占守(シュムシュ)島

*風のメルマガ「つむじかぜ」612号より転載


占守(シュムシュ)島の戦いをご存じだろうか。『終わらざる夏』(浅田次郎著、集英社文庫)を読んで、私は、初めて占守島のことを知った。縦30km幅20km程の島で、千島列島(クリル諸島)最北東端に位置し、カムチャッカ半島に一番近く、同半島最南端のロパートカ岬とは僅か13km程しか離れていない。

日露の国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫(ウルップ)島との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされた。

明治8年(1875年)、あの戊辰戦争で五稜郭にて降伏した榎本武揚が全権大使として交渉し、樺太・千島交換条約が結ばれた。この条約で、千島列島は、この占守島までがすべて日本の領土となった。考えてみれば、明治の初期としては、とんでもない成果であったが、その後、千島列島は、自然条件の厳しさ故か、殆ど手がつかないまま捨て置かれた。

そればかりか、1884年、明治政府は原住民のクリルアイヌたちを色丹島へ強制移住させてしまった。クリルアイヌたちは、食生活の変化によって脚気が原因で死者が続出。帰島を要求したが認められることはなかった。もちろん占守島にもクリルアイヌがいた。その後、占守島は「千島報效義会」が開拓を進め、缶詰工場などができたがそれ以上の開拓は行われなかった。

ところが、1943年の5月、アリューシャン列島のアッツ島の戦いで日本軍が玉砕すると、占守島は対米軍の最前線の防衛拠点とされ、関東軍から精鋭部隊を転戦させ要塞化した。終戦時も、最新鋭の戦車六十数両とおよそ23,000人を擁する第91師団がこの島にいたのである。

攻めてきたのは米軍ではなく、終戦直前の8月9日に日本に宣戦布告したソ連赤軍だった。戦いは圧倒的に日本軍が優位であったが、無条件降伏した日本は、この戦を完遂できず軍命によって降伏。8月23日に武装解除したが、その後、シベリアに抑留され多くの人々が命を落とした。当時約2,000人の民間人が島にいたが、戦い最中に、軍は缶詰工場で働いていた約400名の女工たちを根室まで無事に送り届けた。

戦争にまつわる美談として紹介したわけではない。こういう戦いがあってソ連軍侵攻を食い止めた人たちがいた事実を共有して頂きたかったのである。占守島は、平らな島で草原に花が咲きみだれる美しい島だそうだ。クリルアイヌには“争う”という概念がなかったという。その美しい島で悲惨な争いが何故起きたのか、しっかり考えておくべきだと思う。


★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。


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