武蔵野の雑木林と富士山

中学生のころ、国木田独歩の「武蔵野」の一節を教科書でよんだ記憶がある。どのような文章だったかは忘れてしまっていたが「畑の真中にいる農夫にききたまえ」という言葉だけが妙に印象に残っていた。それ以来、全編をよむ機会がなかったのだが、10年ほど前に赤坂憲雄先生から「武蔵野の勉強会をやらないか」と誘われ、あわてて文庫本を購入した。それまで独歩の武蔵野の舞台は三鷹か小金井近辺だろうかと勝手に想像していたが、彼の住まい(茅屋)のあった渋谷もその舞台であった。独歩の住居跡は渋谷区の宇田川町(明治初期には上渋谷村)にある。そこを訪ねると目の前には「アムウェイ」の大きなビルがあり、標高30mもある高台だ。渋谷駅は標高15mの谷の底にある。武蔵野台地上のほぼ東端に彼の茅屋はあった。明治初期の地図によると彼の家の周りは畑と雑木、そして茶畑もかなりの面積で存在していた。

ぼくが生まれ育った場所(文京区雑司ヶ谷、今は目白台)も武蔵野台地と音羽の谷の中腹にあった。家の庭の崖下には、文華女子中学高等学校のグラウンドがあり、その台地が落ち込む崖「ハケ」には小さな滝がありその裏にはお不動さんの板碑があった。祖母の記憶では、その滝で滝行をしていた行者さんがいたという。そういえば、江戸五色不動のうちの目白不動が近くにある。家のまわりには、お寺や教会、学校などがありその敷地にはスダジイやカシなどの常緑樹が生えていて、どちらかというとうす暗い地域であった。そのころ、親戚の家が三鷹の下連雀にあり、祖母などによく連れて行ってもらった。行く前の晩には嬉しくて、よく眠れなかった記憶がある。そこは武蔵野を代表する「雑木林」のある場所だった。年下の”はとこ“たちと、落ち葉の中で転げまわって遊んだ。武蔵野の雑木林、広々として生えている樹木はコナラやクヌギの落葉樹、実に明るい。そのうち親戚は東村山の秋津に引っ越した。ここも典型的な武蔵野の林があり、低い丘に登ると晩秋の新雪を被った”どうだ“と云わんばかりの富士山が見えた。

武蔵野台地のほぼ真ん中にある東伏見稲荷神社

独歩の「武蔵野」の書き出しに以下の一節がある。「『武蔵野の面影は今わずかに“入間郡”に残れり』と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。」と続き、地名として小手指原や久米川がでてくる。今、ぼくが住む所沢もこの入間郡だ。家の近所には、宮崎駿さんの「となりのトトロ」にでてくる、ヒイラギの生垣に囲まれて大きなケヤキなどの屋敷林をもち、江戸期から続いている農家が数軒ある。歩いてくるとほんとうに“トトロ”が出てきそうで、不思議と懐かしい。

いくつもの武蔵野へ

さて、昨年の秋に出版された赤坂憲雄先生の「いくつもの武蔵野へ 郊外の記憶と物語(岩波書店)」を読み終えた。第一章は「武蔵野は移民の台地である」という刺激的な文章から始まる。本の帯には「幼き日の原風景を遡り、文学やアニメ等から掘り起こす、武蔵野をめぐる知の鉱脈」と書かれている。そう、赤坂先生は幼いころ北府中に暮らしていた、という。読んでいただく前に余計なことは書くつもりはないが、気になる記述がある。別の武蔵野には刑務所や鑑別所、精神科病院、結核療養所そして1909年に設立された多磨全生園などがある。立場の弱い者が街(都会)から外へと追い出される構図だ。事情を変えてみると、所沢市などにある朝日新聞の「にほんの里100選」に選ばれた、三富新田(江戸期に開発され短冊状に区分けされた新田)は今、虫食い状態になっている。相続の問題や後継者がいない畑地が、様々な業者に買われている。農地ではなくなり、高い壁に囲われ、中ではなにをしているのか分からない元農地がある。この本の裏側の帯にはこう書かれている。「武蔵野の原風景などと、牧歌的に語ることはやめておいたほうがいい。武蔵野台地に取り残されたひとつの雑木林だって、表裏なす、ひき裂かれた原風景を抱いている。」(「少しだけ長いあとがき」より)と。

それでも武蔵野台地で視る雑木林と富士山は、かけがえのない風景である!

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