小川 康のヒマラヤの宝探し

第207回 シャモ ~キノコの話~

 
tibet_ogawa207_3

昨年(2015年)の秋、15年ぶりにキノコ狩りに出かけた。秋の長雨のおかげでコムソウが大豊作。ところが久しぶりで目が慣れないせいか最初はなかなか見つけられない。落ち着け……、ヒマラヤでの薬草採取を思い出すんだ、と自分に言い聞かせる。五感を研ぎ澄ましコムソウの姿を脳裏に強くイメージする。すると20代のころの記憶が呼び覚まされてきた。

 チベット医学を学ぶまえ25~28歳のころ、僕は秋になるとキノコ狩りに信州の山々へと分け入っていた。なかでも憧れはブナ林で採れる天然のナメコだった。スーパーに並ぶ既製品とは異なりヌメリの部分が肉厚で味も濃厚だそうだ。いざ見つけんと笹ヶ峰(長野と新潟の県境付近)のブナ林を探しまわった。ところが登れど下れどまったく見つからない。落胆したまま山道に停めた車に戻ると、足元のブナの枯れ木に群生しているナメコに気がついた。不憫に思った山の神様がお恵み「努力賞」をくださったのだろうか。大自然に対するそんな畏怖の念が自然と湧き起こってきたのを覚えている。おかげで夜は味噌汁に入れて美味しくいただくことができた。

tibet_ogawa207_1タマゴタケ

ウラベニホテイシメジを採って食べる時はいつも緊張した。このキノコは美味で有名だが、同時に毒で有名なクサウラベニタケと似ている。はじめて採取したとき、念のため当時住んでいたアパートの玄関を半開きにしたままで試食することにした。万が一、毒キノコに当たって倒れても誰かに助けてもらうためだ。翌朝、無事に目が覚めたとき、人生の通過儀礼をひとつクリアしたような充実感に包まれた。そして、あらためてキノコ狩りを「狩り」と呼ぶ理由に納得がいったものだった。その他、タマゴタケはカラフルで一見、毒々しいがスープにするとそのままの色合いで美味だった。クリタケ、ハタケシメジ、リコボウ、ヒラタケ、ムラサキシメジなど大自然を舞台にした「狩り」の醍醐味は「ヒマラヤの薬草狩り」へとつながっていくことになる。

キノコは各地域で異なる名前で呼ばれることが多い。たとえば前述のウラベニホテイシメジは別所温泉ではイッポンシメジと呼ばれ、イッポンシメジは別の地方では毒キノコを指す。同じく上田地域でコムソウと呼ばれるキノコは他の地方ではショウゲンジと呼ばれる。地方名はときに混乱を生むことがあるが、別の見方をすればキノコを採取する文化がそれだけ盛んだという証でもある。いっぽう草木に目を向けると、かつてあった地方名は影をひそめ、ヨーロッパから輸入された学名ルールに取って代わられている。生きるための狩りではなく、知的好奇心として観察だけの対象になることで草木は地方名を失っていった。奈良時代には「薬狩り」と呼ばれる行事があり、薬草も「狩り」だったことを思い出してほしい。もともと人と草木は「狩り」の緊張感を通して対等に関わってきたのだ。

 ちなみにチベット語でキノコはシャモというが乾燥地帯のチベット高原ではキノコをあまり食さない。四部医典にも登場しないことからチベット医学との関わりは薄く、残念ながらここで話題が膨らまない(注)。そこでドイツのキノコ事情を紹介したい。ドイツではキノコの文化が盛んで、主に薬局の薬剤師がキノコの鑑定を担っていると伝え聞いた。キノコを抱えた村人たちが薬局へ足を運ぶとは、なんて素敵な社会だろう。だから日本の薬学部もキノコ鑑別教育に力を入れるべきだと僕は真剣に思っている。機械やインターネットでは最終的に決定できない五感力を試される場が薬剤師にあったなら職業的な魅力が増加する。

20101022124710リコボウ

久しぶりの狩りを終えた夜、コムソウの鍋を楽しんだ。美味い! 狩りをすることで野生の感性が呼び起こされ、食べることで野生のパワーを取り入れる。これこそ僕がチベット医学に憧れた理由である。よし、これからもアムチとしての矜持を保つためにキノコ狩りに励まねばなるまい。ただドイツの薬剤師のようにキノコの鑑別を請け負うにはまだまだ経験が足りないので、森のくすり塾への御持込みはどうか御容赦願います。


ただし湿性気候のブータンではキノコ文化が栄えている。松茸も豊富に採れるがブータン人は誰も食べないため、日本人向けだけに、日本人にとってはとっても安く、ブータン人にとってはちょっと高めに販売されている。