科挙

つむじかぜ515号より


「李鴻章は、漢民族の士大夫出身の軍人で満州族ではありません」なるほど。そういわれればそうだ。中国に詳しい弊社のスタッフから言われ、自分の単純な思い込みに気がついた。清という国は、女真族の愛新覚羅氏が打ち立てたものの、官僚のほとんどは漢民族だったのだ。李鴻章も、軍人ではあるが元は「科挙」に合格した士大夫であった。

清では、「科挙」という隋の時代から続く“公平”な試験制度で、合格した者が、科人、進士と進み、高級官僚になっていく。「科挙」は、実に公平かつ厳正に行われ、受験資格にもまったく制限がなく、身分も資格も何も問われなかったから誰でも受けられた。結果、人口の多い漢民族が多く合格するというわけだ。

もちろん、家庭教師をつけて勉強することができる裕福な家から合格者が出るのは当然であったから、漢民族にそうした富裕層が多かったともいえよう。

清の国は、17世紀には1億人台だった人間が、18世紀の乾隆年間には3億人台になり、19世紀に入ると4億人を越えたといわれている(『清朝と近代世界』岩波新書、シリーズ中国近現代史1より)。

その4億の民から一握りの進士を選ぶ「科挙」は、大変な難関であったが、極めて厳正に行われ、“裏口”などということは考えられなかったらしい。もちろん満州族が優遇されるなどということもなかったようだ。それにしても、通常、どんな国でも、官僚を独占する貴族が存在し、血縁関係で継承される極めて不公平な制度が官僚制度だと思うが、それに比べると「科挙」とは、なんと“公平”な制度であったことか。

支配者が替わり帝国の名称は変わっても、官僚制度は変わらず、隋の時代から延々と続く。これが、中国史の本質を表しているのかもしれない。

しかし、西欧列強が中国大陸を侵食し始めると、この科挙によって打ち立てらた儒教思想をよりどころとした官僚制度は、時代の変化に順応できず立ち遅れていく。「洋鬼子」と称して西欧列強を嫌い、「東洋鬼」として蔑んでいた日本にも、1894年、日清戦争で惨敗してしまう。

清の優秀な官僚たちは、大砲や火車(汽車)をみては魔法のごとく恐れ、日本の維新を見習って康有為ら若い官僚たちが立憲君主制を光緒帝で樹立しようとしたが、これを潰してしまう。その結果、立憲君主制を飛び越えて、1911年の辛亥革命で共和制が樹立され、毛沢東らによる中華人民共和国の成立にまで繋がっていく。

西洋列強に立ち遅れた19世紀のアジアの中にあって、日本と中国では、まったく違った歴史をたどる。簡単には説明できないが、知れば知るほど面白い。

歴史には不思議なことがある。日本は、中国から多くを学んだが、この「科挙」と「宦官」だけは取り入れなかった。何故だろう。日本は、長い間、武士が支配者層になってきた。武士の論理に「科挙」と「宦官」は似合わない。そんな単純な理由ではないだろうが、疑問は、限りなく続く。当分、飽きそうにない。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

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