唯一の革新であったのかもしれない。

今日は、結論を考えないまま書き始めてしまった。私には、到底、仏教の世界を語るような知識はないし、こんなこと書いていると、詳しい方から、違うだろう、とお叱りを受けそうだ。

それにしても、念仏を唱えれば救われると言われてもピンと来ない。そもそも、死んでからの世界で救われようなどと、人々が、ただひたすら願うこと自体が想像できない。親鸞ではないが「浄土には、行ったことがないから分からない」わけである。そんな確証のないものを願うこと自体が分からない。

しかし、死後の世界のことは時々考える。保育園で「蜘蛛の糸」の紙芝居を見た日は、怖くて眠れなかった。今は別に怖くはないが、浄土に行きたいとは思わない。ただ、亡くなった、母や、友人に会いたいと思うし、会えるような気がするから不思議である。親鸞に関するあれこれを、もう少し読んでみようと思う。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

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