トーキョー

つむじかぜ460号より


「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それを面白おかしく書く」がモットー。そんなノンフィクション作家、高野秀行氏が考えることは確かに人とは違う。

早稲田大学探検部在籍時に「幻獣ムベンベ」を探しにコンゴ行きを計画する。アフリカのほぼ真ん中にある国で、嘗てのザイールのことだ。コンゴの公用語はフランス語。そこで、高野氏は、まずはフランス語を習得しようと考えた。

金もないから、偶然出会ったフランス人にフランス語を教えてくれと頼み込む。このフランス人の女の子が、まるで授業らしいことをしてくれない。それでも、テープレコーダーなどを駆使して何とか話せるまでになる。

いざ、コンゴに行く段になったら、諸般の事情でマスコミと一緒に行くことになった。マスコミと行くなら心強い。そう考えても不思議はないが、高野氏は違う。マスコミの経験豊富なスタッフたちに主導権を奪われて下働きに使われてしまうと考え、主導権を握るためにコンゴの言語であるリンガラ語を習おうと考える。

何とか、教えてくれるアフリカ人を見つけたが、リンガラ語には文字がない。それでも、アルファベットに置き換えるなどのこれまた奇妙な工夫をして、これまた話せるようになってしまう。「幻獣ムベンベ」を探しに行くってそんなに重要なことなのか?と首を傾げたくなるが、それを言ったら元も子もない。

高野氏が書いた『異国トーキョー漂流記』(集英社文庫)には、こんな奇妙な話がわんさかと出てくる。本当は、この本は、高野氏が出会った外国人との「トーキョー」でのあれやこれやの奇妙な話であり、外国人から見た日本、とくに、「トーキョー」がどうなのかがテーマである。

しかし、この高野氏のとても奇妙な生き方の話に、ついつい引き込まれて最後まで読んでしまう。そんな本だ。人は、必要に迫られ、やる気さえあれば、状況を切り開いて自らの世界を獲得することができる。それを、証明しているような人だ。それが、「幻獣ムベンベ」を探しに行くためだというのが面白い。

ただ、高野氏のそんなパッションは、条件が極めて困難な外国に行くことのためのみに開花する。日本での生活は、いたって普通だし感情も極めてノーマルである。これが、やっていることの奇妙さからは考えられないような親近感を抱かせる。

だから、東京にいるときは、普通の感覚で生きているが、外国人たちと街を歩くときは、自分を日本人ではなく外国人のように思って街を眺めてしまうというのだ。「だからこそ、そのときに浮かび上がる光景は「東京」ではなく「トーキョー」であるのだ」と書いている。

私には、「幻獣ムベンベ」を探しに行くことはできないが、「トーキョー」を眺め、あれこれ考えることならできそうだ。それってとても面白そうだし、大切なことだと思う。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

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