第25回●「アワ」現代医学との交錯

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

アワ

薬草実習において男子生徒が山々を駆け巡ってツェルゴン(第1話参)など華々しい薬草を採取するのに対し、女生徒は来る日も来る日もアワ(ユリ科)という岩場に生える髭のような薬草を地道に採取しなくてはいけない。標高 3,000m以上の北向きの岩場に生えており、眼の特効薬として用いられる貴重な薬草である。僕も日がな一日、採取したことがあるが、この薬草で求められる条件は体力ではなく根気であることを痛感させられた。しかし岩場に生える他の雑草との判別が難しいこの変哲も無い草を、いったい誰が最初に眼に効果があると発見、いや、定めたのだろうか。その昔、何人の患者に試して効果を確かめたら教典に書き記されるまでに至るのだろうか。そしてそれは「本当」なのだろうか。

アワ・チャンコク・マ・タン・ミクラ・ペン
アワは内臓の傷と、眼病に効果がある。(四部医典論説部第20章)

残念ながら本当に眼に効くかどうかは現在のところ確証がない、というとチベット人から怒られるかもしれないが、事実、信憑性のある臨床データは得られていないし、チベット人が、特別に眼が健康で視力が優れている民族な訳では決してない。それでも病院に眼の患者がくれば、ほぼ例外なくアワが配合された丸薬を投与することになる。もっとも言い換えれば他に手段がないということでもあるのだが。

その一方、毎年、12月24日になると日本から眼科医チーム(NPO法人アジア眼科医療協力会)がダラムサラを訪れ、無料で白内障手術を行っていく。いわゆるアイキャンプ活動である。大学1年生の時から僕は通訳として手伝わせてもらい、かれこれもう6度目になっている。診察にはチベット人、インド人合わせて約 500人が訪れ、中には日本人医師の評判を聞き遠方から4日間かけてやってくる患者も珍しくはない。インド・チベットというと現地に根ざした伝統医学が繁栄しているように外国では紹介されることが多い。しかし、現地で暮らしていると、本音の部分では日本など先進諸国からきた医師に対する信頼は現地の伝統医学よりも大きいと感じる。
チベット医学は「神秘の脈診」「仏教医学」などと外国に誇大広告されてしまった故に短期的に見れば得をしている点もあるが、実際の現場にいる僕の同級生たちは意外と冷静にこの騒動を眺め、同時に医者としてのプレッシャーも感じている。僕のようにさっさと神秘の医者になることを諦めて世界一の薬剤師を目指せばどんなに楽だろうに、というのは日本人の考えであり、国を失った難民であるチベット人にとっては文化こそが拠りどころであるために簡単に認めることはできないということをこのアイキャンプを通して知ることになる。

手術見学風景

診療活動も2日目の午後になると落ち着くことから、僕は眼医者さんにお願いして同級生たちを2人ずつ順番に手術室に呼ぶことにした。ちなみに部外者を手術室に入れるというのは日本では考えられないことである。現地スタッフのチベット人からは「そんな勝手ことをして許されるのか」とお叱りに近い言葉も受け、事実、同級生も「俺たちが西洋医学の手術の現場に入っていっていいのか」とやや逃げ腰になっていた。そしてそれらの三者三様のギクシャクした雰囲気は彼らの、瞬きを忘れたのかと思うほどの好奇心、集中力によって一気に溶解することになる。恐らくテレビのブラウン管の中に入り込んでしまったような、それくらいの興奮だったのだろう。チベット伝統医学と最先端現代医療の交錯。内臓においてならともかく、眼に関しては知識、技術の面において何も得るものは全くないと断言できる。ただ、張り詰めた空気の中で僅かなミスも許されない日本の眼科医の姿から何かを感じとってくれればいいとだけ考えていた。

日本の眼科医の診察を見学する生徒たち

4年目、順序が逆になってしまったが最後にようやく大学において眼の章を担当している先生が手術室に訪れた。眼の章は教典の中で多くのページを占めているものの、診断法も含めほとんどが絵に描いた餅に過ぎず、白内障手術法も記されているがもちろん実践はされていない。日本の眼医者さんに少し教典の内容を紹介したところ「それは江戸時代に行っていた処置だね」と一蹴されてしまった。そんなこともあり先生の受けたショックは並大抵のものではなく、手術が終わっても眼科医に質問を繰り返していた。そしてチベット医学の聖なる知識が次々と「いや、ありえないですね」と経験に裏打ちされた眼科医によって否定される度に考え込む時間が長くなっていった。見かねた眼科医が
「じゃあ、現代医学を取り入れればいいじゃないですか」と提言したとき、先生は直ぐに答えた。
「そんなことをしたら、我々の医学が失われてしまう」
 間に入って通訳をしながら、この言葉はチベット医学のある意味において真実を語っていると僕は感じ、強く印象に残った。それでも帰り際に先生は僕に語った。
「オガワ、まだ手術を見学していない生徒がいたら必ず見せなさい」 
チベット医学はきっと少しずつ変わっていく。

参考:今年2007年も12月25日から5日間に渡ってアイキャンプが開催されます。

小川 康 プロフィール