<河内王朝の出現と竹内街道>
★第5回「古事記の神々をめぐる旅」は「河内王朝」に焦点をあてます。鳥のトーテム、騎馬軍団、そしてユニークな墳墓のデザイン、畿内「大和」政権とからみつつ、それまでのシャーマニズム(巫女王)と一線を画した王朝。大阪湾に面した難波の地に王宮をかまえた「河内王朝」の華やかな興亡、大王政権の国際性や権力の巨大さを「竹内街道」を歩きながら肌で感じる旅です。
<倭の五王>
★438年、倭王「珍」は宋に入貢し、倭国王ほかの官爵を要請します。このときは「安東将軍倭国王」が承認されただけですが、451年に、倭王「済」は「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」の官位を承認されました。また倭王武は478年「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」という宋の「藩国」としての官位を授与されます。「武(雄略天皇に比定される)の上表文」には「東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す。渡りては海北95国を平ぐ云々」と、大和朝廷の統一過程を誇らしく、生々しく述べています。しかし、やがて倭国は中華との関係を絶ち、列島独自の支配体制を構築しようとするのです。
★倭の五王(讃・珍・済・興・武)は「讃・珍」が「応神あるいは仁徳」、済は「反正」、そして「武」は「雄略」に比定されます(諸説あり)が、古代大和朝廷がおそらく荒々しい武力によって列島における権力を樹立した時代でもありました。朝鮮半島や中華王朝を意識し、国内の王権を確立していく過程が、王たちの伝承として「古事記」「書紀」に描かれます。
★この時代に、独特な形態をもつ巨大古墳が登場します。後世「前方後円墳」と名づけられたこれらの古墳こそは大和政権が全国を制覇し、強力な権力を持つにいたった統一王朝の存在を考古学から実証しています。
<河内王朝の誕生>
★大和朝廷の力が全国に及ぼうとしたそのころ。「古事記」には王統譜にふさわしからざる「奇っ怪なエピソード」(芝田)が描かれます。それが仲哀記における「神功皇后」の登場シーンであり、河内王朝の誕生にまつわる物語です。
<密室の女王>
★天皇と皇后そして武内宿禰の三人による「熊襲を撃つか、新羅を攻めるべきか」という密室謀議の席で、半島侵攻を否定した天皇が、とつぜん息絶えます。のちに卑弥呼にも比定される神功皇后(オキナガタラシヒメ)はここでは神の声を聴く依姫の役割ですが、直後に軍事権力の長として海外へ進出する「大王」的な性格をもって歴史の表舞台に登場します。
★胎内に応神天皇を宿し、新羅=半島の武力鎮圧を成功させた「神功皇后」は、返す刀でヤマトの(おそらく正統な)政権だったであろう「香坂(かごさか)・忍熊」王子の軍を破り「イリ王朝」から「ワケ王朝」への転換を図ります。かくして応神から雄略に至る大王はこれまでとはスケールのことなる「倭の五王」となります。「神武」「崇神」につづく「応神」という「神」の称号こそ、新しい王朝の証左のように思えます。古墳から発掘される武具・馬具、のちの武士政権の信仰「八幡神」の頂点であることでも明らかなように、この新王権の真髄はその強大な武力にあるようです。
★ヤマトの大王(連合)政権とはことなる勢力が「ヤマト」ではなく、「河内」に、圧倒的なスケールで登場します。その「新勢力」は「前方後円墳」の時代を確立し、ゆるがぬ「剣の王朝」をうちたてた「武」の政権であったといえるでしょう。
<竹内街道=新政権の象徴>
★難波からまっすぐ東に、大和へと至る「竹内街道」は、その両側に世界規模の巨大古墳を配して、半島や大陸の使節の度肝をぬき、かれらの目に強烈な印象をきざんだ、「河内・大和朝廷」の権力を象徴するランウエイ、ヤマトにまします「倭王」の王宮に参上するためのレッドカーペットだったに相違ありません。
