『不毛地帯』と『潮騒』

*風のメルマガ「つむじかぜ」658号より転載

冬の休みを利用して『不毛地帯』(山崎豊子著 新潮文庫)と『潮騒』(三島由紀夫著 新潮文庫)を再読した。『不毛地帯』を読んだせいで、正月早々、気持ちがどっと沈んでしまったので、すこし爽やかな気持ちになりたいと思い、『潮騒』を手に取ったのだが、学生への課題図書にしていたので、これを機会に読み直しておこうというのが正直なところだった。

それにしても、改めて、戦後11年もの間シベリア抑留が続いたことに驚愕してしまう。昭和31年の10月19日に交わされた日ソ共同宣言で、ソ連との国交が回復し、抑留は解かれたが、この年は、私が生まれた年である。これまた改めて、私が生まれた年は、まだ戦争の傷跡が色濃く残っていたに違いないと感じた。

日本では、抑留と言っているが、ソ連の主張は捕虜ということになっている。日本とソ連の戦闘が終結していない以上、捕虜を拘束するのは当然という論理である。しかし、その扱いは犯罪者同様の過酷さでおよそ5万人以上が死亡している。戦争は終わったのに、さぞかし無念であったに違いない。

主人公・壱岐正は帰国後しばらく休養していたが、何故か、商社マンとしてこれまた苛烈な世界で生きていくことになる。その理由が、今一つ、私には理解できない。大本営参謀だった地位を利用して自衛隊関係の職に就くことだけは拒否してきたが、だからといって商社マンを選ぶ必要もないだろう。しかし、壱岐正は軍のことしか知らず、家族のために働かなくてはという思いと、近畿商事大門社長の三顧の礼に応えただけだったかもしれない。

しかし、商社マンとして次第に国益にかかわる仕事をしていくようになるが、かつて国益を振りかざして、この国を敗北に導いてしまった自分が、商社マンとして再び国益の旗を降ることに抵抗しながらも、日本の将来のために、商社マン最後の仕事として、石油獲得競争に挑んでいくところは、大本営参謀の気構えになっていたように思う。壱岐正にとって戦争は終わっていなかったのかもしれない。

『潮騒』は、最後の一文「しかしそのとき若者は眉を聳(そび)やかした。彼はあの冒険を切り抜けたのが自分の力であることを知っていた。」が全てであろう。この一文がなかったら、ただの青春純愛小説である。三島由紀夫の凛とした張り詰めた心が感じられる一文である。

私は、着物を着ないので帯や生地などの知識が全くない。両小説とも、和服関係の描写が頻繁に出てくる。その度に調べては、着物に関する微妙な違いを表現する語彙の豊かさと和の美しさにうっとりとしてしまう。これもこういう小説を読む楽しみである。

さて、2018年も本を読みながらあれこれ書いていこうと思う。
本年もよろしくお願い申し上げます。


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