古代の院政

*風のメルマガ「つむじかぜ」614号より転載


院政について少し振り返ってみたくなって、井上靖著『後白河院』を読み始めた。手紙文で大変読みやすいが、あれこれ時代の背景を調べる時間の方が長くて進まない。しかし、なかなか面白い。院政は、白河天皇が、応徳3年(1086年)堀河天皇に譲位ののち院庁を開いて引続き政権を担当したことに始まる。(ブリタニカ国際大百科事典)

院政のきっかけは摂関政治が弱まったことにある。藤原家が外戚から外れたことを好機に、帝のままでは、あれこれ制約を受けるので退位して上皇になれば自由にものが言える、ひいては事実上の権力を握って権勢を揮うことができるというわけだ。

そもそも藤原家の権力は、大化の改新で蘇我氏を滅ぼし権力を握った中臣鎌足(後の藤原鎌足)に端を発っし、10世紀末、「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と詠ったとされる藤原道長で頂点を迎える。

白河法皇と言えば、2012年放映押された大河ドラマ『平清盛』では、伊東四朗がこの上なく憎々しく演じて話題となった。平家物語には“清盛の生母は祇園女御”と書かれているが、“清盛は白川院のご落胤!”という設定を、大河では強烈な場面として描き、白河院の権力の権化としてのおどろおどろしさを際立たせた。

12世紀になって、崇徳上皇と後白河院の争いが保元の乱へと結びつき、平治の乱で平清盛の時代へと移っていく。皇室と公卿の世界での血族入り乱れた権力闘争は、武士の台頭で、武力で決着する世界へと変わっていった。ここら辺の様子が、井上靖著『後白河院』には詳しく述べられている。

なんのことはない。個々の人間の感情のもつれではないか、ということになるのだが、そこに権力が加味されることで、時の政権を大きく揺るがす大事件にまでなってしまうようだ。私などからすれば別世界の話だが、翻って今上天皇の生前退位について考えてみた。

皇室典範を改正して、制度としての生前退位を確立しようという主張もあれば、例外規定で今回のみにしようという主張もある。しかし、どうもしっくりこない。そもそも何故、明治政府は、皇室典範に天皇の生前退位を盛り込まなかったのか。

私には、ここら辺を詳しく論ずる材料がないから疑問提示くらいしかできない。現憲法で天皇は“象徴”である。自民党の憲法改正草案でも天皇は“象徴”であることに変わりないが“元首”とも書かれている。“象徴”であり“元首”であるという理論構築がどうやったら可能になるのか分からないが、古代の院政を振り返ることは無駄ではないように思う。


★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。


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