第283話 ヤン ~崖~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

薬草実習 薬草実習

メンツィカン(チベット医学暦法大学 北インドのダラムサラ)では毎年8月になるとヒマラヤ山中にテントを張り、一カ月に渡って薬草を採り続ける過酷な実習が行われる(第1話)。この日はチャワというセリ科の薬草の採取を命じられ、各自、鍬を担いで山の中に出発した。順調に採取が進み「俺って仕事ができるなあ」と調子に乗りかけていたそのとき、崖の淵から1mのところにチャワを発見した。当然、僕の足は喜び勇んで向かっていく。そして、あと2、3歩で手が届くとかというそのとき、僕の意思とは裏腹に四部医典の一節「夏に崖の淵に行くことと、冬に木に登る行為は止めなさい。(釈義相伝第13章)」が突然脳裏に甦った。「“夏は崖の淵が崩れやすく、冬の木の枝は折れやすい”、こんな当たり前の教えまで暗誦しなくてはならないのか」と軽視していた一節だったにも関わらずである。奇妙だなと感じつつも、その教えが命じるままに、ほぼ無意識のレベルで僕の足はカーブを描いてチャワから離れて行ってしまった。「まあ、一つや二つくらい見逃してもいいか」と気を取り直して振り向いた瞬間、背筋が凍りついた。その崖はナイフリッジのように反り返っており、もしもあと二歩進んでいたら足元は崩れ、真っ逆さまに落下していたのは間違いない。崖はチベット語でヤンという。

崖に近寄ってはいけない(絵解き図) 崖に近寄ってはいけない(絵解き図)
冬に木に登ってはいけない 冬に木に登ってはいけない

八世紀に編纂された四部医典にはこうした生活上の教訓が各章に記されているのだが、この一件以来、僕はどの一節も軽視せず心をこめて暗誦に励むようになったのである。たとえばこの一節に続いて「夜中に出かけるときは棒を携帯しなさい」とある。これも一見単純な教えではあるが、異国の土地において外出する際、強盗や狂犬などに油断してはいけない戒めとして心に刻み、天気に関わらず護身用に大きな傘を持って出かけることを心がけていた。おかげさまで北インド・ダラムサラ滞在の10年間、大きな事故や事件に遭遇することなく健康で過ごせたのは、平凡ともいえる教えを暗誦によって無意識レベルまで身体化したからではないかと、改めてチベット医学の教育法に納得がいった。

JAFの到着を待つジムニー JAFの到着を待つジムニー

 15年前のこの一件を思い出したのは他でもない、先日またしても崖から落ちそうになったからである。大好物の椎茸を栽培すべくクヌギの木をチェンソーで伐採し、1mの長さに玉切りして愛車ジムニーの後部にぎっしりと詰め込んだ(第282話)。そして落ち葉で敷き詰められた細い林道を走っていったのだが、あまりの疲労で大切なことを忘れていた。落ち葉の路面は滑りやすいこと。スタッドレスは雪には強いが濡れた路面には弱いこと。重い荷物を詰め込んだら必ず四輪駆動に切り替えること。そしてクヌギは木材の中で重い部類に入ること。突然ハンドルはコントロールを失い後輪が横滑りし谷側の路肩へと流れた。「しまった!!」。スローモーションのように時間が流れ、車の一回転二回転は覚悟したところ、以前、誰かが打った一本の木杭に奇跡的に車体が引っかかって横転だけはまぬがれた。四部医典を現代風に編纂するならば「落ち葉の路面は滑りやすい。重い荷物を積んだら四輪駆動」という一節を加筆して大声で暗誦に励まねばなるまい。やはり知識とは声に出して身体化しないと、いざというときに実践に至らないようである。そして15年前のあのときを思い出しながらJAF(一般社団法人 日本自動車連盟)の到着を寒空の下でひたすら待ったのであった。

いっぽう夜道での教訓は日本風にアレンジしていまも実践し続けている。森のくすり塾までの真っ暗な夜道を歩いて帰るときは棒は持たないが、熊と鹿に遭遇しないために必ずラジオを携帯し大音量で流し続けている。そのうえで森の中への神経を研ぎ澄ましていると心地よい緊張感に包まれる。日本では多くの若者がイヤホンで両耳を塞ぎながら歩いているが、車や人や動物や自然災害などあらゆる意味で危険察知能力が落ちてしまうことをチベット医として警告しておきたい。

最後に四部医典の教えをもう一つ。「話す言葉は、喋る前によく考え、大切なことは喋らないで心に留めおきなさい(同上)」。事実、軽はずみな発言から周囲の誤解を招き、悩んでしまう人はたくさんいると思う。かくいう自分もおしゃべりの代表格である。先日も食堂で調子に乗りながら知人の噂話をしていたら、まさに後ろの座席にその知人がいて驚いた。慌てたのなんのって。「人生のヤン(崖)」から落ちないためにも、あらためて四部医典の暗誦に励んで身体化しなければと気を引き締めている。

クヌギに菌株を打ち込む妻

クヌギに菌株を打ち込む妻

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