読書の流儀

つむじかぜ296号より

 
随分前になるが、“沢山本を読みたい”そう思って速読法の本を買ったことがある。試してはみたものの“こんなことしていたら頭の芯が疲れてしまうからダメだ”と勝手な言い訳をつけてすぐに止めてしまった。
 
しかし最近は、焦らずのんびり、一字一句じっくりと本を読んでいる。時間はかかるが、焦る理由など何もないし、沢山本を読みたいとも思わなくなったのでこれでいい。

前は、知識を得るために本を読んだ。私の中には、専門書までは読めないが、ちょっと一つのテーマについて知りたければ新書本、という観念があったから、新書本を週に一冊は読もうなどと目標を建てたりもした。

最近の新書本は、刺激的な表題がついていて、社会現象の一局面を大げさに解説したようなものが多いように思う。私も、時々購入して読んではみるが、どうも期待はずれなことが多い。こんな本を何冊読んでも心の糧にはならないなあと最近は感じる。むしろ、何回も読み返してみたくなるような本がほしい。

「無人島へ一冊だけ本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」と言ったのは、確か司馬遼太郎だったと思う。実際、兵隊に行っている間、肌身離さず持っていて何回も読んでいたそうだ。

考えてみれば、知識がほしいと思って読んだ本でも内容はほとんど忘れてしまう。もちろん、本は、読んだときは、年齢相応に大きな影響を人に与えてくれるのだから、その後忘れたって価値がないわけではない。

最近は、読んでいるうちにふと読むのを止めて考え込んでしまうことがある。以前は、結構、早く読むことばかり考えていた。実は、読書とは、本を読みながらゆっくり考えることだったのだ。じっくりゆっくり繰り返し考える。これは、結構楽しい。

大学生のころ倫理学の教授に、「年をとったら哲学をもう一度やりたくなるよ」。そう言われたことを思い出す。なるほど。そうかもしれない。

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