新聞

つむじかぜ490号より

朝の通勤電車で新聞を読む人がめっきり減った。今日は、車両を見渡しても、私の他にもう一人、スポーツ新聞を読んでいた男性がいただけだ。私とて、毎日読むわけではないが、それにしても少ない。やはりスマホの影響だろう。

スマホは、ガラケーに比べたら、圧倒的に情報を沢山入手できるようになった。webに繋がるということは、ほとんど無限大に情報が手に入るということだ。実に便利である。

私も、ちょっと時間があけばスマホでニュースを見る。本を読んでいて分からないことがあれば調べてブックマークしておく。これは、なかなか便利である。時計代わりにもなるし、スマホは必携の品になっている。

しかし、「若者の活字離れ」と言われたり、最近は「総日本人の活字離れ」ともいわるが、そうだろうか。ネット社会になって、メールやインターネットで情報が山のように手に入るから、それを読み毎日のようにメールを書く。新聞や本は読まないが、むしろ「文字」に接する機会は確実に増えているのではないか。「文字」依存症ですらあるように思う。

しかし、「活字」と「文字」はどこかがちがう。文章にして何かを伝えるという機能においては変わりはない。ただ、「活字」というと一定のまとまった体系をもった文章というイメージが私にはある。だから、新聞は俯瞰性を備えていると思う。「活字」離れとは、俯瞰性を考えることをしなくなったということではなかろうか。

一方、ネットで読むニュースは、何があったかを即時的に知ることができる。即時性という点ではネットの方がはるかに優れている。がしかし、断片的である。

コロンブスの卵ではないが、活字離れで人の考え方、生き方が断片的になったのか、人の考え方、生き方そのものが断片的になってきたから活字が不要になったのか、私にはよくわからない。しかし、人は、断片的な情報や知識だけでは生きて生けない。必ず、全体性を獲得したくなる。

オウム事件以前は、電車の網棚に新聞がいくつもあった。インドでは新聞は回し読みが普通である。みんなが一定のことを新聞から得て知っている。その共通認識を形作ることも「活字」の役割だったと思う。

みんながネットでバラバラのことを知り、バラバラの理解と認識を持つようになっては、ますます隣人が理解できないという事態が進むように思う。まるで隣人が人間として存在していなかったような事件が多い。

どこかで、方向が変わってほしい。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

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