★この日本最古の官道は、明日香時代には幅30mあったといいます(のちに推古天皇が官道として敷設したときは幅20m)。難波(大阪湾)から二上山南麓(竹内峠)、そこから「横大路」と名をかえ、葛城、三輪山に至る道は、その先の「伊勢神宮」につらなる春分と秋分のラインを結ぶ、古代からの「太陽の道」でした。この東西道は大陸から先進技術や仏教文化を伝えるとともに、ヤマトと瀬戸の内海を結び、さらに列島東方の武装集団(美濃・尾張)につながる兵站道路でもあったのです。
★世界規模の巨大古墳を造営し、中国正史に登場した列島の王権は、その最盛期(倭王武=雄略天皇)ののち、やがて日本海の別勢力(継体天皇)に王権を引き渡し、一大エポックを築いた「河内王朝」は終幕を迎えますが、その圧倒的な果実を受け継ぎ、「スメラミコト」を軸とした、世界にまれな千年王朝のビルドアップが開始されます。かれらは明確に「河内王朝」とは一線を画しました。「河内王朝」のシンボルであった「前方後円墳」は、「銅鐸ブランド」が消滅したと同様に、二度と築かれることはありませんでした。
★河内王朝の変遷は「万世一系」を信奉する国家権力の監視によってタブーとなっていた時期(戦前)が終わってようやく学術論議の対象となり、戦後、江上波夫「騎馬民族征服王調説」や水野裕「三王朝交代論」として花開くこととなりました。
★「古事記の旅」第五回は、日本の古代史における「謎の4世紀」そして「巨大古墳の時代」をテーマに、古事記本文を紐解きつつ、ヤマトからカワチにいたる4・5世紀の古代日本を俯瞰します。
「竹内街道」の周辺に存在する、百舌鳥古墳群、古市古墳群から、古代国家の勃興と、古事記に描かれる王朝の名残を見てみましょう。この古代の官道は、やがて江戸時代に「お伊勢参り」の道として、ふたたびその存在を、色濃く主張します。「道」の変容から、わたしたちの精神性の変貌もさぐってみましょう。
<竹内街道の概要>
竹内街道(たけのうちかいどう)は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26 km の日本最古の街道です。かつては丹比道(たじひみち)とも言われていました。羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までが国道166号に指定されています。堺市大小路から竹内峠を通り、長尾神社までの道も現存しているとはいえ、幅30メートルあったとされる飛鳥時代の大道の面影はありません。しかし街道沿いに仁徳天皇陵、応神天皇陵をはじめとする古墳が多数あり、古市古墳群と百舌鳥古墳群の中央部を通り、物資輸送路、文化伝達路として重要な役割を果たしたと考えられます。竹内街道の名は、竹内集落(奈良県葛城市)を通って竹内峠を越えることに由来しています。
ファンタジー作家
芝田 勝茂 (しばた かつも)
石川県羽咋市生まれ。児童文学作家。著書にファンタジー『ふるさとは、夏』(福音館文庫・産経児童出版文化賞)『ドーム郡シリーズ三部作』(『ドーム郡ものがたり』『虹への旅』『真実の種、うその種』日本児童文芸家協会賞他・小峰書店)古典に題材をとった『サラシナ』『虫めずる姫の冒険』(あかね書房)。また近未来を描く『進化論』『星の砦』(講談社)がある。編訳に『ガリバー旅行記』『西遊記』『ロビンソン・クルーソー』子ども向けリライトに『銀河鉄道の夜』『坊っちゃん』(学研)伝記『葛飾北斎』(あかね書房2016)『織田信長』(学研2018)など。『空母せたたま小学校』シリーズ(そうえん社2015-2016)や『ぼくの同志はカグヤ姫』(ポプラ社・2018)では近未来と古典文学が融合する、ユニークなファンタジー世界を描く。日本ぺンクラブ会員。
2013年から2018年まで『縄文サマーキャンプ』を山梨県で個人主催で実施した。
HP『時間の木』http://home.u01.itscom.net/shibata/index.html