第24回●「ヒマラヤ杉」日本人コミュニティー

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

ヒマラヤ杉

最終暗誦試験ギュースム(第23話)を終えた二日後の2007年11月18日、僕はのんびりとした足取りでダラムサラ在住30年になるB氏宅を目指していた。チベット人が暮らすマクロードガンジという賑やかな街を通り過ぎ、ヒマラヤ杉に囲まれた閑静な道路を歩きながら僕は何度も足を止めてダラムサラの風景を眺めてみた。美しい…。7年10ヶ月ここで過ごしてきたけれどまるで初めて出会う風景のような不思議な感慨が湧き上がってくる。もう急いで歩く必要もないんだ…。今までどこへ行くにも必ず携帯した四部医典(チベット医学教典)はもう僕のカバンの中になく、その軽さが改めて試験が終わったことを教えてくれた。そして昼の11時に到着するとすでに多くの在住日本人が集まり僕の卒業記念パーティーの準備をしてくれていた。

ダラムサラには仏教や仏画、チベット語を学ぶ外国人が多数在住しており、日本人も僕を含めて10人前後滞在している。よく「日本語を忘れませんか」と尋ねられるが、僕は毎日のように誰かかしらを訪ねては日本語でお喋りをしていたので、その心配は全く無かった。事あるごとにみんなで集まって日本食パーティーを開き、日本から郵便物が届いてはみんなで分けあい、古い週刊誌を回し読みし、病気になっては助け合い、小さな日本人コミュニティーは僕の心の拠りどころとなって支えてくれた。大学に入学して1年生のころ、時間を見つけては寮を抜け出し、日本人の輪の中に入っていく僕を同級生たちは決して快く思っていなかったようだが、今となっては逆に、日本人が少なくなると「オガワが寂しがっているんじゃないか」と心配までしてくれているのは本当に有難い。
インド・パキスタン紛争の際は、ここが国境から80キロしか離れていないことから大使館から退避勧告が出され、在住日本人は毎日のように集まって対策を協議したものだった。ワールドカップ日本戦を見るために集まったのはいいものの、キックオフと同時に停電になり落胆したこともある。

在住日本人による卒業記念パーティー

「小川君、卒業おめでとう!」鍋をつつき、バトミントンに興じ、冗談に笑いあう。暗誦による衰弱でこの二日間、ほとんど食事を摂取できなかったけれど、懐かしい日本食は僕の心と体を少しずつ癒していってくれた。そして思考回路がようやく正常に回復するにしたがって、あの16日の日の出来事を冷静にふりかえり一体何が起こっていたのかが理解できてきた。そもそも無謀な挑戦であることは承知していた。それでももしかしたら奇跡が起きて最後まで完誦できるのではないかという甘い期待をしていた自分が今となっては恥ずかしい。確かに前半、極度の緊張感は僕に最高のパフォーマンスを与えてくれ普段以上のペースで暗誦は進んだ。しかし、最後の最後、3時間半(8割)を過ぎ、ゴールが見えてほっとした瞬間、僕の脳内に異常が生じる。それはもしかしたらチベット医学の神様のいたずらなのかもしれないし、単純に考えればそこまでが僕の精一杯だったのかもしれない。突如、意識が混濁しペースが一気にダウンする。僕の異変に気がついた周囲のざわめきがさらなる焦りを生んでいく。その時、事実上、僕のギュースム挑戦は終わっていた。フラフラになったマラソン走者のように一語一語ゴールを目指す。朦朧とした意識の中で、前に進むのを一瞬でも止めたならばもう、再びスタートはできないことは本能が告げていた。それからはとても暗誦と呼べるものではなかっただろう。最後の30分はほとんど記憶の中にない。拍手が聴こえてきたとき、ようやく終わったことを知ったけれども、咄嗟に出た言葉は「みんな、申し訳ない!」だった。ギュースムの頂はやはり険しく、後一歩、いや、その最後の一歩は今の僕には越えることが到底不可能な大きな一歩だったように感じている。

「でも、小川君、よかったじゃない。もう余力を残さず本当に力を全て出し切ったってことなんだから」

ヒマラヤ杉に囲まれた晩秋の陽だまりの中で多くの励ましを受けているうちに、もしかしたらこれでよかったのかもと思えてきた。この不達成感はきっと今後に繋がって行く。僕のチベット医学の旅はまだ終わっていないんだ。そしていつの日にか、もう一度ギュースムに挑戦し、そのときは必ず笑ってゴールしてみせる。

ギュースムに挑む筆者。 写真提供 和田武大様

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