正岡子規

いつものようにAmazon Prime Videoでリモコンを操作していたら「坂の上の雲」が出てきた。無性に観たくなって視聴ボタンをクリックしたら、NHKオンデマンドに加入しないと観れないと表示された。観終わったら脱退すればいいと自分に言い聞かせて加入ボタンをクリックした。すると、何の手続きもなくそのまま視聴が可能になった。これで月980円が引き落とされるのかとおもうと、便利ではあってもサブスクは危険である。人間心理を上手く煽り立てるような商売はあまり好かない。

司馬遼太郎は「明治は“多くの欠点をもちつつ、偉大としかいいようのない”時代」と評し、明治の庶民は貧しく生活苦の中にあったが、観念が入り組んで重くなりすぎた昭和に比べたら、人々は楽観的で前向きだったと賞賛している。もちろん「坂の上の雲」は未来への希望や渇望が、溢れんばかりに湧き出てくる明治という時代を描き出している。中でも正岡子規の生き方は、その典型。子規が野球を好んだのも有名だが、その明るさと人なつこさは異常なほどである。

しかし、明るいだけではない。「淳さん(秋山真之)の世界は広い。病床六尺ではあっても、わしの世界は深いんじゃ」と子規は豪語した。子規は、晩年は結核から来る脊椎カリエスでほぼ寝たきり状態になった。激痛に日々襲われ続けたが、日本新聞に「病床六尺」を描き続けた。人間、深く考えられるのも才能の一つである。

コロナ禍で様々なことが揺らいだ。世の中の仕組みが思っていたような姿ではなかったこともコロナで明るみに出てしまった。未だに私の前ではぐらぐら揺れている。その揺らぎは、知識の多さや広さでは埋まらないように感じる。何をどう考えるのか。私にはまだ解らないことが多い。子規のように、短い言葉で、広い世界、深い世界を表現すできる人が羨ましい。

子規は、35歳で亡くなる4年前に、自分の墓碑銘を、河東可全の手紙で書き送っている。

「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升 又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人 又ノ名ハの里人 伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻り加番タリ卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円」

実に、用意のいいことで、葬式の仕方まで生前に決めていたというから可笑しくなる。昨年亡くなった山田塾長(旅行産業経営塾)を思い出した。塾長も同じであった。性格も似ているかもしれない。この墓碑銘は使われることはなかったが、写生・写実に徹した子規らしい一文である。月給四十円で結んでいるところが笑える。子規は、あまりに写生にこだわりすぎて批判も多々あったようだが、天才とは、そういうものだろう。

子規を見ていたら37歳で1890年に自ら命を絶ったフィンセント・ファン・ゴッホを思い出した。二人とも同時代を駆け足で生き、表現したいことが最期まで溢れて止むことはなかった。羨ましい。

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