お伊勢参り

*風のメルマガ「つむじかぜ」583号より転載

「人はなぜ伊勢を目指したのか」6/4と6/11の『ブラタモリ』のお題がこれである。『ブラタモリ』は、3月に、熊本城を取り上げ、加藤清正がどのような思惑から城を造ったかを紹介した。4月になって熊本を大地震が襲い、熊本城が大きな被害を受けたことで、城が崩れる前の貴重な映像になったとして注目を集めたNHKの番組だ。

その『ブラタモリ』が、今回は、お伊勢参りを取り上げた。江戸の初期からお伊勢参りはブームとなり、通常で年間約60万人、60年周期で3回起こったという「おかげ参り」では、数百万人が参宮したという。その秘密は何か。“式年遷宮”を一つのキーワードにしながら、私たち旅行会社の原型ともいえる“御師(おんし)”の役割が大きく取り上げられた。

伊勢誘客を担った御師は下級の神職であった。宇治と山田の門前街には合計で約1,000軒の御師の宿坊があったという。番組の中で、現在、唯一残っている御師・丸岡宗大夫の宿坊が紹介された。約50人ほどが泊まれ、大阪や信州に8,000件の顧客を持っていたそうだ。

御師・丸岡宗大夫は、神宮大麻(お札)を持ち、湯に戻して食べるめかぶ・「めみみ」や、野菜の作付時期などを記した暦を土産に持って顧客への営業を欠かさなかったという。“伊勢講”というグループを作り無尽という相互扶助制度で毎年何人かを伊勢にお参りさせた。江戸時代には、なんと6人に1人は伊勢参りをしただろうと言われている。

御師・丸岡宗大夫宅に、ある講の宿泊記録が残っていたが、17名で伊勢だけで5泊6日しており、その料金は総額60両、今の金額で600万円から1,000万円。この講は、上級の人たちだったらしいが、大変な金額を使って旅行をしていたようだ。

しかし、素朴な疑問が沸いてくる。江戸時代とは、そんなに豊かだったのだろうか。関所が多数あり、通行手形まで必要だったのに、こんな大規模なお伊勢参りが、江戸時代を通して約250年も続いたというのだから不思議でならない。

そもそも、江戸時代は、物見遊山の旅は慎むべきもの、まして女性には厳しかったという。ところが、これは建前にすぎない。参宮(お伊勢参り)や富士山、熊野、善光寺などへの参拝を建前にすれば、堂々と旅が許されたという。もちろん、参拝だけをしに行くわけでも、伊勢だけに行くわけでもない。西国の人は、江戸、日光、平泉などへ、東国の人は、京都、奈良、さらには九州までも足を伸ばし、全旅行日数は50日以上に及んだというからこれまた驚きだ。

もちろん、伊勢にも古市という遊郭があり、遊郭の周りは芝居小屋などが立ち並び、日本有数の歓楽街であったいう。聖と俗が融合した場所、それが伊勢であり観光地の姿であったと言えよう。

明治になって国家神道になると、御師という神職は廃止され完全に消滅してしまった。それでも人々は伊勢を目指した。2013年の式年遷宮では1,420万人が。昨年は、838万人が訪れた。ネットが発達した現在、旅行会社の役割は変わりつつあるが、御師・丸岡宗大夫の記録からは、旅の前、ガイド、宿泊、食事、遊びの手ほどきまで、まさに、コンシェルジュとしての役割が見て取れる。タモリ氏は、まさに“御師ェルジュ”だと評していた。いやはや、江戸時代よ、恐るべしである。


★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。


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