古代史への興味

*風のメルマガ「つむじかぜ」601号より転載

久々に、日本の古代史についてあれこれ考えている。邪馬台国がどこにあったのか、といった古代史の謎に興味があるわけではないが、西暦「266年の中国、晋の都洛陽に倭の女王(壱与か)が使いをおくったのを最期に、以降約150年間、倭に関する記載は中国の歴史書から姿を消している」。(小説日本史、山川出版社)この空白期の謎を想像することはかなり興味深い。

江上波夫氏が唱えた「騎馬民族征服王朝説」は、まさにこの空白期への一つの回答だが、実に面白い。学説としては現在は、否定されつつあるようだが、あの手塚治虫の『火の鳥 黎明編』のモチーフにもなっている。

定説は、大和朝廷が、4世紀になって南下策を進める高句麗と任那を拠点に争ったことになっている。ところが「騎馬民族征服王朝説」になるとこの逆で、大和朝廷は、4世紀から5世紀にかけて満州を起源とする扶余系の騎馬民族を起源とする朝鮮半島を支配していた騎馬民族によって樹立されたというのである。

『古事記』や『日本書記』に日本の起源を求める慣わしからすると、日本人にとっては心情的には少々受入難いかもしれない。しかし、この説が戦後一世を風靡した。江上氏も、民族の成立と政権の成立を分けているが、かなり大胆な説である。

古代史の疑問は尽きることがない。大和朝廷が成立し大化の改新があって律令制のもと中央集権国家が成立するが、それも次第に崩れていき荘園が生まれ封建制を基盤とする武士社会へ移っていく。

こうした政権の移り変わりを実現するためには軍事力が必要である。古代の軍事力とは、どういう構造だったのだろうか。地方の豪族たちが私兵としての軍事力を持つ一方で、舎人といった朝廷直属の兵士たちがいた。その兵士たちをどうやって従わせたのか。

武家社会は「奉公と御恩」といった実利的な規範が、近世に入って平和になると忠君という抽象的な規範に変わっていく。しかし、古代にはどういう規範があったのだろう。単に大和朝廷の庇護を望んで従ったのか。それとも大王に対する尊念があったのか。

あれこれ読んでいるがよく分らない。今更、学校教育の歴史教育が暗記一辺倒で面白くないことを嘆いても仕方ないが、学生たちが、殆ど歴史嫌いなのには驚きかつ悲しい。すこし彼らと一緒に勉強してみようと思う。


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